<連載小説 全7回>家庭内姉弟(第3回)
小学生杉田美亜、美少女・愛実は「宿敵」、弟・巧翔は「彼氏」。
第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回(完結)
3
「杉田さん、食べないの? めっずらしー」
「うーん……」
給食のミネストローネが傷にしみる。唇の裏が切れて口内炎になっているようだ。隣の女子の嫌味に答える元気もない。
巧翔が抵抗するからだ。無茶な勢いで顔面突撃した自分のことを棚に上げて、美亜は心の中で八つ当たりした。
しかも巧翔は今朝、ぐずって学校について来なかった。学校に来なければ愛実に見せつけることができない。役に立たない奴だ。
だが明日こそは引きずってでも連れ出してやる。
計画はこうだ。
朝の予鈴が鳴った後のホームルーム直前、クラス全員が集まる時間をねらって、教室の前のドアを思いきり開ける。皆は一瞬先生かと思って注目するだろう。そこへ美亜と巧翔が腕を組んで入場。
――王子様! 王子様だ!
ざわめく声、集中する視線を浴びながら、教卓からぐるっと回りこんで愛実の席の前へ。
そこで熱いキス。ちょうど先日、愛実がした(らしい)のと同じように。愛実のお株を奪って、皆の記憶を上書きしてやるのだ。
教室騒然、万雷の拍手。美亜は取り囲まれ、謎の王子と共にクラスの玉座へ。謎の――
と、そこまで妄想して、美亜は気が付いた。計画の重大な穴に。
この計画は当然、巧翔の正体を知っている者がいないことが条件になる。
巧翔が引きこもりだったのはこの際幸運だった。おかげで学校で巧翔の顔を知っている人間はいないのだから。そう安心してすっかり忘れていた。
ただ一人の例外を。
――立花に弟できたらさ――。
リフレインするのは誰の声だ。
――杉田んちと一緒だな。
悠太。
美亜のアパートのすぐ川向こうに住む悠太は、巧翔のことを知っている。
というかむしろ仲がいい。この前の日曜だって巧翔と遊びに家に来た――追い返したが。以前、迷子の巧翔を見つけてくれたことだってあった。
ヤツに騒がれたら計画は破たんどころか、身の破滅だ。
なんとかしなくては。
すぐにも釘をさしたいところだが、周りに人がいては計画の話はできない。学校から離れてからじゃないとだめだ。
じりじりと放課後を待って、さようならのあいさつと同時に悠太を引きずり出した。
「話あるから来い。早く」
悠太の腕を引っぱって、美亜は下校路をずんずん歩いていく。
「いて、いて、杉田なんだよって、放せって」
「まだ。こんなとこじゃ人がいるだろ、アホ」
「秘密の話? ……なんの話だよ」
美亜が返事をしないからあきらめたか、悠太はやけにおとなしく、だまってついてくる。
夏の太陽はまだ高く、歩くほどに死んだように静まっていく下校路に、二人の影はくっきりと濃い。
「なー杉田、アホ杉。もういいだろ。なんか話あんじゃないの」
アパートの前の橋まで来たとき、悠太が後ろから呼びかけてきた。
「誰がアホすぎか」
グーを振り上げるために、やっと離した悠太の左手首のあたりには、くっきり赤いあとが付いていた。妙な沈黙が二人の間に流れる。
ひとつ深呼吸して、美亜は切り出した。
「私、明日カレシ連れてくるから」
悠太の口が半分開いた。言葉はだいぶ遅れて出てきた。
「……。なにそれ」
「だからカレシ」
「おれじゃなくて?」
「アホ?」
誰がアホだーって、へらへら笑って言い返してくるいつものパターンのはずが、悠太は血相を変えて食らいついてくる。
「なにそれ。いたの。つくったの。いつ。誰」
うるさい。
「ばか、声大きいんだよ。悠太はだまってればいいから。誰にも、なんにも言うなよ」
「なんだそれ、どういうことだよ。だから誰なんだよ」
声を高くする悠太に、美亜はしっと口に指を当ててから、ひっそり告げる。
「巧翔」
「はあー?」
「巧翔だから。弟とか言うなよ。ぜったいバラすなよ」
「わっけわからん。どーゆーことどーゆーことどーゆーこと」
「なぐるよ」
「だってわかんねーよ。説明しろよ」
