おめかしの準備をしてください
一昨日の昼、ぼくはきみにそう言った。昨日は、28年前にきみが生まれ、3年前は妻になった日だったから。
今週、足かけ数年の仕事がひと段落した。瞬間、余裕ができた。休める。そう思った。過労して、かろうじて有給を取った。そんな金曜日。
日が昇りきってから布団を出た。家を出るまであと2時間ある。
ティファ―ルでお湯を沸かす。いつもの白のマグカップを2つ取り出し、インスタントのコーンポタージュをつくった。焼きすぎたトーストの焦げをナイフで削ぎ落としてから小さく切る。クルトンにしては大きすぎる。かまわずマグカップに投げ込んだら溢れそうになった。
パジャマ姿できみはダイニングへやってきた。スローカメラを見ているかのような動きでマグカップを両手で包み込む。春の陽気はどこへいってしまったんだろう。ストーブはまだ当面しまえない。
今日、茶色いワンピースはどうかな。チェックのやつか。そう。いいんじゃない。じゃあそうする。10秒。おめかしの準備が完了した。
正午を回ったのに洗面所から物音がする。身支度の整う気配がない。待機すること15分。ようやく家を出る。相変わらずゆっくりと自転車をこぐきみに並んでぼくは歩く。急がないと遅れるよと言ったら、「今日は急かされなかったからゆっくりでいいんだと思った」との返事。どういう理屈だ。突っ込むのをこらえながら自転車に負けじと歩幅を広げる。
駅前の駐輪場に自転車をとめる。ぼくがとめておくから先に改札向かってていいよ。わかった。そう言ってきみは逆方面に歩きはじめた。すかさず追いかけきみの手を取り、結局二人で改札に向かう。
今日は何線に乗るの。教えない、と言いつつホームに降りる。どっちに乗るの。教えない、と言いつつ下り線に乗る。お店の場所は極秘事項だ。たとえ数秒たりとも早く明かすわけにはいかない。
乗車時間は二分。隣町の駅のホームに降り立った。下りのエスカレーターは見当たらない。ホームの端にあるエレベーターにたどり着いたときには、次の電車がもう近づいてきていた。
駅の南側に出る。曇り空の下を歩く人影はまばらだった。ぼくがマフラーを巻き直したのを見て、きみもしっかり巻き直す。
しばらく来ないうちに街並みは少し変わったようだった。ガラス越しに各々こだわりのインテリアをあしらったお店が軒を連ねている。ここのカレー美味しそう。今日はカレーの日ではありません。おもちゃやさんがあるよ。よく見てくださいそれは「おもち(お餅)や」です。
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このお店きれいだね。
並んで足を止める。ここだ。ここが今日のランチのお店。えんじ色に塗られた木の外壁に、さびれた不揃いの木目のドアが行儀よく収まっている。その上には番地と思しき四桁の数字。大学時代、ぼくが一人パリで入った老舗ビストロにそっくりだった。
ドアを開くと僅かながら段差があった。扉を押さえるもう一方の手にきみがつかまる。ランチ客の談笑だけが響く店内は、別世界のように温かい。
予約した旨を店長らしき男性に告げると、こじんまりとしたマホガニーの二人掛けテーブルに案内された。黒板に書きつけられたメニューの周りには、珍しい形のワインボトルとグラスが肩を並べている。振り返るきみのコートの裾がグラスに触れて肝を冷やす。コートはこっちで脱ぎな。
コースの説明を受けてからドリンクメニューに目を通す。あ、スパークリングもあるね。でも赤もたくさんあるよ。そう、きみは最近赤ワインにはまっている。しばらく迷った末の答えは「赤のスパークリング!」だった。ごめんそれはここにはない。白のスパークリング2つ、お願いします。
「このお店知ってたの?」
