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解釈 -Interpretation-

解釈するとき、人は自分自身に出会う。
あなたが最後に自分と会ったのはいつだろうか。


アート思考、コト消費、ストーリーテリングといった言葉を耳にするようになって久しい。感性が綴る多彩な物語。かつて強大な力を振るった客観という名の正義は、対局に座していた主観にその地位を譲りつつある。

人は現実世界をありのままに見ることはできず、自分に合わせて見ることしかできない。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と言ったのはニーチェだ。生きるとは、解釈という営みによって自分が構築する世界を絶えず組み替えていくことにほかならない。

日々わたしたちは世界を読み取り、世界に言葉を与えることを繰り返しながら現実を再構成し続ける。言葉が自由な解釈を許し、世界は刻一刻と複雑な網目の様相を呈していく。

解釈の一般的な定義は、文章や物事の意味を受け手の側から理解することだとされる。「受け手の側から」という点が解釈を理解と隔てる要素だ。

理解は対象をそのまま自分の中にダウンロードすることであり、受け手としての補完や修正は求められていない。重要なのは再現の精度。この点で、理解とは極めて受動的な行為だといえる。

解釈は再現ではなく再構築。主体的な補完や修正を前提としており、そこでは受け手の創造的なアレンジが期待されている。逆を言えば受け手の主観なしに解釈は存在し得ない。

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オンライン語源辞書として定評ある Online Etymology Dictionary を引くと興味深い事実が見えてくる。

understand (v.)
Old English understandan "comprehend, grasp the idea of," probably literally "stand in the midst of," from under + standan "to stand" (see stand (v.)). If this is the meaning, the under is not the usual word meaning "beneath," but from Old English under, from PIE *nter- "between, among" (source also of Sanskrit antar "among, between," Latin inter "between, among," Greek entera "intestines;" see inter-). Related: Understood; understanding.

understand(理解する)を文字どおり和訳すれば「下に(under)立つ(stand)」だが、どうやら under は in the midst of, between, among に相当する「間で」という意味で使われているらしい。ここでいう「間」が対象と自分を隔てる距離を意味するであろうことは想像に難くない。

「理解する」が「間に立つ」とはどういうことかと思って読み進めると、その疑問が氷解する。

Perhaps the ultimate sense is "be close to;" compare Greek epistamai "I know how, I know," literally "I stand upon."

be close to は「近づく」。対象と自分を隔てる距離は究極的には縮めることが想定されているのではないかとの指摘がなされている。

ここからわかるのは、理解の本質的な目的が対象への接近であるということ。そしてその接近に関しては、解析幾何学における漸近線のごとく対象との距離がゼロになる瞬間は永遠に訪れないであろうこと。重なるでも接するでもなく近づくことしかできない。対象の完全な理解なんて幻想でしかないことを暗示しているように見える。

対する interpret(解釈する)の語源を見てみる。

interpret (v.)
late 14c., "expound the meaning of, render clear or explicit," from Old French interpreter "explain; translate" (13c.) and directly from Latin interpretari "explain, expound, understand," from interpres "agent, translator," from inter "between" (see inter-) + second element probably from PIE *per- (5) "to traffic in, sell." Related: Interpreted; interpreting.

接頭辞 inter- の意味も between(間に)だが、これは international(国際的), interval(間隔)といった単語でなじみ深い。

続く -pret が問題。traffic in, sell (いずれも「売買する」)の意味があり、その原義については下記のとおり value, worth (いずれも「価値」)に由来する可能性が言及されている。類する単語 appraise(鑑定する),  appreciate(鑑賞する)を見るに、動詞的に訳すなら「価値を決める」ぐらいが妥当だろうか。

*per- (5)
Proto-Indo-European root meaning "to traffic in, to sell," an extended sense from root *per- (1) "forward, through" via the notion of "to hand over" or "distribute."
It forms all or part of: appraise; appreciate; depreciate; interpret; praise; precious; price; pornography.
It is the hypothetical source of/evidence for its existence is provided by: Sanskrit aprata "without recompense, gratuitously;" Greek porne "prostitute," originally "bought, purchased," pernanai "to sell;" Latin pretium "reward, prize, value, worth;" Lithuanian perku "I buy."

以上から、interpret の語義が「対象と自分の間で下される価値判断」にあるとは言えないだろうか。understand の語義に照らしても大きな違和感はなく、むしろ比較することでその特徴が浮かび上がるように見える。

understand が再現、すなわち対象への接近を目的としているのに対して、interpret はそのような対象の引力による直線的な目的を持たない。立つ場所は対象と自分に広がる間隔のどこであってもいい。この自由こそ、前述した受け手の創造的な再構築だと考えることができないか。

立つ場所を決めることは価値判断であり、常に目的を必要する。目的が解釈を解釈たらしめる。

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米国の法哲学者ロナルド・ドゥォーキンは次のように言った。

解釈とは本質的に目的の報告である。

法解釈の観点でこの言葉をどう"解釈"するか。

法の目的は、ありていに言えば社会正義と公平の実現にある。法はその実現に向けた強制力と正当性の根拠として存在するが、目的は時代や社会といったテクストにより変動する。だから法令の文言は抽象化されている。揺るがない正義は正義ではない。

