古く美しい暮らしは、なぜ消えた?
古くから在る美しい景観を前にすると、心の奥のほうからあたたかいものが湧き出てくるような、なんとも満たされた気分になる。それは石垣や木造建築が並ぶ彩度の低い街並みであり、苔の生した岩であり、縁側や床の間のある古い家屋、そのゆらゆらとしたガラスの向こう側に見える内庭の紅葉でもある。
子どもの頃から、古い街並みに焦がれていた。原体験として色濃いのは、小学生の頃に修学旅行で訪れた倉敷の美観地区。柳が枝垂れる川沿いを、あまりの美しさに驚愕しながら歩いたときの高揚感は今でも忘れられない。その街並みがひどく気に入ったものだから、私は倉敷で撮影した6年1組のクラス写真を学習机の横に貼り、いつまでもうっとりと眺めていた程である。
そのほか七五三や初詣で訪れる神社はもちろん、祖父を弔うためのお経が読まれていた寺院でも、不謹慎ながらその場の情景にときめきを感じていた。古い建物とその周辺に流れるしんとした空気。その全てが珍しく、目新しく、静かに心躍るものであったのだ。
どうしてここまで古い景色に惹かれるのか……その理由にはおそらく、生まれ育った故郷のプレーンな町並みがあるように思う。
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私の故郷である大阪、北摂の千里ニュータウンというかつての新興住宅地は、その域内に一切の宗教施設を作らないという原則で開発されたらしく、ほんの僅かな例外を除いて神社仏閣が存在しない。
さらにニュータウンを大きく特徴づけている、高度経済成長期を象徴するような団地群。あれらは国際的なモダニズム建築の組織によって日本のモダニズム建築の一つとしても選出されているらしく、そのどこまでも直線的な外観には過去の様式美を一切振り返らないような潔さがある。
そうした団地の合間に青や赤に塗られた遊具がある公園が点在し、区域によっては手入れされた芝生や花壇の美しい戸建てが並ぶ。そうした景色が、私が幼少期に見ていた故郷の原風景だ。
それ故であろうか、神社仏閣、もしくは宿場町や城下町のような古い街並みは、まるで遠い異国の景色のように珍しいものであるかのように見えた。もっとも子どもの頃は海外に行けるような機会もなかったので、この目で見られた珍しい景観といえばテーマパークのイミテーションな街並みか、日本の古い街並みに限られていた、ということだったのかもしれないけれど。
ただそんな新興住宅地の暮らしの中でも、祖母や母の尽力のお陰で、古いものに対して気持ちが高揚する瞬間は訪れた。盆踊りのときに着せてもらえる浴衣。床の間に飾られた正月飾り。ご先祖様へのお供え膳。雛人形の鏡台や茶道具。……と、これを書いていて思い出したけれど、私は小学生の頃に父のWindows95を使って「和風同盟」という同人サイト的なものを運営し、和紙風の壁紙素材.jpgなどをせっせと配布していた過去がある。ここまでくると育ち云々というよりも、天性の古いものフェチなのかもしれない。
しかし現代の生活の中で、こうした嗜好を穏やかに愉しむことは容易くない。というのも、古く、色数が少なく、調和のとれた静かな世界と、新しく、カラフルで、賑やかな世界を隣接させたならば──劣勢となるのは、おしなべて前者の側である。
たとえば都内有数の庭園である小石川後楽園には、徳川の時代に作られた円月橋などの美しい建造物が残り、そこに春の藤棚、初夏のカキツバタ、夏のスイレン、秋のヒガンバナ、冬の松の雪吊り……と、どの季節に訪れても美しい景観が広がっている。ただ、隣接する東京ドームで開催されているライブの爆音や、遊園地のジェットコースターから聞こえる絶叫は、その場のBGMとしては全く相応しくない。
もちろん、経済的な側面を考えればそうした商業施設からの税収によって支えられている面は大きいのだろうけれど、それでも隣接しているのは如何なものか。もっとも、太平洋戦争中の後楽園球場には機関砲や高射砲が設置されていたというのだから、今日のBGMに文句を垂れるのは贅沢なことではあるのだけれど。
しかし、そうやって贅沢だからと反論することを諦めてしまっては、世の中のありとあらゆる箇所が大きなものや便利なもので埋め尽くされて、小さな美しさは見る影もなくなってしまう。そうした惨事には、日常の至るところで度々出くわす。
たとえば、引っ越し先を探すときなんて顕著なものだ。賃貸サイトで、これは趣深い外観のお家……と期待して詳細をクリックしたら、次の瞬間には残念にリノベされた内装が表示され、「はぁ、なんで床ツルツルにしたんや」「なんで床の間潰してん」「なんで石畳の上にセメント流すんや……」とひとり阿鼻叫喚してしまうことは少なくない。残念なことに、私が「なんでやねん」と画面に向かって悪態をついている姿は、テレビで野球観戦をする父のそれに酷似している。どれだけ静謐な文化を愛しても、私が熱狂的な阪神ファンの娘である関西人、という事実だけは変えられず、これは実に残念なことである。
それはさて置き、ここで現代の住まいに対する具体的な不満を挙げておきたい。日本の賃貸物件の多くは、貼り替えやすい白い壁紙に囲まれ、下を向けば傷つきにくいツルツルのフローリングの床があり、それらを備え付けのシーリングライトが明るく照らしていて、無惨なほどに趣がない。こうした壁、床、光に囲まれた実験室のような明るい部屋は、侘び寂びのような美意識とは対極にあるし、とはいえモダニズムと呼べるような誇りを持ったものでもない。