ぼくは首を横に振った。昨日のお昼に調べて見つけたんだ。有給を取れそうだなと思って、昼休みに電話を掛けたら運よく空いてたから。おめかししてって急に言われてどうしようかと思った。そんなめかしこむようなお店じゃなかったでしょ。うん。そのワンピースで。うん。いやそのワンピースが、良かった。グラスの底から立ち上る泡が、きれいだ。
真っ赤な長方形の大皿でカラフルな野菜が運ばれてきた。店員さんが手際よく説明してくれるのだが、こういうのはいつも一部しか覚えられない。これ、玉ねぎのソースって言ってたね。うん。紫キャベツ、しゃきしゃきで美味しい。うん。グラスの泡はまだまだ消えそうにない。
スープ。白菜を濾したポタージュに、濃い橙色のアメリケーヌソースが一筋かかっている。白菜の淡い甘みに海老の香ばしいアクセントがよくきいている。アメリケーヌソースってアメリカ発祥なのかな。フランチなのにそんなわけと思ったけれど、今日のきみの予想は珍しく当たっていた。
思い出したように写真を撮った。きみは右手の指を三本、横向きに立ててポーズをとった。なにそれ。海老の「E」だよ。そうか。写真を見返すときまでちゃんとそれ覚えといてくれよ。
オードブルは別々のものを頼んだ。きみはパテドカンパーニュ。ぼくは前菜の盛り合わせ。パテドカンパーニュって日本語だと田舎の練り物だね。語源の話ばっかだな。味をもっと気にしようと笑い合う。ぼくのお皿のサワークリームチーズがきみの小皿に少し、また少し運ばれていく。
メインの魚とお肉を食べ終えたころには、天井を見上げるほどお腹いっぱいになっていた。食後は二人ともホットコーヒーを注文した。
ほどなくして、ろうそくの明かりを灯したプレートが運ばれてきた。店員さんがひと足早くお誕生日おめでとうございますとお祝いしてくれた。
丸くて大きな白のお皿には、1カットのレアチーズケーキを囲むようにしてバースデーメッセージがチョコレートソースで描かれていた。予約するときに電話できみの名前の漢字めっちゃ説明したら、アルファベットだから大丈夫ですよって言われたんだよ。そりゃそうだよね。
28歳の抱負を教えてくださいとぼくは尋ねた。ピアノを上手になりたいときみは答えた。いいね。一昨年の年末に誰よりも早く巣ごもりを始めたきみにとって、家でできる楽しみは何よりも大切だったから。それに、一年前に同じ質問をしたとき「なるべくゆっくり28歳になる」と世迷い言を返されたのに比べたら大人になった。
3回目のふーっで火はようやく消えた。細長いろうそくの先に灯されていた明かりは、28年という年月を照らすには小さかったかもしれない。でも、今きみが過ごしている日々にこれ以上相応しい明かりはなかったような気もしたんだ。慎ましく、健気に生きる日々に。
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棚のワイングラスに気を付けながらコートを羽織ると、店員さんが出口まで見送ってくれた。惜しむようにパリの空気を振り返る。床にこぼれた陽だまりが広がって、さっきよりもずっと店内を明るくしていた。
良いお店だったね。また来たいね。せっかくだからお店の写真も撮っておこうか。ぼくは道路の反対側に回り、きみはお店の木目調のドアを指さすようにポーズをとった。良い笑顔だね。だから早くマスク取りなさい。
久しく歩いていなかった隣町の軒先をぶらつき、駅前からバスに乗った。
今日は3週間に一度のきみの通院の日。腰の痛みが少しでも和らぐようにと続けているブロック注射の日だ。バスを降りるとき、きみがさっきよりもぼくに体重を預けているのがわかった。右腕にきみの全身を感じた。少し、歩きすぎたかもしれない。やはり隣町にしておいてよかった。
麻酔科はさして混んでいなかった。ぼくが待合室で本を読みながら船を漕いでいたからだろうか。きみはすぐに診察室から出てきた。注射をした後は左足がしばらく動かなくなるから、車椅子に乗って。
