火が人類にもたらした恩恵 (後編)
この記事は 火が人類にもたらした恩恵 (前編) の続きです。
火の恩恵
それでは火を使うようになったことで人類の生活にはどのような影響を与えたのか考察していく。
暖をとれる
人類は火を使用できるようになる以前には寒さというものは直接的に死に直結する課題だった。
400万年以上の人類の歴史のなかでは何度も深刻な寒冷期を乗り越えてきており、寒冷期のたびに人びとは多くの犠牲を払ってきた。
いくら洞窟の奥だろうとも寒冷期の寒さは耐えられるものではなかったため、獣の皮をかぶったり家族で体を寄せ合ったり何かしらの方法で耐え忍んでいたのだと思われる。
焚き火を覚えてからはある程度の寒冷地にも住むことが可能となり、人類は地球上の広い地域に渡り歩くようになったと考えられる。
北京原人(ホモ・エレクトスの亜種)の発見された地域ではかなり厚さのある灰の層が見つかっており、これを彼らが長期にわたって火を絶やさないように燃やし続けた形跡と考える研究者も少なくない。
ドラム缶風呂などの例を出すまでもなく、スイッチひとつで風呂のお湯を電気で沸かせるようになるまでは人びとはつい最近まで薪をくべて火を焚いて風呂を沸かしていた。
温水風呂に関しては紀元前2000年頃の古代オリエントの神殿で薪を使っていた形跡が確認されており、温かい風呂に入れるようになったことは人類の衛生観念と心のリラックスにとっても大きな影響を与えたはずだ。
エアコンのような電気式の暖房が普及した21世紀現在でもストーブや暖炉は人びとの日常的な暖房として現役で活躍している。
暗闇を照らせる
火はそれ自体が光源となり薪は松明(たいまつ)として持ち歩くこともできるため、これにより寒くて暗い夜間にも行動できるようになった。
のちに油が燃料として明かりの維持に使われるようになってからは、人びとは電気の使用が一般化する20世紀の前半に至るまでランプや行燈(あんどん)といった主要な光源として長きにわたり火を用い続けた。
19世紀初頭のヨーロッパではガス灯が普及し、19世紀中盤からは石油の増産と精製技術の向上により照明用の油として鯨油に代わって主力となった。
宗教行事においては火は不可欠であり、蝋燭(ろうそく)は現在でも停電や災害により電気のインフラが断絶された際には貴重な光源として活躍する。
獣や虫を寄せ付けない
古代においては肉食の獣や有毒な虫は極めて身近なものであり、人類史のかなりの期間において人びとの大きな脅威であり続けた。
まさに毎日が喰うか喰われるかのサバイバルに他ならず、多くの祖先がこの犠牲として命を落としたに違いない。
こういった問題にとって火は非常に効果的であり、一般的にたいていの動物や昆虫はこれを恐れて近づかない。
そのため火を焚き続けることで毎晩のように住処を移動しながら怯えるように寝る必要がなくなり、場合によっては安住地として同じ場所に定住することも可能となった。
いっぽうで電気の街灯には蛾などが群がっているがこれは彼らが好き好んで集まっているわけではなく、虫たちは暗闇のなかで見えるものは紫外線だけなので自然とそこに群がってしまうのだ。
ましてや近づきすぎて熱で焼け死んでしまうこともあり、朝方になって街灯の下に焦げ落ちている虫たちを見るたびにその哀しい性(さが)に同情を禁じ得ない。
調理ができる
多くの植物には灰汁(あく)が含まれ、豆科や根菜にはトリプシンやシアングリコーゲン、亜麻やキャッサバにも配糖といった有毒成分があり火を使えるようになるまでは植物の大部分は食用とするのが難しかった。
加熱せず食用にできたのは種や花、果肉など単糖や炭水化物を含む部分だけであり、植物食の加熱調理により澱粉(でんぷん)の糖化が進んだ結果、人類の摂取カロリーが増えて脳が大型化した可能性があると主張している学者もいる。
生のままでは食べることが困難な穀物や豆類、芋といった現在でも世界各地で主食とされている栄養価の高い食べ物が食べられるようになったことは大きい。