あまり悠太がしつこいので、美亜はぶっきらぼうに説明した。愛実にぎゃふんと言わせる計画。その秘密兵器としての巧翔のことを。
はじめかぶりつくように聞いていた悠太は、やがて脱力して肩を落とし、しまいにはかわいそうなものを見るような目になった。
「おまえなあ……」
「なに」
「なにって。あー、もう」
悠太は通学帽の下に手を突っ込んで、がりがり頭をかく。
「そんなんさあ、うまくいくわけなくね? かわいそうだろ、巧翔が」
「べつに」
「べつにじゃねーよ。そんな……ややこしいことすんなよ。立花は立花、杉田は杉田だろ」
「うるっさいな」
聞いたふうなことを言う悠太にイライラして、結局美亜の声も大きくなる。
「いいから、悠太は言うとおりに――」
「おれなんかふつうに杉田のが好きだけど」
「――あ?」
話の腰を折られて、美亜は一瞬自分のセリフの続きを忘れた。思わず見つめると、悠太は正面から見返してくる。
「ふつうに、杉田のが好きだけど。立花より」
同じことを繰り返す悠太の顔が急にいつもと違って見えた。
そういえばこの前もそんなことを言っていたが。その時のふざけた感じとは様子が違っていて、美亜はとっさに切り返せなかった。
「本気で言ってんの?」
美亜は茶化すように半笑いで言ったが、悠太は笑わない。
「いいだろ別に。人それぞれだろ」
なんだこいつ。アホなのか。悠太がアホなのは、今に始まったことじゃないが。
愛実より美亜の方が好きだなどと、正気の沙汰ではない。
というか好きって? 好きって……。
この前は言っていなかったその二文字に気付いて、美亜の顔は急に熱くなる。
悠太はそこでやっといつものように、にへっと笑った。生えかけの前歯を丸出しにして。
アホみたいな顔。そうだ、悠太はアホだからな。
でも悪い奴じゃないんだってことも、わかっている。悠太が巧翔を知ったきっかけだって――と、美亜は唐突に思い出した。
巧翔が近所で迷子になったのは、去年の夏のことだ。
美亜は真っ暗になるまで探し回って、でも見つからず、暗澹たる気持ちで帰ってきて。
アパートの階段下で、悠太と瑠美にあやされる巧翔を発見した。
商店街の外れで、泣いていた巧翔を偶然見つけたのが悠太だったらしい。
頼りない蛍光灯に照らされた美亜に気付いて、悠太はきょとんとした顔をしていた。
――杉田? ここおまえんちなの? よかった、鍵かかってたし、誰も出なかったからさあ。こいつ、おまえの弟?
そういえば悠太がやたらとかまってくるようになったのは、あの時からだったような。そうだ、あの時悠太に礼を言ったっけ。言っていなかったかもしれない。あの時笑っていた悠太。今の悠太も変わらずアホでうっとうしい、だけど、だけど……ああ、もうよくわからない。
照れたように笑ったまま、悠太は言った。
「おれら、ちょうどいいと思わん?」
「……ちょうどいい?」
ゆだるようだった美亜の頭に、その言葉は冷たい影を差しかけた。
「ちょうどいいってなに?」
「え? なにって」
「脇役だから? 悠太もそうだから? だからちょうどいい? ちょうどよくて? それなりって?」
「なんだよそれ、ちげーよ。ただおれ……」
美亜に唐突にたたみかけられて、悠太の言葉は途切れ途切れになった。
愛実は愛実、美亜は美亜。当たり前だ。
愛実は、クラスのアイドル。お姫様。お相手の瑛は王子様。つまり違う世界の住人で。
そうだとしたら、愛実は永遠に美亜に気付かないだろう。美亜なんかそこにいないみたいに、目もくれないで通り過ぎていく。
美亜はにらみつける、ずっとにらみ続けている、愛実の後ろ姿を……。
「杉田」
「やだ」
伸ばしかけていた悠太の手が止まる。
「悠太じゃ、やだ」
「……あっそ。そうかよ」
なんともあっさり、悠太はその手を下ろした。口がとがって、ふてくされたような表情が見えたのはほんの一瞬。
悠太はくるりと背を向けて橋を渡っていく。ばーか、とは言わずに、何も言わずに。
悠太の手が、いつもみたいに美亜の髪を引っぱろうとしていたのか、それとも美亜の手を取ってつなごうとしたのだったか。
美亜にはわからないままだった。
<第4回へつづく>