見出し画像

<連載小説 全7回>家庭内姉弟(第6回)

小学生杉田美亜、美少女・愛実は「宿敵」、弟・巧翔は「彼氏」。

第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回(完結)


「巧翔!」

立ちつくす美亜の脇でさっと素早く動いたのは、悠太だった。麻衣奈の腕を振り払い、迷いなく巧翔を追いかけていく。

「ちょ、ゆうくん? ゆ――」

狼狽した麻衣奈が呼びかけるが、悠太はすでに声も届かないほど離れている。すぐに巧翔と同じ人ごみの中へ消えた。

「……行っちゃった。は? 行っちゃったんだけど。なに? なんで?」

麻衣奈は非難の目で美亜を見、他の皆を振り返り。誰からも返事がないのを見て、信じられないというふうにその場に座り込んだ。
他の皆も困惑顔で、巧翔と悠太が消えた方をうかがっている。

「どういうことだよ? 杉田の弟? なんで悠太が知ってんの」
「ねえ、これって迷子になるんじゃない? 私たちも探した方が……」
「でも全員いなくなるのやばいよ。誰か悠太待ってないと。麻衣奈、悠太の電話――」
「は? なんで私? 知らないし」

美亜はただ、呆然としていた。白い日差しの中、鳴り続けているファンシーな音楽さえ遠くに消えていくようだった。

――ぶった、巧翔が、巧翔がぶった。

ぜんぜん痛くなかったけど、でも。巧翔がぶつなんて。美亜の目に、吹き飛ばしたはずの涙が再びにじみ出してくる。

「愛実? どした?」

だがその時聞こえた名前に、条件反射で美亜は反応した。一瞬で現実に引き戻される。
少し離れた場所から、声をかける瑛に答えもせず、愛実が美亜の方を見つめている。
視線がぶつかる。
自分の目から流れ落ちる涙に気付いて、美亜は腕でぐっと顔をぬぐった。あわてて帽子を目深にかぶり直し、愛実の瞳から逃げるように背を向ける。
混乱する美亜の背後に、すとすとと控えめな足音が近づいてくる。
声が聞こえた。

「いいの?」

憎らしい声。いつも遠くで聞こえていた、鈴のような細い声が、美亜に話しかけていた。

「いいの? 追いかけなくて」

なんだ、なんで愛実が話しかけてくる。
美亜の計画は破たんした。笑うつもりか? なら振り向くわけにいかない。この顔を見せるわけには――逃げなくては。

美亜はとにかく歩き出した。巧翔が走り去ったのと、それは反対の方向だったけれど、そんなことを考えている場合ではなかった。
ところが、後から美亜を追いかける足音が聞こえてくる。呼びかける声も。

「ねえ、杉田さん」

愛実の声だった。愛実がついてくる。くそ、なんでだ。美亜は駆け足になる。愛実の足音もテンポを上げてついてくる。

「愛実ほっとけよ、なんかやばいって」

瑛の声がやや遠くで聞こえる。それに答えるでもなく、愛実は声を張り上げる。

「追いかけなきゃ。探さなくちゃ。弟、でしょ? 杉田さん!」

ついてくるな。関係ないのに。
めちゃくちゃに走るうち、ざわめきの中に鉄を切るような鋭い音と嬌声が聞こえてきた。
美亜の目に、にゅっと高く突き出したシルエットが見える。タワーにそってリフトがはるか上空に上り、猛スピードで垂直に落ちていく。

「ねえ、って、どこ、いくの」

深い考えはなかった。ただしつこくついてくる声を振り切りたくて、美亜はドロップタワーの下までどんどん走っていった。
ふもとの券売機でわき目も振らずにチケットを買う。

「なにしてるの、杉田さん」

四面に四つずつ並んだシート、空いている面の中央に美亜は飛び乗る。
ゲートの外で立ち止まる愛実が見える。遅れて走ってきた瑛もあきれたようにこちらを眺めている。
ようやく引き離せた、と美亜が安堵していると、愛実がすっと一歩を踏み出した。係員に素早くフリーパスを見せて、美亜の席に歩み寄り、隣のシートに座り込んだ。
セーフティーバーが自動で下りてくる。

