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大統領選、その青と赤のあわいにある、さまざまな色たち


ここしばらくのニューヨークは寒空が続いていたけれど、11月7日は久々に夏を取り戻したような日だった。真っ青な空の土曜日、家事も捗る。

洗濯物を畳んでいると、外からキャァッと劈くような叫び声が聞こえてきた。なにごと? と気になってバルコニーに出てみれば、ハドソン川沿いを歩く何人もがスマホ片手に歓声をあげている。


その場で私もTwitterを開いてみればやっぱり、飛び込んできた文字は、"JOE BIDEN WINS" 。あぁ、やっと決着が。バイデンとハリスが勝ったのだ。たちまち、外では鍋を叩き喜ぶ人、ベランダから叫ぶ人……ここいらは「閑静な住宅街」がウリだった場所にも関わらず、賑やかな音、音、音に包まれていく。

対岸のマンハッタンやその先ブルックリンでは、街中のアパートをひっくり返したかのようなお祭り騒ぎが始まっていた。様々な肌色を持つ人々が、自由や、多様性や、女性やマイノリティの権利、地球環境保護、そして何よりも "忌々しい4年間" の終焉を高らかに掲げ、歌い、踊り、喜び合う。青い空には色とりどりの落ち葉が舞い、地球までもが祝福しているようだ。大統領選の結果によっては暴動になるぞとマンハッタンでは多くの店先にベニヤ板が貼り付けられていたけれど、その心配は杞憂に終わった。

環境アクティビスト、フェミニスト、LGBTQ……日頃は別々の活動に取り組む友人らのほとんどがこの祝福ムードの一員となっていたようで、Instagramのストーリーも青一色に染まっていく。

まさにここは、Blue Stateなのだ。

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(Blue State=青い州、つまり民主党支持者の多い州)



──まるで邪悪な闇の組織に打ち勝ったヒーロー映画のエンディングのような景色を間近に、いち移民としてホッと胸を撫で下ろしながらも、世の中は揺さぶられている。少なくとも半数近くの有権者がトランプ大統領を支持し、この国はあまりにもくっきりと分かれてしまった。

青か赤か、国際協力か米国第一か、環境保護か経済優先か、リベラルか保守か、バイデンかトランプか──…。SNSを見れば「良くやった!」「解雇だ!」「フェイクだ!」「票を数えろ!」「票を数えるな!」「騙されている!」「マスクをつけろ!」「目を覚ませ!」……あらゆる言葉が飛び交い、喜怒哀楽では収集しきれないほどの感情で溢れている。

大統領が変われば、保険も、税金も、移民の処遇も、すべての仕組みが変わる。我が生活に関わることだからと必死に情報を拾っていても、どれもこれもが激しい二項対立で、いつのまにかアドレナリンが出すぎて眠れなくなる。SNSでの応酬を見て、目の前の出来事が腹立たしくなったり、悲しくなったり、がっかりしたり……… 確実に言えることは、このヒーロー映画の末席にいるエキストラとしてあまりにも興奮している、ということだ。



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「二項対立させれば、PVが伸びますよ」


もう6年ほど前になるのだが、Webライターのためのセミナーに参加したとき、ネットメディア界の大御所と呼ばれる人からそんなことを教えられた。長年数多のネットニュースを手掛けてきたプロフェッショナルによれば、二項対立は大衆の参加意識を高めて、PVが稼げるのだと言う。つまり金になる。

東京VS大阪、持ち家VS賃貸、犬派VS猫派……メディア側が二項対立させておくと、人はどちらかの側につき、SNSで勝手に我こそが正義だと自己主張を始めてくれる。駆け出しWebライターであった私は、ふむふむとEvernoteにそのことをメモっていた。

その後フリーライターとなり、10歳の頃からズブズブだったインターネットという土壌の中で、後天的に学んだプロの教えを実践すれば、教科書どおりにちゃんとバズる。あまりにもバズる記事を量産するもんだから、いつしかバズライターだなんて名誉な異名まで付けられた。



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バズライターを生業にしつつも、裏ではゴーストライターとして「謝罪文」を書く仕事を度々請け負っていた。