どうやら今日はいつもにも増して足の感覚がないらしい。きみは会計のときも車椅子のままだった。折よく家にいた父が車で迎えに来てくれた。きみはぼくに半ば背負われるようにして後部座席に倒れこんだ。
帰りに立ち寄ったスーパーでもきみは車でお留守番だった。そんな心配そうな目で見るなよ。白菜と豚こまを買ったよ。夕飯は中華炒めだ。あ、駅前に自転車とめてたの忘れてた。とってくるから家で待ってて。
帰宅すると、きみはコート姿のままベッドにまだ横たわっていた。手、洗ってないの。肩を貸そうか。ちょっと無理そう。わかったおんぶだな。背中に乗せられきみは洗面所まで搬送された。たぶん、きみが歩くより3倍ぐらい速かった。ドアに足ぶつけたけど。
ちょっと休むねと言ったきみにぼくは頷き、ベッドサイドテーブルの明かりだけを残した寝室を後にした。お浸しのほうれん草だけ先に茹でておこうとキッチンに向かう。雨戸を閉めるには少し早いだろうかと窓の外に目をやりながら、まだ体力も元に戻らないきみのことを案じていた。
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「結婚4年目ってもうベテランだね」
先週ぐらいから、きみはずっとこう言ってくる。会社ならもう部署異動してもおかしくないぐらいだよねと。いや待て異動ってどういうことだ。
相変わらず不思議なことばかり口にするきみとの生活は、ほどよい刺激に満ちている。今日のスパークリングワインの砲よりずっとずっときめ細やかで、見えないほどの微炭酸。ぼくにとってちょうどいい刺激。
きみと一緒にいると世界が少し揺らいで見える。褒めている。ドラえもんの歌が「頭てかてか、サイドぴかぴか」と彼の頭部と側面の質感に関する歌詞だと思っていた人は、おそらく世界できみしかいない。それぐらいにはいつもぼくに新しい世界を垣間見させてくれる。大抵ちょっとおかしいのだけど、ぼくが今まで見たことのない世界を。
きみが歩けなくなって1年と3カ月。調子のいい日もあれば、朝から寝込んでしまう日もまだある。それが腰の痛みに由来するものなのかは正直もうわからない。でもそんなのもうわからなくてもいい。今日みたいにのどかな顔で、ゆらゆらした世界を見せてくれたらそれでいい。
腰のこともあり、きみは昨年夏に退職した。でもそのずっと前から、緊急なんとかが出る前から、外に出たくても出られなかった。だからきみは前よりピアノが好きになった。好きになるしかなかった。
仕事の忙しさにかまけて、ぼくは自分の凝り固まった世界をきみに揺らしてもらうのが当たり前になっていた。きみだって頑張って揺すろうとしているんだ。慎ましく、健気に。世間が元に戻ったとき、自分も一緒に戻れるように。何がかろうじて有給をとった、だ。かろうじてぼくが元気でいられるのは、きみのおかげなのだ。
一昨日の昼に声を掛けたとき、きみの顔が綻んだのをぼくが見逃したとでも思っているのだろうか。誰よりもウソをつくのが苦手なくせに、きみは素知らぬふりをして寝室に戻っていった。茶色のワンピースにしようと決めるのに丸一日かかったことなんて百も承知である。
今のぼくらにとって隣町は十分に遠い。ドレスコードがあるような言い方をしたけれど、きみがぼくの世界を揺らしてくれるように、ぼくもきみに見せてあげないといけないと思ったからなんだ。家の中だけじゃ見えない世界を。たとえそれが大げさで、誰かには当然のことであっても。
きみにとって特別な一言。これからどれだけ結婚生活の大ベテランになっても、ぼくはきみにこう声を掛けたい。
「おめかしの準備をしてください」
誕生日おめでとう。
28年目と4年目も、素敵な一年を。一緒に。