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「ねぇ、どっちに着いていく?」

 1992年.私が二十歳の時、父と母は会社を法人化して
本格的に手作りハムを製造販売し始めた。
 その頃の私は美術大学の画学生。将来の夢は「画家」と断言し、家業のハム屋には全く興味を示さなかった。 

 私の生まれた宮城県大崎市(当時は玉造郡)岩出山は、小さな城下町だった。町中から離れた更に田舎に住んでいた私の周りで、一緒に遊べる人はいなく、おのずと姉妹で遊ぶことが多かったように思う。私はその3人姉妹の次女だった。年子の姉、3つ下の妹とは幼い頃から常に仲が良かった。
 父が初めて「手作りのシャルキュトリー」を作ったのは、おそらく私が高校生の時。完全なる手作りで、地元の改良普及員の指導の下、無添加のフランクフルトを作ったのが初めてだと記憶している。その時は単なる大人の趣味道楽くらいにしか見ていなかった。
「あー、お父さんの贅沢な趣味が始まったか」
くらいに横目で。それもまたすぐ飽きるだろうと見ていた。
 私の美大進学が決まって、何やら父と母の間で毎晩「話し合い」が設けられるようになっていった。姉と妹と私の3人で、聴き耳立ててこっそり聞いていると、なんと母が泣きながら父と口論している声が聞こえるようになり、それは日に日に増していった。 どうやら、父が農家を完全に辞めてハムを作ると言い出したようだ。 その様子を、1枚の壁づてに聞き耳を立てながら三姉妹はこんな話をしていた。
「どうする?あの二人離婚したら、どっちに着く?」
「お母さん」
「私もお母さん」
「絶対にお母さん」

「母が本気になると現実になる不思議現象」
 3人の意見は満場一致。大体父に事業なんかできるわけがない。ハムを作って売る? 無理、無理、無理。
「私の学費ってどうなるんだろ?」
「だから奨学金とか町の補助とか申請したんじゃないの?」
「あー、なるほど。それだわ」
 なんて話を姉妹でしていたが、しばらくして、なんと母が腹をくくったらしくその後の展開にはスピード感があった。
 私は仙台で一人暮らしが始まったから、近くで見ていたわけではなかったけど、あっという間に工場が建てられ、製造が始まっていったようだ。 後から聞いた話だと、田んぼを売ったり親からお金を借りたりしたみたいだ。我が家ではいつもそうだが、母親が本気を出すとなんでも早く事が進む傾向があった。しかし、見切り発車も多く、後に私が2代目になってからの苦悩に代わることとなる。(それはまた後の話)

「老舗百貨店、藤崎と出会う」
 そんな時、仙台の老舗デパート「藤崎」のバイヤーが父を見つけた。
 岩出山に変わった人が現れたと聞きつけ、わざわざバイヤーが足を運んだのだ。
 当時、ウインナーといえば「赤いたこさん」が主流の中、本格的なスパイスを施した手作りのハム・ソーセージは珍しかった。しかも値段がセレブ級だった。
 藤崎のバイヤーは、逆にそこに一筋の光を感じたという。直感で「これは売れる」と確信したようだ。


「物語はここから」
 その後、藤崎の7階催事場、地下一階の物産展で「岩出山家庭ハム」がセンセーショナルなデビューを遂げた。
 父が立ち上げたブランド「岩出山家庭ハム」のスローガンは「岩出山で家族のような仲間と作り上げる本格的なシャルキュトリー」だった。
 物産展に一緒に挑んだのは、そのスローガン通り、地元の仲間だった。岩出山の役場から借りてきた「法被」を羽織り、まるでお祭りを盛り上げるように大騒ぎだったという。
 その時、父は47歳。母は43歳。米を育てる農家を辞めての一大決心だった。 
 同年から藤崎オリジナルギフトとしてデビュー。瞬く間に一線を駆け巡ることになる


創業当時の様子

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