ネット炎上をしてしまったときに、企業担当者は燃え盛る炎をどう上手く沈下させようかと慌てふためく。そこでセミナー講師をしていた私の存在を思い出し、藁にもすがる思いで「この謝罪文は適切でしょうか?」と相談をしてくれる。ちょっと見せてくださいね、とチェックするとだいたい不適切なので、抜本的に修正する。少しでも自社を擁護するような文章は全てカットし、批判を全て認め、受け入れる超低姿勢の謝罪文を公式から出す。そして同情を得られるような悲壮感漂う物語を、当事者本人の言葉として別で打ち出す。

そうすればたちまち「見直した」「感動した」「反省してくれてよかった」だなんて言葉と共に、炎上は沈下していくのだった。( その謝罪文を、第三者が書いているというのに! )

つまり、画面の先にいる人の喜怒哀楽は、テクニックでどうにでもコントロール出来てしまう。二項対立の裏には金勘定があり、心からの反省文の裏にはあざといストーリーテラーがいるのだ。


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もちろん「良い」文章も沢山書いた。企業の事実をストーリーに仕立て上げるため、不調を「地獄」と、そこそこの好調を「奇跡」と書く。地獄から這い上がるシンデレラストーリーの中で、蛇足となる不都合な事実はまるでなかったことのように消し去って、明暗のハッキリとした物語に整える。それはべつに嘘ではないが、演出という名の誇張だらけだ

そうした仕事を続けていて、良心の呵責を感じたというか、単純にすごく疲れてしまったので、受託仕事は全部やめた。が、私ひとりがやめたとて、世の中は今日もわかりやすくって劇的な演出と誇張に溢れている。

事実は小説よりも奇なりと言うけれど、事実なんて、つまらなくっても構わないのだ。なかでも政治なんてものは、ライフラインを司る大規模な事務に過ぎないのだから、事実の羅列があるだけでじゅうぶんだ。やったこと、やっていないこと、やるべきことを羅列して、それぞれの立場で意見を述べればいい。

けれども今回の大統領選は、まるでNETFLIXの新作を観ているようにエキサイティングで、嫌でも興奮してしまう。世の中では「口先ばかりの、鼻持ちならないリベラル」「時代錯誤な、差別主義者の田舎者」と、互いのレッテルを貼り、罵り合う声が止まない。


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そんな中で、『ヒルビリー・エレジー』という本を勧めてもらった。タイトルを直訳すれば、『田舎者の哀愁』。日本語ではそこに、アメリカの繁栄から取り残された白人たち、という大味な副題が付けられているけれども、白人たち……と語るにはあまりにも粒の小さな、とある家族の実話だけが淡々と綴られた回顧録だ。

その本文に入る前、まえがきにて、以下のように書かれている。

"この物語は、私が記憶しているかぎり、自分で目撃した世界を正確に描写している。登場するのはすべて実在の人物であり、話を脚色してもいない。学校の成績表、手書きの書簡、写真への書き込みといった資料を使って、細部にいたるまで、できるだけ裏付けをとるように心がけた。"

つまり、物語としての演出は限りなく少なく、少々読みづらい。特に序盤は歴史の教科書を読んでいるようで、なかなかしんどい。けれども、著者が淡々と事実を書きたかった意図は、読み進めていくと理解できるだろう。


著者であるジェイムズ・D・ヴァンスは、1985年オハイオ州ミドルタウン生まれ。五大湖周辺、Rust Belt(錆びついた工業地帯)と呼ばれる鉄鋼業の町で生まれ育ち、イェール大学のロースクールを卒業した、自称「ごくふつう」の暮らしを送るインテリだ。彼がこの本を書いたのは31歳。ちょうど私と同世代ということもあり、親近感を持って読み始めたのだが、その半生はちっとも「ごくふつう」じゃない。中でも母親とのエピソードは壮絶だった。

彼が12歳の頃。母親の運転で高速道路を走っている途中、母は息子の何かが気に食わなかったらしく「車をぶつけてふたりとも死ぬ」と速度を160キロまで上げていく。驚いたジェイムズは後部座席に飛び移ったのだが、それを見た母はさらに激怒し、息子をぶちのめそうと車を道路脇に停めた。その隙を見て、ジェイムズは大草原を死にものぐるいに逃げ出し、見知らぬ女性の住む民家に「助けて、母さんに殺される!」と転がり込んでいく。女性は慌てて、すべての扉に鍵をかけてかくまってくれたものの、追いかけてきた母は扉を壊して中に入って来たという。

