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学ぶ楽しさを教えてくれた場所
大切な場所に帰りたいと思ったとき、足を運べる人でありたい。
学生時代に7年間通っていた地元の学習塾に、お別れをしてきた。当時お世話になった先生のSNSで、校舎を取り壊して近々移転することになったと聞いたからだ。
地元で何十年と続く老舗の学習塾。自分はその長い歴史の一頁の、一行ぐらいは担うことができていただろうか。移転するだけだから塾自体がなくなるわけじゃないのだけど、歴史を刻んだ建物がなくなってしまうことは、自分の大切なものを失ってしまうようで寂しい。
用事があって駅前に出ていた帰り、ふと先生のSNSを思い出した。移転まで残り数日。お世話になった国語のI先生に連絡しようとスマホを取り出す。
長いコール音。出ない。と思ったら出た。「卒業生なんですが…」と申し出たら、どうも聞き覚えのある声が返ってきたことに気付く。I先生だ。思わず「薫です!」と名乗る。10分後に行ってもいいですかと聞いてOKをもらったので、足早に向かった。地元にはずっといるけど、あの交差点を右に曲がるのは、久しぶりだった。
当たり前だけど、校舎は変わってなかった。1階の駐輪場もあのままだった。高校の部活帰りに自転車でそのまま立ち寄って、汗まみれのユニフォームをよくカゴに入れたままにしていたのを思い出した。
ひと気がない。職員室に入ると、15年前で時が止まったままのような風景が目に飛びこんできた。I先生は部屋の隅で教材の整理をしていた。卒業後も何回かお会いしていて、4年前に塾の友人(でもあり中学高校の友人)と同窓会をして以来だったけど、だいぶ時間が経ったように感じた。
職員室に残されていた懐かしい教材を見回しながら、あの頃の授業について先生と言葉を交わした。英語のY先生、数学のM先生(イニシャルがIで同じでややこしいのでMにした)、そして国語のI先生の無敵トリオから指導を受けられたことは、自分にとってかけがえのない財産になっている。
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小学校の頃、国語は嫌いだった。本を読むのが好きじゃなければ、予め決められた文章を読むのはもっと苦手で。でも中学に入ってI先生の授業を受けてから、少しずつ国語が楽しいと思えるようになった。
正直、国語が楽しかったわけじゃない。I先生の授業が、楽しかった。
I先生のおかげで、国語を学ぶことから目を逸らさずにいられた。高校3年生の最後まで現代文、古文、漢文はどれも好きになれなかったけど、センター試験の国語でそこそこの点数はとれた。
浪人時代からは少しずつ現代文が面白いと思えるようになった。今日I先生から「今仕事は何してんの」と聞かれ、ビジネス文書だけど、今も毎日日本語のことを考えてますよと答えたときの先生の顔は、少し嬉しそうだった。それに、今こうしてnoteも書いている。言葉を好きでいられているのは、I先生のおかげかもしれない。
数学は好きだった。でも学校の授業は退屈で退屈で、嫌いだった。好きでいられたのは、M先生の授業が楽しかったからだ。
ぼくの祖父は高校の数学教師で、父も大学で物理を専攻していたので、自分も当然に理系だと信じて疑わなかった。だから高3まで盲目的に理系として過ごした。結果、現役受験は壊滅。数学が怖くなり、浪人するにあたって躊躇なく文転して日本史と地理を猛勉強した。公民は倫理。この頃の勉強が、今の自分の関心領域の素地を作ったような気もしている。
数学は怖くなったけど、好きな気持ちは変わらなかった。
M先生の教える数学は、いつも目の前が開けるような感動に満ちていた。そうかそんな解き方があったのかと、授業のたびに小さな明かりが灯るようだった。白黒刷りで数ページだけの、M先生オリジナルの小冊子。これを解いた分きれいにクリアファイルに入れて、何度も復習をした。黒板から先生の解法を書き写している間、M先生はいつもテニスの素振りをしていた。
数学と少し距離を置いて1年後、ぼくは大学に入ってテニスを始めた。それとほぼ同じくして、M先生が入院した。癌だった。半年ほど前に見つかり、あっという間に先生の全身を蝕んだ。そして、1球もボールを交わすこともできないまま、M先生は旅立った。まだ50歳と少しだった。
M先生が亡くなる直前、入院先にお見舞いに行った。「テニス始めたんですよ」「フォアが全然打てなくて」と呟いたら「フォアを固めようなんて10年早い」と、細くなった腕を振りながら言われたのを覚えている。それが先生と交わす最後の言葉だったと知ったのは、その2日後だった。
M先生がいなければ、数学は嫌いだったし、間違っても理系で大学受験をしようだなんて思わなかった。結果的には大学に入るのは1年遅れたし、自分には数学の素養がないこともすぐ知ったけど、先生がいたから数学を好きでいられた。数学を学ぶことを、ずっと好きでいさせてくれた。
塾長であった英語のY先生も、一番のご年配だったこともあり、7年ほど前に亡くなった。多くの卒業生を輩出し、地元で評判の学習塾に仕立てた張本人。I先生、M先生とのスリートップが牽引する最盛期を過ごせたことは、またとない幸運だったと思っている。
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今日訪れた校舎は、本当にあの頃から時が止まったままだった。M先生が大切にしていた数学の専門書が、本棚の一面に残ったままだった。毎年発売される市販の教材の背表紙も、昭和の中頃から1つずつ数字を刻みながら肩を並べていた。
それを眺めるぼくを見て、I先生は「おれらが教えることなんて、そう変わらないんだよ」と言った。そうかもしれない。センター試験が共通テストに変わっても、集団授業から個別指導にトレンドが変わっても、授業がオンライン形式になっても、学びの本当に大切なところって、変わらないんだと思う。懐かしい職員室の光景は、先生たちが熱血指導をしていたあの頃の時間を大切に残しているようであり、学ぶことの本質は変わらないと説いているようでもあった。
I先生は今日、移転前の最後の整理をしに旧校舎に来ていたらしい。もう鳴らないはずの電話が鳴って、出たらぼくからの突然の電話だったとのことで、半ば押しかけるようにしてきてしまった。でも、先生に会えてよかったし、M先生を忍ぶこともできた。何より、自分に学ぶことの楽しさを教えてくれた場所にお別れをすることができて、うれしかった。
帰り際には今の塾長とも会えて、新校舎に案内までしてもらった。こじんまりとした1フロアの校舎だったけど、ここからまたこの塾がI先生たちと新しい時代を迎えるのだと思うと、卒業生として誇らしくなった。
心のどこかで大切にしている場所は、たくさんある。いつでも、いつまでもあると思っている。だから本当に足を運ぶことは少ない。まして今、世間はこの状況で思うように再訪することも難しくなった。
近い場所だからこそ、いつでも帰れると思いがちだ。だから帰ろうと思ったときにちゃんと帰ろうと思った。近いから届けなくていい想いなんてないんだ。