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20241107木


 今日は印象的な夢を朝に見て、昼に本を少し読めた日だった。

 昨日は22時半ごろに眠る。4時に起きる。
 朝食をとってまた眠る。

 夢をみる。上に書いた通り、印象に残る夢であった。私の来世についての夢だった。
 今世を生ききっていないのに来世の話かよ、と思われても仕方ない。来世については、今抱えている病と関わる話でもあると日頃から感じているので、重要に思えてしまうのだ。

 結果から言うと、はたからみて、ひどく悪い状態になる来世であった。夢の話だけど。
 日頃の行いの悪さがこうまで影響したか、と改めて思わさせられる。
 自分が悪いから、まあそうなってしまうのも仕方がないか、と諦めもある。
 本当はこういう風になりたいとか、思うこともあるかもしれないけど、今、具体的には考えられなかった。
 起きてから見た内容を書きとめる。

 10時半になった。ご飯は今朝、十分食べたので、もういらない…と思いたかった。空腹感を無視して、何も食べずに、本を持って出かける。
 ショッピングセンターのフードコートへ向かった。そこで、ココアとキャラメルマキアートを飲んだ。110円と200円。昨日の喫茶店代より安い。

 本「ラッセンとは何だったのか? 増補改訂版」を読了させたかった。途中まで読んだが、難しくて理解できなかった。わからない単語が多い。何書いてあるか、例えがちっともわからん。諦めた。

 せめて、何かわかるところはないか。嘆きながら、最後の方に椹木 野衣(さわらぎ のい)の寄稿があることを確認して、読んだ。

 椹木野衣の文章は、本「感性は感動しない」で読んでいて、わかりやすいと知っていた。だから理解できると期待した。

 「ラッセン」本における椹木野衣の寄稿内容は、なんだか、偶然のこじつけ、にしか感じなかった。それでも、他の寄稿と比べて、読めた方かと思える。
 「偶然のこじつけ」としか読み取れなかった私の頭が残念である。もっと美術に対する優れた理解や技量を持っていれば、違う感想が持てたのかもしれない。

 なぜ、偶然のこじつけだと思ったか。

 ひとつめは、さっきも書いたように、私の知らない知識がそこそこあって理解が及ばなかったからだ。理解ができないと、書かれている内容は、私にとって、読んでいるところにあった、たまたま並んでいる単語に過ぎない。

 ふたつめ、遠いハワイに住む画家であるラッセンの犯した器物破損事件の年と、日本での元号の転換の年がおなじ2019年だった。…としても、それはどちらも転換の時であろうが、やっぱり偶然でしかないと思ったから。

 みっつめは、イエス・キリストというワードと、クリスチャンというラッセンの名前の一部を関連付けるのは、私には、こじつけにしか感じられなかった。

 他の部分も読めたけど、読めたからと言って自分でうまく説明できない箇所であった。飲み込めてないというか。
 もう一回読んだらまた違う風に見えてくるのだろうか。でも読み返す努力も今はしたくない。面倒に感じてしまう。

 なんで理解できないんだろう。誰かの解説とかあったらわかるのかな。何がわかんないかっていうと、おもに単語。横文字が多い。
 読みたい気持ちが、調べる手間で、失われていく。

 しばらく時間を置いてからこの本を読むべきだろうか。時間を置いたところで読む努力ができるのだろうか。売った方がいいのか。

 そっと本を閉じた。



 「一度読んだら絶対に忘れない 文章術の教科書」を読み始める。
 借りてきた本である。
 わかりやすかった。
 最後に練習問題があって、答えを見る前に挑戦してみた。こういった練習問題がのった本は、たいていいつも答えを見るだけで終わる。でも、文章がうまくなりたいと言う気持ちが強かったのか、問題に取り組んでみようと思えた。

 私の答えは、模範解答と比べて、全然良いものではなかった。だからこそより勉強になったという実感が湧いた。この本を読み終えて、良かったと思う。





 14時。家に着く。今朝、母が作ったサンドウィッチを見つける。食べる。おいしい…。

洗濯物を取り込んでたたみ、この記事を書く。
14時26分。これから何しよう。

 歩いて家まで帰ってくるとき、考えてた。私は何を表現したいんだろうって。絵画とか、イラスト、漫画、アニメーション、…媒体にこだわる前に、一体何を見せたいんだろうって。

 ナンバーアイの「INZM」(イナズマ)って曲を聴いていると、プロデュースした神宮寺くんの持っている感覚みたいなものが伝わってくる感じがして、ああ、こういうのを表現したいんだなっていうのが頭の中で一瞬、駆け巡る。
※私の持った感想は、神宮寺くんが表現したかった結果ではないかもしれないけど。

 そういう、表現したい自分の感覚、みたいなものが確認できればいいんだけどな、って思う。作品を見直してみればわかるかな?

 単にネタが尽きてるから、そう思うのかもしれない。ネタなんてそこらじゅうに転がってる気もするのに。いまいちピンとこない。私の感度が下がっているだけか。感度が上がった、なんてためしもないがな。


 それから、この記事を書きながら気がついたことがある。
 私が書く文は、感想が多い、事実が少ない。

 椹木野衣の寄稿を「偶然のこじつけ」と表現してして、その下に感想を書いていたけれど、なぜそう思ったのかの事実を説明せずに書き進めていた。説明がないから「偶然のこじつけ」という感想に説得力がなかった。だから、書き加えた。ひとつめ、ふたつめ、みっつめ、という列挙がそれである。


 日頃から書いている物語も、もしかしたら感想のような、登場人物の思ったことを書く部分が多いかもしれない。そして、起こったことを書くのは少ないかもしれない。
 起こったこと、すなわち登場人物の行動、が書かれてない。具体的な行動が書けてない。だから、"肉"の部分もなく、文字数も少ない。

 普段から、私の起こすアクションが少なく弱いから、それがそのまま出ている気もする。自ら進んでする行動は、本を読むか絵を描くか、眠るか、食べるかくらいである。どこどこ行きたい! ◯◯したい! は頭を使ってなるべくお金を使わない方向性にしないといけない。お金がないから。
 何かをするにも待ちの姿勢が多いかもしれない。

 行動する時にも、金を使わずして頭使うのが嫌なんかな。何かをしたいって気持ちは金銭面で制限されることがよくある。
 支払ってもらう親に「申し訳ない」という気持ちが、できてうれしいより先に来る。


 言い訳ばかりの記事になった気がする。
 読んでいて気持ちのいいものじゃなかったら、ごめん。

 あと、私の文、たぶんわかりにくいよね。
 読み返してても、私はなんとかわかる…、くらいだから、読んでる人はさっぱりわからんのではないかと思えてくる。

 うまい文章とは、問いと答えがあるものだ、と今日読んだ本で学んだ。私はちゃんと問いを立てて、それに答えているんだろうか。

 そもそもブログには、その日のことを書くのである。問いは「今日はどういう日であったか」、答えは「〜〜〜こういう日だった」だ。
そこに「今日何を考えたか」も入れるので、「◯◯を考えた」も書く。
こう見ると単純なのに、書く時は冷静に書けないんだろうな。


考え事してると長く書いちゃう。
ここまで読んでくれてどうもありがと!
おやすみ!

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