また栄養価の向上も目覚ましく、黒化した獣の骨が古い地層から多数見つかっていることからも明らかなように動物肉や魚の加熱調理も火の使用のかなり早い段階から始まっていたと推測でき、ホモ・エレクトスの歯の付着物からは加熱調理しなければ食べられないはずの硬い肉や根菜類の成分が確認されている。
もともとは山火事などで逃げ損ねた動物の焼けた肉を食べたことから加熱調理を覚えた可能性もある。
加熱調理すると寄生虫や細菌の多くが死滅し、生肉の場合よりも消化に要するエネルギーが少なくなり、コラーゲンのゼラチン化を助けて炭水化物の結合をゆるめ吸収しやすくなるうえに食味も良くなる。
土器を使うようになってからは水を入れて煮ることで焼くだけでは硬い食材を柔らかく調理することを可能にし、金属器の登場によりさらに効率的な加熱を実現した。
このように植物性と動物性どちらからも栄養成分を摂取することが容易になったため人類はそれまでよりも遥かに生き延びやすくなったと考えられる。
その後は油で炒めたり揚げるといった調理法も考案され、20世紀後半からは電子レンジや電磁調理器といったそもそも火自体を使わない加熱調理ができる機械も発明された。
火の発展的な利用
人類は長い歴史を経て原始的で個人的な利用にとどまらず各種産業にも火を利用し始めた。
農業への利用
山火事などで焼き払われた大地にはしばらくすると草原が発生し、これが草食動物の絶好の餌場となったため狩猟採集時代の人類にとってはハンティングのパラダイスとも言えた。
幾度となく山火事を経験するうちに古代人たちはこのメカニズムに気づき、ある時期から人為的に野焼きをして草原を維持し、安定した食糧供給を実現するようになった。
やがては森林地域でもこの方法を使うようになるが、立木や生木は燃えづらいため木を切り倒して乾燥させてから火を放つことにした。
人びとはこの知識を応用し、野焼きをして拓(ひら)けた土地に穀物や芋などを植えて畑を作り始め、これが焼畑農業の始まりだったとされる。
焼け跡に残った灰は肥料となり、焼畑をした土地では数年間は良質な作物の収穫ができた。
地力が落ちてきたと感じたらその畑を放棄して土地を休ませ、新たな場所の木を切り倒して火を放ち次の畑を作る。
そのようにして数ヶ所土地を移動しているうちに数十年放置されていた昔の畑には森林が生い茂っているため、次の世代はまたそこを焼き払って畑とするという休閑サイクルができた。
焼畑農業は近現代でも熱帯地域などで広く続けられているが、サイクルの短さによる地力の消耗あるいは森林火災や地球温暖化への影響を指摘されるようになり減少傾向である。
他にも、例えば日本においては収穫を終えた水田に残った枯れた稲や藁を燃やし尽くすために火を放つ火入れという作業をおこなうことがあり、これは害虫駆除の目的や燃やしたあとに残る灰を肥料にするという目的を兼ねているとされる。
工業への利用
温度の違いによって物質の状態を変化させることのできる火の性質は太古から工業にとって欠かせない存在だった。
最も古い利用法としては粘土で作る土器の焼成(しょうせい)であろう。
土器は焼く温度を上げることで陶器や磁器といったより強度の高い焼き物に仕上がる。
次に当時の職人たちは金属の精錬術を覚え、まずは融点の低い銅から始めたのだと思われる。
銅と錫(すず)を混ぜ合わせて硬さを増した青銅の精錬ができるようになったことで、人類は青銅器時代と呼ばれる石器時代からの時代の転換点を迎えることとなった。
さらに鉄の精錬の開始によって鉄器時代という一大革命を迎えることになる。
軍事への利用
火薬を用いる銃火器や大砲は21世紀現在の戦争においても主要な兵器となっている。
古代から火は戦いにおいてさまざまな方法で利用され、狩猟採集社会では他部族の住む野原や森林を焼き払うことで食糧を得にくくして敵を追い払った。
ホメロスの『イリアス』にはトロイアの町を焼き払う場面が描かれている。
