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40にして立つ身として、振り返る。

厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬。

【現代語訳】
老先生の邸の厩舎(馬小屋・馬舎)が焼けたことがあった。(そのため)先生が政庁より帰られたとき、「だれか怪我はしなかったか」とおたずねになった。しかし、馬のことはなにもおたずねにならなかった。

この言葉は、中学の卓球部の顧問は、皇室で書道を教えることができる免許も持たれているような先生から頂いた作品に書かれていた言葉で、卒業生一人一人に言葉を送って頂いたものです。

『中学3年生の時に親友が自殺する』

というセンセーショナルな出来事があり、その彼の最後の瞬間に彼が泣きながら「大丈夫だから」という言葉を交わし、それでも、彼を止めることができなかった無力さに絶望し、慟哭するしかなかった、あの時。

次の日、部活の子どもたちを見ながら、夕日が指すベンチで横にいてくださったのがこの顧問の先生でした。そしてそのときに、「お前はそのままでいい、そのままでいいんだ。」という言葉をかけてくださったことは、今でもはっきりと覚えています。

最近、amazonプライムで劇場版のエヴァンゲリオンをみていて、碇シンジが綾波を助けられず、カヲル君が目の前で死亡し、アスカとマキにより途中で防げたとはいえフォースインパクトでボロボロになった世界で『すべてに絶望している状態』を見ながら、「14歳の俺もあんなんだったんだろうなぁ」と何か、特別な感情移入をしてしまいます。

彼の真相は今でもわかりません。ただ、家庭で、学校で…彼が絶望していたのは想像に難くありません。

今、ソーシャルワーカー(社会福祉士)として、ソーシャルワークの理論と実践という「相談援助力」を求める根源は、あのときの『無力さ』が土台にあります。

また、学生時代にNPO活動やボランティア活動に精力的に活動をしていたのも、そこに「他者とつながる力」に可能性を見出したかったからです。

先生が「そのままで」といった方向は、「他者の痛みを自らの痛みとして受け止め、それを力に変えること」だと、今の私は解釈しています。

そして、冒頭の「厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬。」は様々な解釈がありますが、私の新しい解釈として、「危機介入アプローチおよびクライエント重視の心理的支援の視点」と解釈することもできるなぁと思ったのです。

クライエントに寄り添い、本人の力を引き出して、エンパワメント(強化)して、自らの力で自らの意思決定と生活を援助していく。かつ、個人、グループ、地域の相互作用を意識して支援をプランニング、実行するジェネラリストソーシャルワーカーの視点を持つ。

もう少し、エヴァンゲリオンの話になりますが、劇場版新世紀エヴァンゲリオンを見ていると、ふしぎの海のナディアの曲がリメイクされて流れているのに気づき、ふと考えたのですが。

ふしぎの海のナディアでは、ナディアとネモ艦長(ナディアの父親で共に宇宙人という設定)との関係性は、どちらかというと健全ですがブルーウォーターという技術(力)に魅せられた人間に親子がかき乱されるという設定でした。

一方、劇場版新世紀エヴァンゲリオンでは父親と息子の関係性が悪く、父親が母親(ゲンドウからすると奥さん)への執着心に息子と世界を巻き込んでいくというストーリーで、ナディアに比べると非常にやるせない設定になっていますが、現代の子どもたちや社会の実情にあっている気もします。(あまり、喜ばしいことではありませんが)

庵野監督は、そんな父親を乗り越えて新しい可能性に進む碇シンジに未来を託すことで、エヴァンゲリオンを終わらせた。

子どもたちには未来がある。そして、可能性を秘めている。

それを大人が「信じること」ができるか。

これが、非常に大切な気がします。

「キレイゴト」に聞こえるかもしれませんが。

子どもたちに託せる、託したい未来をつくれるソーシャルワーカーで私はありたい。

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