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刻々と

妻の実家の家系図に、時の流れの音を聴いた。昭和の終わりに義理の曾祖父が書き記したもので、黄ばんだ細長い紙の一番上には「七右エ門 寛政七年(一七九五年)没」と残されていた。二百年以上も前の時代を生きた人物が今確かにここに繋がっているのを感じ、思わず息を呑んだ。

妻は、福島県会津地方の緑ゆたかな農村に生まれた。曾祖父よりずっと前から代々守られてきた風光明媚な土地とともに、その家系図はあった。

寛政といえば江戸幕府が瓦解に向かうより少し前、松平定信が政権を握っていた時代だ。いや、寛政の時代に亡くなったということは七右エ門が生きた時代はそれよりも遡る。田沼意次が印旛沼の開拓をした頃だろうか。世直し一揆はもう各地で起きていたのだろうか。いずれにせよ、そのときから途方もない時間が流れた。一枚の紙からは窺い知れないほどの長い時間が。

何年も前、祖父が生まれたときの内閣総理大臣が大隈重信だったと聞き驚いたのを思い出した。歴史の資料集でしか見たことないあの顔を、祖父はどこかで見ていたのかもしれない。そう思うと、モノクロ写真越しでしか知れない世界が少しだけ色付くような気がした。いつか自分が「ベルリンの壁は、おれが生まれた年に壊されたんだよ」と語ったら、孫やその先の人たちは驚いたりするのだろうか。平成元年生まれは、何かと話題にしやすい。



職種柄、仕事でも過去の記録を参照する場面がよくある。

先週なんて、平成の初期に自分の部署の先人が残した稟議書(をスキャンしたPDF)を読む機会があった。二年ほど前、オフィスの書庫に眠っていたのを見つけプリンタでスキャンしたものだった。右上に日付と上司の印鑑、その下に担当者印、中央に件名と要旨のある書式は今も変わらないが、端に切れ目のある手書きのルーズリーフは、確かな時の重みを感じさせた。

記録を残すことは、業務の継続性や品質確保の観点で重要になる。誰かがいつかきっと必要とする、あるいは必要とするかもしれない。それがわかっているから担当者はあの稟議書を起こし、バインダーファイルに閉じた。

後任が稟議書を参照したかはわからない。その後任だって同じだ。だが現任のぼくが目を通し、業務に生かしたのは事実だった。擦り切れそうな一枚の紙は姿をデータに変えこそしたが、三十年の時を超えその役割を全うした。

今自分が日々こなしている仕事も、何年後、何十年後かに誰かが必要とするものかもしれない。いや、きっと必要とされる時が来るのだろう。

自分がここに存在した証だとか大言壮語を吐くつもりはない。ただ繋ぐために残すのだ。今は、過去から連綿と続く歴史の一過点であり、手にしているものは、先人たちが必死に受け継いできたバトンだと知った。

今を今として形にすれば何かが続いていく。それが何かはわからないけれど、いつか誰かが受け取ってくれると思えば、動かす手に迷いはない。



七右エ門もまた、そうだったのだと思う。彼か、その子が後世に伝えるために何らかの書記を残してくれたから、今日ぼくはあの家系図を見ることができた。彼の意志は受け継がれたのだ。多分、彼が思っていたよりも遥かに長い二百年という途方もない時間を超えて。

家系図は妻の曾祖父が書き残したものだったが、そこには先代の意志も確かに息づいていた。誰もが必死に生きて繋いだバトンが、今ここにあった。

インスタントに生み出された価値に囲まれながら生きている。このnoteも例外ではない。至るところで誰かが声を上げ、価値とも呼べぬ価値をつくり出せる時代。誰の耳にも届かぬまま潜められていく声の方が多いと知りながら、今もなおこうして声を上げている。取るに足らない、些細な営み。

壮大な家系図を見て歴史を背負ったつもりもなければ、一家の主としての責任感を新たにしたわけでもない。到底背負えるものでもない。だが手にしているそれが何たるかを知り、握りなおすぐらいはできたような気はする。

刻々と過ぎる今を今として見つめることで、いつか救われるかもしれない今がある。目まぐるしく移り変わる時間のすべてを掬い取れはしないが、掬い取らなければ何ひとつ繋ぐことはできない。仕事であれば事実さえ残っていれば救われるが、繋がれたものが意志であるからこそ、いつか、誰かが救われることだってある。誰かの心を軽くして、足元を確かめる助けになる。

欠片だけでもいいから、いつか、誰かに繋がるといい。時間はかかっていいし、むしろかかった方がいい。バトンの受取人が誰かは知らなくても構わない。願わくば落とされないでほしいけれど、落とされてもどこかで、いつか誰かが拾ってくれるかもと思えば、今を生きる自分は救われる。今を生きる力なんてものは、そのくらいでいいのだと思う。



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