便座のウォシュレットや浴槽の追い焚きといった機能面には感涙することもあるけれど、そうしたファシリティの充実は、美しさの追求とはまったく異なるベクトルの上にある。もちろんそれ相応のお金を払えば、もしくは安くとも古い物件に手をかけてやるのであれば、美しい暮らしは手に入る。けれども多数派を占める中流階級のふつうの家は、「住めりゃそれでいいでしょ」と言わんばかりの様相を呈している。暮らしの中に誇りを持つことは、なにも特権階級だけに許された娯楽ではないだろうに。
集合住宅の各家庭に縁側や内庭を充てがうのはむずかしくとも、僅かに時代を遡れば、集合住宅の中にも床の間に掛け軸……という景色は当たり前に存在していたのだ。それがたった数十年で、どうしてこれ程までに日本の家は美意識を内包しない空間に成り下がってしまったのか。なんて嘆かわしいことだろう!……と懐古厨として憤慨していた頃、SNSのタイムラインに興味深い情報が流れてきた。
2022年3月。建築史家・本橋仁さんが『住宅の近代化と「床の間」 大正から昭和、起居様式の変化に伴う鑑賞機能の諸相』という論文を発表したらしく、その件を知らせるツイートが回ってきたのだ。論文は京都国立近代美術館の研究論集に掲載されているとのことで、早速取り寄せて読んでみたところ、これが非常に面白かった。
床の間という世界的に見ても類稀なる展示空間は度々、その存在が脅かされ、また批判されてきたという。
まずはもちろん、明治以降の住宅の西洋化である。椅子座が中心となった暮らしにシフトしたとき、床座の目線を基準に作られていた床の間はもちろん鑑賞空間として低すぎる。ただ、その時代の人たちは床の間のような鑑賞空間をあたらしい生活様式の中でも設けようと試行錯誤し、結果として暖炉上の「マントルピース」が床の間の代替とされることが多かったのだとか。
しかしそれ以上に興味深かったのが、大正期や戦後に度々勃発した「床の間を廃止せよ!」という運動なのだ。
まずは大正期。1921年1月6日、新年早々読売新聞に発表された評論家・内田魯庵のエッセイ『バクダン』には、「今日の床の間は平凡画工を賑はす為のお救ひ小屋になつてるやうなものだ」だとか、「床の間画工となつて大成した大美術家気取になるのは大なる誤りである。床の間は美術家の大成の為めにも亦廃止せざるべからず」といったような大変過激なパワーフレーズが並ぶ。
超訳すると、「最近の床の間は、ショボい画家を食わすためだけのホンマつまらん救済場所やで」「床の間なんかに絵飾ってもろて、いっぱしの美術家になったつもりか? ありえへんわ。 床の間なんてもんは美術家らが大成するためにも廃止せなあかんねや!」……というような具合だろうか。
つまり、大多数の家に床の間があり、それ故に多くの人が「とりあえず季節の作品を飾らなきゃ」と掛け軸を買う。そうした安定的な需要が、美術家たちの自由で創造的な発展を妨げとるやないかアホボケナス……という怒りのご指摘である。
この主張に触れて、私はとあるファッション誌の敏腕編集長の言葉を思い出した。10年程前に聞いた話なのでうろ覚えではあるけれど、おおよそ次のような内容だった。
「うちの雑誌では、連載枠はつくりません。だって連載枠がそこにあると、それを担当する編集者の企画力が衰えてしまうでしょう。編集部の中にそうした人が一人いるだけで、全体の士気が落ちてしまう。全員が常に時代の空気を読んでアイデアを出し続ける、そうした空気感を部内に醸成しなきゃいけないんです」
これを聞いた私は当時、大いに共感しウンウンと首を縦に振っていた。ぬるい空気やそこから生まれた妥協ある仕事は、その場、ひいてはその業界の持ち得る創造性を内側から腐敗させてしまいかねない。同じことを長年続ける……という行為の外側だけを見れば「慣れ」と「成熟」は似ているかもしれないが、内側の密度において前者は後者の足元にも及ばない。
「とりあえず、必要だから買っとこか」という程度の気持ちで買われていく掛け軸が数多あり、そうした市場で研鑽もせずに食えてしまっている美術家たちが大勢いた、という状況を想像すると……確かに内田の主張には、賛同してしまうところがある。
話は逸れるが、昨今の日本でも近しいことは起こりつつある。IT起業家を中心に若手作家のペインティング作品などがよく売れるようになり、そのために多くの美大生や若手作家が、どこかで見たような今っぽい平面作品を量産することに大忙し、という嘆かわしい状況である。もちろん市場が広がるというのは良い側面もあるけれど、そうしたバブルのような状況の中から魂の震えるような傑作が生まれてくる確率は、どう見積もっても低くなってしまうだろう。
このように大正期から床の間は存在意義を問われてきたのだけれど、さらに戦後の昭和期になると、また別の角度から批判されていくようになる。今度は「床の間は家父長制の象徴であるから追放すべし」という、フェミニズム的な側面を持つ運動であった。
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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。