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シニアに学ぶ『退職後の輝き方』第10回【特別編 現場レポート】土木技術者から見た福島復興の課題 ~発災から 3 年、復旧とは違う復興の難しさ~

                   執筆年月日:2014 年 4 月 16 日

この記事は、2012年~2017年にかけて当委員会で連載されたインタビュー企画である「シニアに学ぶ『退職後の輝き方』」で掲載した記事を再掲載するものです。内容等については、掲載当時のままになっていますので、ご留意ください。

 第 10 回“ シニアに学ぶ 『退職後の輝き方』”では、福島県広野町で任期付職員として活躍されている尾田栄章さんにお話を伺いました。尾田さんが70歳を過ぎてから取り組み始めた広野町の復興。尾田さんは着任後、広野町を自らの足で歩いて回り、また町民を一人一人訪問されました。
 我々、インタビュー聞き手の 3 人は、復興状況と問題点を少しでも共有するため、広野町、そして楢葉町・富岡町と車で回りました(図 1)。広野町は東京電力福島第一原子力発電所の20km圏内の外側にありますが、楢葉町の大部分と富岡町は避難指示区域に指定されており、宿泊などが許可されておりません。

図 1 広野町・楢葉町・富岡町と避難指示区域の関係(2014 年 4月 16 日現在) (http://www.kantei.go.jp/saigai/pdf/20140401gainenzu.pdf を基に作成)

 案内は、尾田さんが広野町役場着任時一緒に現場を共にされた賀澤正さんにしていただき、駆け足ではありましたが、被災当時の様子から現在の状況まで幅広いお話を伺うことができました(写真①)。
 賀澤さんは 2011 年 3 月 11 日の発災時は広野町の建設課長、定年退職まであと 1年ないというときでした。広野町のインフラを預かる身として、そして広野町役場職員最年長として、発災後懸命に復旧・復興に取り組んでこられました。賀澤さんから聞いたお話、そして視察を通じて見た風景。土木技術者として感じた、課題、美徳、理不尽、そして現地の終わらぬ復興の状況をお伝えいたします。

写真① 被災後の復興状況を説明する賀澤氏(写真右)

広野町

シームレスな国土整備を
 最初に我々は広野町の海岸付近の様子を見に行きました。海岸の災害復旧事業は、背後に農地が控える部分は農水省管轄、河川の河口部分では国交省管轄で行われており、更に災害復旧ではなく海岸整備をする事務所と合わせ、近接地域に 3 種類の消波ブロックが見られます。こういうつなぎ目が災害時には弱いから、管轄は違ってもシームレスにつながってほしい、という思いで賀澤さんは説明してくれました(写真②)。

写真② 農水省管轄(写真左)と国交省(右)の 消波ブロック。形状が異なる。

復興計画と変化する住民の想い
 海岸線から約 100m の所には、津波対策として、盛土により幅50mの防災緑地が整備される予定です。発災後住民も交えて検討された防災緑地ですが、当時住民は海なんて見えなくても良いからとにかく津波だけは防いでほしいという思いだったのが、復興が進んでくると今まで海が見えたのに見えなくなるのは良くないし逆に不安だ、という意見も出ているそうです。津波シミュレーションなど最先端の科学技術や住民参加型手法など様々な面に配慮して策定した復興計画ですが、時を経るにつれて変化する住民の想いにまでは、行政・土木技術者・住民とも考えが及ばなかったということです。復興の難しさの一端に触れた気がしました(写真③)。

写真③ 海岸沿いに造成中の防災緑地(50m 幅) 。写真手前側が海岸につながる。

土木技術者としての使命感
 北迫川下流に架かる仮設の下水水管橋。これらを含め、広野町の上下水道、道路は発災後約 3 か月半で復旧を終えたとのことです。発災から約 1 か月後、賀澤さんは町内の建設業者 7 社の社長さんに避難先の小野町に集まってもらい、放射線量は高いから 1 日 2 時間週 3 日で若い人はダメ、復旧に対する予算の目途は立たないという状況を明らかにしながら、復旧作業に対する同意を 7 社全てから頂いたとのことです。自らの損得だけではなく懸命に復旧に携わった土木技術者の意気を感じました(写真④)。

写真④ 仮設の下水水管橋。対岸には被災した 元の水管橋が見える。

 復旧工事に先立ち必要な段取りとは 復旧工事に先立ち、発災後の混乱の中、建設業者の社長さんとの協議と並行し、町有地の山林を瓦礫置場にすることにしたとのことです。瓦礫を運ぶ場所が速やかに決定されたからこそ、広野町の復旧はわずか 3 か月という期間でできたのでしょう。瓦礫置場には除染した土のほか、木材、家電製品、タイヤなども大量に積み上げられていました。広野町で津波により流出した家からでた木材などにしては多すぎるよな、と苦笑しながら説明してくださいました(写真⑤)。

写真⑤ 瓦礫置場の廃棄木材

 首長のリーダーシップと我々の生活 首都圏に電力を供給する東京電力広野火力発電所。ここも地震と津波により大きなダメージを受けました。当時の山田基星広野町長は、とにかく大停電だけは起こさないでくれ、そのためにこのビニルハウスも含めて自由にこのあたりの施設を宿舎に使ってくれ、と復旧を急いだとのこと。当時首都圏でも計画停電が実施されるという事態になっていたことを思い出し、町長のリーダーシップにより首都圏に暮らす我々の生活は守られたという事を知り、改めて感謝する次第です(写真⑥)。