"すると母は扉を壊して、私を外に引きずりだした。私は叫び声をあげて、あらゆるものにしがみついた。網戸、階段の手すり、地面に生えている草。(中略)母が私を車に引きずり込もうとしているとき、家の前にパトカーが2台停まった。降りてきた警官たちが、母に手錠をかける。おとなしく従おうとはしない母を、警官がやっとの思いでパトカーの後部座席に乗せて連れ去った。" 


その後、母は家庭内暴力の罪で起訴されるのだが、そこで裁判の証言台に立つのは息子であるジェイムズだ。自分が「暴力を受けた」と証言してしまうと、母親は刑務所に入ってしまう。(祖父母や弁護士からの圧もあり)そこで真実は告げず、母との暮らしを続けたという。


ジェイムズが高校生のときには、母は息子に「クリーンな尿をくれないか」と高圧的に求めてきた。母親の仕事は看護師で、看護師免許を更新するために尿検査が必要なのだが、ドラッグに依存しているため自分の尿では検査に引っかかってしまうのだ。「クリーンな小便が欲しいんなら、つまらないことはやめて、自分の膀胱からとれ」とジェイムズが否定したところ、母親は態度を一変し、涙を流して懇願してくる。

しかし息子のジェイムズもまた、母親の彼氏が庭で育てているマリファナを吸っていたので、自分の尿がクリーンではないと知っていた。それを聞いた祖母がアドバイスをするのだが、その内容が「3週間でマリファナ2本程度なら、検査に引っかかることはない。どうせろくに吸い方だって知らないだろう」というもの。なんちゅうアドバイスだ。


この祖母というのがまた、おっかない人なのである。1926年生まれの祖母がまだ12歳ほどの少女だった頃。家の大切な牛が泥棒に盗まれかけているのを目撃し、少女はすぐさまライフルをつかんで二人の泥棒めがけて撃ちまくる。「議論するくらいなら撃ち殺したほうが手っ取り早い」と考える一族だったらしい。ひとりは脚に命中したので、最後の一撃を加えようと銃口を向けたところ、叔父が割って入ってきたので、泥棒は一命をとりとめた。

その2年後、14歳にして妊娠した少女は、17歳の夫と逃げるように町を出るのだが──その夫婦は老夫婦になっても、いつまでも銃弾を込めた銃をポケットに忍ばせていた、というのだから驚きだ。しかしそんなおっかない祖父母が、この悲惨な環境下でジェイムズを守り、愛を注ぎ、その地域では本当に珍しいことに、大学に行けるまでに育て上げてくれたのだという。


対して母親は、薬物依存者であり、虐待を繰り返し、端から見ればひどい毒親に見える。けれども幼いジェイムズのために図書館カードを作ってやり、はたまた本を買い与え、息子が本を読み終えるとしきりに褒めてくれたという側面もある。現金がなく、クレジットカードも持っていないが、息子と娘のために小切手を使って給料の前借りをし、豪華なクリスマスプレゼントを買ってくれることもある。悪役だと糾弾するだけにはおさまらない、家族としての姿があるのだ。

そして読み進めていけば、ジェイムズの家庭だけがとくべつ荒んでいた訳ではないことが見えてくる。彼の故郷であるオハイオ州ミドルタウンでは、繁殖にしか興味を示さない父親も、家族に向かって皿を投げる母親も、喚き散らかす夫婦喧嘩も、バイト先の商品を盗んで転売したり、ちっとも働かずに低所得者向けのフードスタンプを受給しステーキ肉を買って食べる大人も、薬物の過剰摂取により死亡する若者も、どの家庭にいても珍しくないことだと書かれている。

日本人の私たちにとって、「アメリカの白人家族」と聞けば、かつては支配階級にあり、現在も大きな家に住み、物に溢れた豊かな暮らしをしているイメージがなんとなく浮かぶかもしれない。貧しい側として報じられるのは、黒人であり、ネイティブ・アメリカンであり、南米からの移民であったはずだ。ただ、白人の中にも様々な系統があり、著者はスコッシュ=アイリッシュの家系に属している、代々貧しい立場にあった労働者階級のひとりだと訴えている。そして、そうした自分や仲間たちに誇りと愛を持っているのだ。