ゆえに立法者の意思も絶対ではない。

立法者意思は法令の解釈に当たって重要な指針を示すものですが、「それは決して絶対的なものではなく、法規は立法者の手をはなれれば客観的な存在となるのであるから、必ずしも立法者の意思にとらわれず、法規そのものをもととして解釈をしていかなければならない。」
—— 吉田利宏『新 法令解釈・作成の常識』(日本評論社, 2017年)

これは、創作の解釈についてフランスの哲学者ロラン・バルトが『作者の死』(1967年)で唱えた「作者は作品を支配できず、読者に解釈を任せなければならない」という考え方と似ている。

創作には作者の意思が反映されている。しかし、創作は完成すれば作者の手を離れる。そこに作者は不在であり作者は死んでいる。

存在するのはメッセージの受け手である読者だけで、すべては読者の解釈に委ねられる。読者は対象によって実現される最善を導くために解釈する。創作も法も不特定多数の解釈者を前提とし、独立した一つの客体としての解釈が期待されている。

このように、目的に照らして対象に最善たる"生"を与えようとする点で創作の解釈と法の解釈は共通している。その目的は受け手が考える最善を実現するための目的であり、対象と自分の間に広がる隔たりの1カ所を指し示す理由である。


だが、その1カ所を探し求める動きは決して直線的ではなく、絶えず揺れ動きながら静止し、ときにぐらつくようにして位置を変える。

築いては崩されていく主観は、先入観とも呼ばれる。

人は生きているかぎり絶えず解釈を行い、絶えず先入観をアップデートし続ける。先入観は静態的なものでは有り得ない。対象を前にしてその目的に照らした最善を導き出そうとするとき、人は先入観という名の己の価値観と対峙することを否応なく求められる。

解釈のプロセスの中で、部分的にしか妥当しない先入見が死滅し、真の理解を導く先入見が現れてくる。『銀河鉄道の夜』を解釈するとき、解釈者が当初持っていた先入見は、そのプロセスの中で変容していく。…(中略)...法解釈には、解釈者の先入見が含まれざるを得ない。言い換えれば、あなたが法を解釈するとき、あなたは自分自身に出会うのである。
—— 瀧川裕英ほか『法哲学』(有斐閣、2014年)

あらゆる解釈が先入観の壁と向き合うことを求める。解釈とはすなわち対象を特定の仕方で解釈する自分の発見である。それは自分が最善に据える目的は何たるかを報告することであると同時に、自分自身が何者であるかを"理解"することである。

解釈するとき、人は自分自身に出会う。
あなたが最後に自分に会ったのはいつだろうか。

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この問いは次のように言い換えてもいい。

あなたはそれを理解したのか、それとも解釈したのか。

創作には作者の意思が反映されている。しかし、創作は完成すれば作者の手を離れる。そこに作者は不在であり作者は死んでいる。

それでもわたしたちは理解をしようと試みる。永遠にゼロとはならない作者との距離を縮めようと必死に。作者に歩み寄るという所与の目的を達成するためにひたすら足を前に進めようとする。道のりは決して平坦ではないがそこには確かなゴールが存在する。理解は作者との出会いである。

解釈にゴールはない。到達点のように見えるそれは自分の意思で立てた旗である。わたしたちは旗の位置を決めるため、ときに苦しくときに心地よい違和感を覚えながら先入観との対峙を繰り返す。

解釈するとき、人は自分自身に出会う。
違和感が照らす先入観という壁に姿を変えて。

到達のない理解と静的ではない解釈。どちらも終わりなき旅に変わりはないのに、どうしてこうも解釈に惹かれるのだろう。

理解なき解釈をしたいわけではない。理解の根底にある相手に近づきたいという謙虚な意思も、生み出された創作の最善を探し求める心も、作者への敬意を本質とする。理解が傾聴であるとすれば解釈は対話であり、対話は傾聴から始まる。

解釈は目的の報告であり、報告は相手を必要とする。受け手が発信者に変わり発信者は受け手となる。交互になされる再構築は完成を期しておらず、創りかえる営みそのものが喜びとなっていく。

解釈がもたらす出会いは新しい生を育む。両手ですくいきれないほどのゆたかな創作たちがいつも新しい自分でいさせてくれる。解釈された世界もまた解釈される運命にあるという永遠。理解では感じることのできない息吹がそこにはある。

作品ばかりでなく私たちを取りまいている世界自身が、見られ、読まれ、聞かれる存在です。つまり絵であれ、文学であれ、哲学の論文であれ、音楽であれ、あるいは文化現実であれ、また文化現実に分節される以前の<カオス>であれ、読み取られる行為によって生命をもつというか、新しい生を生きるのではないか。
—— 丸山圭三郎『ソシュールを読む』(講談社学術文庫, 2012年)


解釈するとき、人は自分自身に出会う。
あなたが次に自分と出会えるのはいつだろうか。




Photo by Ben Allan on Unsplash
References: Books cited in the text


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