東ローマ帝国は海戦においてギリシア火薬と呼ばれる焼夷弾(しょういだん)を用い、これは船が水上に浮いている間延々と燃え続けるため敵軍に多大なるダメージを与えた。
第一次世界大戦では歩兵が手持ちの火炎放射器を使用した。
第二次世界大戦では火炎放射器を車両に装備し、ロッテルダム、ロンドン、ハンブルク、ドレスデンには焼夷弾による爆撃が相次いだ。
アメリカ軍による東京大空襲では約32万7000発のM69ナパーム弾(油脂焼夷弾)が使用され、以降日本本土各地への空襲で総数192万発ほどのM69が爆撃機から投下された。
ナパーム弾はベトナム戦争の北爆(ローリング・サンダー作戦)でも多数の死者を出した。
日本国内でも1960〜1970年代の安保闘争や全学共闘会議による学生紛争などでは火炎瓶を使った威嚇攻撃や殺傷がおこなわれた。
発電、火葬、花火
先史時代から木材は燃料として使われているが、現在の火力発電の大部分は石油、石炭、天然ガスといった化石燃料に依存している。
火で水を熱することで発生する蒸気がタービンを駆動させタービンが発電機を駆動させて発電がなされるが、外燃機関や内燃機関では火が直接働く。
全世界のエネルギー源の80%強が化石燃料だと言われ、火力発電は今日でも発電量の大きな部分を占める。
死体の処理には古代から人びとは悩まされていた。
人間を含む動物の死体は放っておけば凄まじい悪臭が放たれすぐに蛆(うじ)などの虫が大量に湧き始めるが、かなりの高温で一気に焼いてしまえば骨だけになり悪臭や虫が湧くことを防ぐことができる。
日本は熱心な信仰を持たない人が多いのでほとんどの場合は仏教系の家庭の人も神道系の家庭の人も遺体は火葬されるが、このように火葬をしている国は世界では仏教やヒンドゥー教などの一部の地域だけであり、アブラハムの宗教(ユダヤ教/キリスト教/イスラム教)や儒教においては人を焼くことは禁忌と捉えられているため土葬が一般的である。
火葬が一般的な国でも王族や皇族、宗教指導者や国家元首経験者など高貴な身分の人物は土葬される場合がある。
しかし20世紀は後半に至るほど指数関数的に人口が激増し、20世紀半ば以降に生まれた人たちが死に始めてからは土葬する墓場の土地が不足してきたこと(土葬にはとても大きな穴を空ける必要がある)、火葬への禁忌感が薄れてきたことからキリスト教圏のアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ロシアなどでも少しずつ火葬率が増えてきており、韓国においては1994年では火葬率は20%程度だったが2015年では80%を超えている。
娯楽のひとつとしても火は用いられている。
打ち上げ花火は現代でもほとんどの祭りにおいて使用され、個人用としても商店で簡単に手に入る手持ち花火やロケット花火、線香花火などは夏の風物詩となっている。
日本には室町時代頃に最古の花火が大陸から持ち込まれたと見られ、戦国時代には鉄砲や火薬と同じくして観賞用の花火も伝来しただろうと言われている。
1582年には現在の大分県臼杵(うすき)市にある聖堂でポルトガル人のイエズス会宣教師が使用したと記録されている。
江戸時代には戦乱が止んだため火薬が余り、鉄砲用で生計を立てていた火薬屋が花火を専門に扱うようになったと見られ、岡崎を中心とした三河地方は徳川幕府に唯一公認された花火の製造地となった。
両国の川開き(現在の隅田川花火大会)の際に両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋という花火業者が担当したことで「たーまやー」「かーぎやー」という掛け声が生まれ、現在でも花火が打ち上がった際に叫ばれることがある。
その後に江戸では花火が流行りすぎた結果として打ち上げ事故や火災がたびたび起きて何度も禁止令が発令され、次第に花火文化の中核は地方へと移っていった。
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