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彼らの貧困は、構造的な問題である。アメリカは農業にしても、工業にしても、規模の大きな国だ。ゆえに1つの町が、1つの企業に支えられている……ということは多く、彼の育った町では、かなりの人口がアームコという製鉄企業で働いていた。1917年創業のアームコは、ミドルタウンの心臓のような存在で、町にアームコ・パークを作り、無料コンサートを開き、学校に資金援助もしていた立派な企業だったという。

ただ、1980年代に入り、製造業は労働力の安価な海外に流出。そこで1989年にアームコは日本の川崎製鉄と合併しA・K・スチールと社名を変えることで生き残りを図ったものの、現在はそれすらもなくなってしまった。

すると町には、仕事がない。じゃあ引っ越せばいいのでは? と思うかもしれないが、そう簡単にいかない……ということも綴られている。

"この現象の原因は複雑だ。ジミー・カーターの地域社会再投資法から、ジョージ・W・ブッシュのオーナーシップ社会まで、連邦政府の住宅政策は、家を持つことを国民に積極的に勧めてきた。

ミドルタウンのようなところでは、持ち家にはきわめて大きな社会的コストがともなう。ある地域で働き口がなくなると、家の資産価値が下がってその地域に閉じこめられてしまうのだ。引っ越したくても引っ越せない。というのも、家の価格が底割れし、買い手がつく金額が、借金額を大幅に下回ることになるからだ。引っ越しにかかるコストも膨大で、多くの人は身動きがとれない。もちろん、閉じこめられるのは、たいていが最貧層の人たちで、移動できるだけの経済的余裕のある人は去っていく。"



これと同じような話を、NETFLIXのドキュメンタリーでも見た。『アメリカン・ファクトリー』という作品だ。

「先入観を捨てる」「お互いの話を聞く」「恥をかかせようとしない」「暴露映画は作らない」という約束のもと作られた本作では、オハイオ州のデイトンという町の、ゼネラルモーターズの工場が舞台となっている。

ここもミドルタウンのアームコと同じように、巨大な工場が町の雇用を生み出していた。しかしそのゼネラルモーターズは操業をストップし、多くの労働者たちが職場を失ってしまう。そこに救世主のように現れたのが、中国の大企業、福耀(フーヤオ)である。

巨大な工場は福耀の持ち物となり、自動車のガラスパーツを製造する工場として息を吹き返した。長年技術者として働いてきた地域の住民たちは「またここで働ける!」と期待するのだけれども、時給はゼネラルモーターズ時代の半額。さらに長時間労働、危険な業務に怪我が相次ぎ、労働者の権利を守るための労働組合を立ち上げることも許されない。何から何まで社会主義の中国スタイルで、アメリカ人労働者たちとの間に亀裂が走っていく。

「米国を再び偉大な国にしよう」だなんて、まるで大統領のように呼びかけてくる中国人経営者と、安価な賃金で雇用され、文句を言えばすぐに解雇されるアメリカ人労働者。中国研修に連れて行かれたアメリカ人の部門長たちは、私語なく、無駄なく、ロボットのように機械的にはたらく中国人に圧倒させられる。中国人は寝る暇もなく、家族にも会わず、一年中働くが、アメリカ人は週末になれば家族とBBQをするものだ。そんな文化の違いが、そしてそこから生じる亀裂が、淡々と記録されている。このドキュメンタリーも序盤は劇的な変化がなく退屈かもしれないが、事実に忠実に作られたゆえ退屈なのだろう。


このドキュメンタリーを観て、中国企業はなんて恐ろしいんだと思う人もいるだろう。一方で、中国人は勤勉なのに、アメリカ人はなんてだらしないんだ! と感じる人もいるだろう。きっと受け取る人の文化背景によって、感想はまるで異なるはずだ。


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私は大阪の千里ニュータウンという町で生まれ育った。大阪のベッドタウンということもあり、周囲の「親の職業」はそれなりに多種多様だった。自営業、小売店、商社、医者、警察官、教師、経営者、運送業、サラリーマン……。東京のように広告代理店や芸能人の親はいなかったが、

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。