都市(まち)に関わる映画のご紹介⑦
こんちには!
本日ピックアップさせて頂くのは、「Banksy and The Rise of Outlaw Art」になります。
日本でも話題となり展示会も行われたバンクシーにフォーカスした映画の1つになります。これまでのバンクシーの映画と比べて、アーバンランドスケープとしてのストリートアートにフォーカスがあたるシーンが散見されたので、日本では現在未公開ですが、こちらの映画をピックアップさせて頂きました。
まえがき
皆さんは、ストリートアートと聞いてまっすぐにイメージする場所・感情はなんですか?
私が最初に雑多な都市インフラの中にあるスプレーで描かれたアートを認識したのは河川敷でした。なので、今でもストリートアートのある場所と問われると河川敷を思い浮かべてしまいます。
最初に抱いた感情は今でも覚えていて、私が見たもののインパクトが強かったのか、自分が知っているもの(生物)ともの(文化)を混ぜた創造物の絵を見て、かけ合わせ方としてアンバランスなはずなのに、絵の構図的にバランスが取れており、その違和感に妙に引き付けられたのを覚えています。
きれい!とか、すごい!みたいな感情というよりは、なんだこれ?気になる。というような感情でした。
さて、少し前振りが長くなってしまったのですが、バンクシーの生涯に焦点を当てつつも、それに呼応するようにストリートアート文化の成り立ちに触れているこちらの映画を通して、どう都市を計画する側から学びがあるのか?ご紹介させて頂きたいと思います。
トレイラー
まち視点でみる、この映画の魅力
この映画に描かれている通り、街の公共・私有空間に自分の作品を描くという行為は、ある種そのまちの生きている様を描写するものです。
たとえ、そこがゴーストタウンであろうとも、そこに絵があることは人がいた証であり、その作品には何かが込められています。
この行為は、場に対する反応(reaction)、衝動(impulse)、ひらめき(spark)、認識(recognition)と説明され、そこには予期できない(unpredictable)、中毒的(addictive)と言った要素が付帯されていると言われております。
一方、言わずもがな、ストリートアートは違法行為としてもしばしば取り上げられるものです。実際、バンクシーも違法行為として自身の絵を公共空間に描いていることが多いです。
ここで浮上してくるのが、違法行為なものとそうでないものの違いは?ということになります。
行政的に回答すると、事前許可を得ているかどうか?になります。
つまり、そこが公共空間だろうと私有空間だろうとプロパティの所有者及びその管理組織(行政等)に事前許可を得て、与えられた要件の中でパフォーマンスすれば、それは合法となるのが一般的な見解となります。
バンクシーはやみくもに違法行為をすることを良しとしている訳ではなく、その目的によって手段を選んでおり、また違法行為で書いたはずのものが、公的機関によって保護されると言った、社会のからくりをひっくり返すような現象を起こしているのが支持されている要因の1つではあると思います。
ストリートアートの歴史となると、ニューヨークの最も危険だった1970年~80年代にフォーカスがあたります(この映画でもそのチャプターがあります。)が、これはGraffiti(グラフィティ)としてのストリートアートであり、社会に抗う人々の声をアートという手法で表したものです。
別軸であるのが、Mural(壁画)としてのストリートアートです。これは正確な時代の始まりを存じ上げていないのですが、このニューヨークの運動よりも前の話であり、広告として、建物の側面や正面にそのビルが取り扱う商品やサービスを描くものです。日本ではあまり見られませんが、世界的にはこのタイプのストリートアートもよく見られます。
双方のアートとも、その描写を通じて場所の感覚を研ぎ澄ますことができます。(商業的なのか?治安が悪いのか?どんなコミュニティが存在するのか?・・・)
ここで、まち視点的におもしろいポイントが、この行為が社会秩序的に合法なのか違法なのか?というところです。
社会秩序としては、どちらも回答は△となると思います。
というのも、グラフィティはその価値を理解できない方にとっては破壊行為でしかなく、広告のアートも時に奇抜な色使いやその表現スタイルによって、(誰かに)場にそぐわないとされれば、それらも破壊行為となりうるからです。
バンクシーが良い例で、過去グラフィティが厳しく取り締まられているロンドンのとある場所で、バスキアの展覧会に対する声明としてバスキアの作品をハックする形で描いた作品が、アクリル板にて保護される顛末となりました。
つまり、行政的にNGの場所に無許可で描いたにもかかわらず、社会秩序的(大衆からの支持)に価値があると判断されている為、特例として絵を消すのではなく保護するという結果になりました。
映画では、都市のランドスケープに絵を描く行為をストリートーアートとグラフィティという2軸に分けて説明するとき、その違いとして、アートの中に社会に訴えかけたい明確なコンセプトを所有しているかどうか?としております。
バスキアのストリートアートの説明の章ではその詳細を、風刺画的にウィットに富んだ表現が隠れているものであり、広告の見出しのようにキャッチーで、場の要素と連動し、アートの鑑賞者をより大衆に落とし込んだもの。
としております。
つまり、都市に蔓延る問題を提起するための社会運動的な側面としての要素が強く反映しているということになります。
この定義を映画で押し出している感じはそこまでありませんが、バンクシーといえば、やはりこういった要素が支持の根幹にありますよね。
この定義自体は少々きゅうくつなものだな。と個人的には感じますが、いま世界がグラフィティを罰則から規制の流れへ舵を切っていることもあり、その定義を行うのが、規制的計画としては重要になってくると思います。
管理する側としては、どう許容すればいいのか?
まちに住むものとしては、どう価値判断の基準をつくればいいのか?
描く者としては、何の目的を持ち、それをどう見せればいいのか?
そんなことが考えられるかな?と思いました。どれも決まった答えはないです。
冒頭で、Where do we place value in society?(社会のどこに価値を置くか?)と投げかけており、それが問い続けられる映画です。
補足
近年のバンクシーの絵によく出てくるキャラクターのことが説明されていたので、そこの部分をかいつまんでここに書いておきたいと思います。
*個人的にバンクシーの作品をみてきたものとしてのニュアンスも含め訳しているので、これが正解だ!とは思わないでくださいね・・・
ねずみ:少し奇妙に騒いでいる様(ミニオンのイメージが近いと思います。)
類人猿:知的な表現が多く、未来から現在を見透かしたように人が行う行為を見定めている(警鐘を鳴らしている)。
子供:時に知性を垣間見せ、また世界に対する純朴さ、喜びや世界を楽しんでいる様を表す。
警察官:権威の象徴として使いつつも、そこに権威とは逆の象徴となる社会に蔓延る問題的要素(ダークマター)を加えている。
おわりに
今回はいかがでしたでしょうか?
バンクシーをきっかけにストリートアートの文化を覗いて見て頂けると嬉しいです。
日本でも各地でストリートアートイベントが催されており、海外で活躍している日本に所縁のあるアーティストたちが日本でも活躍の場を広げてくれるといいですね。
ストリートアートで街の復興に参与したい!という方々もいらっしゃって、個人的には自立的にそうやって動く人を尊敬の念で応援しております。
バンクシーが社会に与えた影響・ストリートアートの取り扱いが変わるさまをもっと見たい!という方は、こちらの映画もおすすめです!
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
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