写真⑥ 東京電力広野火力発電所のすぐ近くに 立地するビニルハウス

楢葉町

野積みの除染廃棄物
 広野町の北隣にある楢葉町は、福島第一原子力発電所から 20km 圏内に入り、大部分の地域が避難指示解除準備区域に指定されています。県道 391 号線に沿って楢葉町に入りしばらく車で走ると、除染廃棄物仮置き場が見えてきました。広野町の仮置き場ではリサイクル使用できるものはリサイクル、そうでないものは防水シート等を利用し埋め立てていましたが、ここでは除染土壌が詰まっていると思われる土のうが大量に野積みになっていました(写真⑦)。

写真⑦ 楢葉町の除染廃棄物仮置場。 大量の土のうが野積みになっていた。

 土木技術者として、やりきれない思い 楢葉町では被災時の状況そのままの家屋が目につきました。避難指示解除準備区域で宿泊が制限されているからでしょうか。あたり一帯は全く生活感が感じられませんでした。未だ自宅に帰れない被災者の方々には慰謝料が支払われているとのこと。広野町の住民には早く復旧しすぎて慰謝料の支払いが少なかった、と賀澤さんは明るく装って話してくれましたが、町のため住民のために危険を承知の上で復旧を急いだのにそれが必ずしも喜ばれていない、という事に対し、我々もやりきれない思いがしました(写真⑧)。

写真⑧ 被災時の状況をとどめる家屋(楢葉町)

富岡町

時間よ、進め・・・ 止まるならば、発災前に・・・
 海岸線に程近い富岡駅は津波により駅舎が流出し、現在もそのままになっていました。ホームの向こう側には穏やかな海が見えますが、あの海が津波となって押し寄せたのです。プラットフォームの屋根に乗っているコンクリート製の架線柱は途中で引きちぎられているようです。また、改札の跡と思われる柵が見えますが、発災前は駅舎の中にあったのでしょう(写真⑨)。

写真⑨ 地震・津波被害を受けた富岡駅。 発災後 3 年経った今も復旧されていない。

 津波で押し倒されたと思われる看板や、流されてきたと思われる車もそのまま放置されていました。瓦礫はきれいに撤去されており、道路は車が問題なく走れる状況でしたが、駅周辺には被災したままのレストランの建物などがそのまま残っていました。コンクリートが多く、楢葉町の家屋と異なり生えている雑草やゴミが見当たらないせいでしょうか、時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えました(写真⑩)。

写真⑩ 富岡駅前の様子。雑草・ゴミも目立たず、 発災後まるで時間が止まったかのよう。

終わらぬ戦い
 富岡駅から国道 6 号線に入りさらに車で北上を続けました。すでに居住制限区域に入っています。賀澤さんによれば、このあたりから放射線量も急激に上がってくるとのこと。しばらく走ると前に検問所(富岡消防署北交差点)がありました。ここから先は通行証がないと入れないからと、交差点で U ターンするよう指示をされて戻ることになりました(写真⑪)。
 楢葉町は歩いている人を見かけず生活感が感じられませんでしたが、富岡町ではヘルメット・作業服姿の作業員を多く見かけ、物々しい感じでした。時間は 17:00 前、歩いている方向から察すると、検問の向こう側から作業を終えて宿舎に戻るところなのでしょうか。ここではまだまだ震災後の非常事態が終わっていないのだ、と感じました(写真⑫)。

写真⑪ 富岡消防署北交差点。これより先は帰還困難区 域となり、通行証が無いと入れない。
写真⑫ 富岡消防署北交差点を U ターン後。 宿舎に戻る作業員であろうか。

                        (文責:黒田武史)

取材を終えて~帰路の車中にて~
 検問所を U ターンして広野町に帰るまで、賀澤さんに発災時の様子を色々お話しして頂きました。明るく笑いながら親しみやすく話してくださる賀澤さんに、我々も楽しくお話を聞いていましたが、ふと我に返った時、とても笑えるようなお話ではないことに気づきました。着の身着のままで避難したこと、水素爆発後の放射線量が高い中、町に残る住民に避難を促すためタイベックススーツを着て自衛隊と共に広野町に戻ったこと、1か月もご家族の安否もわからなかったこと…
 賀澤さんは発災後、住民の避難誘導、インフラの復旧、そして復興計画の策定にまで携わってこられました。
住民に安心して戻ってもらえるよう、少しでも早くという形で作られた復興計画ですが、計画策定後も現時点で住民は 3 割程度しか戻ってきていないそうです。住民が戻らないのは計画に不備があるからというわけではないですが、今考えると、日々の暮らしで見る景観配慮など、今まで何百年もこの地で暮らしてきた歴史なども踏まえ、もっと時間をかけてやるべきだったのではないか、と考えられているとのことです。
 賀澤さんは現在は広野町役場を退職され、NPO 法人「浅見川ゆめ会議」の事務局長を務めておられます。広野町を流れる浅見川はサケやアユ、ウナギなどがたくさん泳ぐ自然あふれる河川とのこと。今後はその浅見川の環境保全を通じて、じっくり町の復興に取り組みたい、と話してくださいました。

シニアに学ぶ『退職後の輝き方』第10回 尾田栄章氏『根本に遡って物事を見つめる 』の記事は、こちらからどうぞ。

#復旧 #復興 #広野町 #東日本大震災 #原子力発電所


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