「杉田さん」
「――なんでついてくるんだよ!」

思わず美亜はどなりつける。

「弟でしょ? 弟じゃないの?」
「だから、弟じゃないって……」

ブザーが鳴り、リフトが不穏なきしみを上げる。
上りはゆっくりかと思っていたのに、いきなりロケットの打ち上げみたいに急上昇した。重圧に美亜は思わず目をつぶる。次に開けた時には、風景が一変していた。
おもちゃ箱のような遊園地の全景、それを取り囲む小さな街。彼方に山々の影が青くそびえているのまで見える。
――すごい。
愛実が息をのむ音が聞こえた。と思った瞬間、轟音を上げてリフトが急降下した。
帽子が飛んでいく。足がふわっと持ち上がり、上空に心臓が置いていかれる。
一瞬すべてが消えて――ちっぽけな遊園地も街も愛実のことも巧翔のことも、家のことも学校のことも、すべてを追い抜いて置き去りにできたような錯覚を、美亜は覚えた。
地面に足がつき、バーが上がる。おぼつかない足を踏んばって美亜は立ち上がった。
乱れた髪で青い顔をしている愛実が、ふらふらと後をついて来るのを、美亜は一瞬だけ見たが、見ないふりをした。
ゲートから出るなりまたチケットを買った。愛実の悲痛な表情にも、小銭入れが空になったことも知らんぷりで、元の席に戻る。
さすがにもうついて来られないだろう、いい気味だ。ざまあみろ。
もういい、もう知るか。

「愛実、大丈夫か。もうほっとけって、な」

瑛が愛実に、猫なで声で呼びかけている。知るかと思ったのに、美亜はつい様子をうかがってしまう。
差し出された瑛の手を、愛実は取らなかった。

「そっちこそ……ほっといて、もう」
「あ、愛実?」
「平気だから。自分で決めるから」

あっけにとられた顔の瑛を後に、愛実はこちらに戻ってくる。またしても隣に座った愛実に、美亜は自分から声をかけていた。

「なんなんだよ」
「あの子。巧翔くん。弟、でしょ」
「――なんなんだよ!関係ないだろ!」
「でも、弟なんでしょ。私――」
「きらいだ、おまえなんか!」

言い放つと、愛実は泣きそうな顔でうつむいた。またその顔だ。美亜はイライラして視線を背けた。
セーフティーバーが下りてくる。
そのとき、しぼり出すような声がした。

「――わたし――だって」
「え?」

思わず聞き返そうとした時、リフトが動いた。ぐあっと急上昇するGに、美亜は目を開けていられなくなった。

「私、だっ、て!」

悲鳴のような声が、轟音にかき消されず、美亜の耳に届いた。

「弟が――できるんだもん!」

タワーの頂上でリフトは止まる。再び眼下に広がった景色も見ずに、束の間、美亜はすぐそばにある愛実の顔をながめた。

「強くなるんだ」

息も絶え絶えで、血の気の引いた白い顔。それでも愛実の視線は、確かにまっすぐ美亜に注がれている。

「杉田さんは? あの子、弟なの? 弟じゃないの?」
「……だから……」

答えは決まっていた。何度も言っている。なのに美亜は即答できなかった。
リフトが落下を始める。世界が流転する感触に、美亜は目をきつく閉じた。

去年の夏休み。巧翔は美亜の前に突然やってきた。
父親と一緒に、狭いアパートに転がり込んできたというのが正しい。巧翔の父親は働きにも行かずゴロゴロ邪魔だったけれど、美亜にはそんなことどうでもよかった。
降って湧いた「弟」の出現に、美亜は狂喜した。
転校手続きもまともにされていないせいで、家にいるしかない巧翔をいつも無理に連れ出した。
外ではぐれたあの時は、死ぬほどあせった。見付からずに絶望して帰ってきて、階段の下で悠太と瑠美にあやされる巧翔を目にした時、知らず涙がこみ上げた。

――こいつ、おまえの弟?

あの時そう聞かれて嬉しかった。答えることができて、もっと。

ぱっと目を開けた瞬間、一瞬何かが目の端をよぎった。形を失って上方へ流れ去っていく景色の中で、なぜかそこだけ確かな輪郭をもって。黄色い、小さな点。
リフトが止まり、バーが上がるのを待つのももどかしく、美亜は発射された弾丸のように駆け出した。

「杉田さん!」

へたり込んだまま、それでも声高く呼びかけてくる愛実に、振り返らずに美亜はどなり返した。あの時と同じ答えを。

「弟――だよ!」

                        (第7回へつづく)

いいなと思ったら応援しよう!