偏愛の時代における、感性ドリブンな情報摂取のすゝめ
「この人、ちょっと苦手なんだけど、でも情報が面白いからフォローしとこうかなぁ……」
「すごく若者に流行ってるらしいYouTuber、一応おさえとかなきゃ…好みじゃないけど……」
「3年前くらいに一度飲み会で会って、そこからずっと相互フォローなんだけど…ストーリーで流れてくるこの人の飲み会情報には、全然興味ないんだよなぁ〜〜でもフォロー外すのも悪いかな〜〜〜……」
みたいな謎の縛りにより、公式、個人、アイドル、海外インフルエンサー、クリエイター……ありとあらゆるアカウントをフォローして、24時間365日情報の蛇口を開きっぱなしにしてる……みたいな方はいらっしゃいますでしょうか。
いやもうこれは完全に半年前までの自分のことなのですが、なんというか、謎の義務感からフォローし続けても、結局何も入ってこないんですよね……。「え?あぁ、知ってる知ってる(名前くらいは)」と飲み会で相槌を打てる程度で、それ以上のことはなにも知らない。
「あぁ、知ってるよ」と知ったかぶりする自分が、もうめちゃくちゃ恥ずかしくなる。素直に「知らないから教えて!」って聞いたほうが、結果として魅力が知れるかもしれないのに。なぜ人は知ったかぶりをするのだろうか。それ、だいたい相手にバレてるぞ。
はい。
そんな私だったのですが、今年は、この記事にも書いた通り、ミニマリストとしての目覚め(笑)があったので、
・買うもの
・身につけるもの
・目に入るもの
・五感に触れるもの
などなど、まぁつまりは生きる上でのすべてを極力、自分の判断で取捨選択して、最小限にしていきました。これ、かなり景色が変わりました。いや本当に。
思い返せば10年前。
「広告の仕事に!PRの仕事に!メディアの仕事に就きたい!」
……みたいな業界への憧れを抱いた大学生の頃から、ずっと「マルチに全部わかる人」にならなきゃいけない、だから鬼のように情報を吸わなきゃいけない……みたいな強迫観念に追われていて。トッププレイヤーたちの本には「とにかくインプットの量が大事」と書いてあるし、役に立ちそうなことも、何の関係のない雑学も、世の中のトレンドも、人間の嫌なところが全部出るような炎上も、そりゃもう狂ったように情報を吸い続けていました。
街を歩けばフリーマガジンを持ち帰り、「オススメ!」と言われるアカウントは即フォローし、気になる広告があればスマホで写真をとり、誰かがオススメしていた本はすぐに買い……
気づけばもう、散らかりすぎて、手がつけられない部屋みたいになっちゃってました。とくにSNSのタイムライン。インスタなんて2000人もフォローしてしまうと、もうまったく訳がわからない。「え、誰?!?!」みたいな人たちの飲み会の様子がストーリーで流れてくる。そして結局見なくなる。
SNSと部屋はすごく似てます。部屋の中に「まぁ使えるし」と思って置いてあるけど全然使わない企業ロゴ入りのボールペン(大量)。出先で必要になったからとコンビニで買ったホッチキス(ゴロゴロ出てくる)。いつかの結婚式のカタログギフト(期限切れ)。一度しか行ったことがない店のポイントカード(捨てられない)。重複しまくる調味料……(なぜ柚子胡椒だけやたらと増えるんだ!)。
そんな「なんとなく」が積もり積もってる状況。。。。
しかし、入院がきっかけで「オーバーワークはもうあかんわ……働き方をミニマルにしよう……!!」と決意。情報摂取も、消費行動も、すべてを見直す機会に恵まれました。
具体的には、インスタのフォローしてるアカウントを2000人から400人くらいまで減らしたり、「いつか何かで使えるから」と溜め込んでた大量のモノを断捨離したり……。
そしたら途端に、空気がスーーーっと綺麗になって、目が冴えてきたんですね。そこで書いたのがこのコラムでした。
このコラムは、なんというか、自分でも「あたらしい場所にいけたなぁ」と思える嬉しさがあって。ただ急須が家に来ただけ、ほんとそれだけの話なんだけれども、その急須があることで、こんなにも感情や暮らしが変わるんだ、って。
これまでは、情報やモノに埋もれすぎて、感性が死んでたんですね。
情報を絞ると、感性が生き返った。
インプットの量を減らすことは「視野を狭める」というよりも「嗅覚を研ぎ澄ます」ということ。自分の審美眼、自分の取捨選択の軸、そういうものを持つということなんだと思います。
情報を絞っていったら、ふと目に入るインスタグラムの写真1枚ですら、なんだかもう、物語の序章のように見えてきて。たとえば…
「これ、すごく好きだなぁ、誰が作ってるんだろ? あ、この人がクリエイターさんか……」
って、1枚をきっかけにどんどん調べていって、インターネットの森の中にざっくざっくと入っていく感じ。あぁこれは楽しいぞ。空気がおいしいぞ、脇道の花が気になる、一歩戻ってみる、写真を撮ろう、家に帰っても写真を何度もみかえすだけでニヤニヤ……はぁ好き………みたいな。
これこそ私の好きだった、感性ドリブンの情報摂取なんです。
そうした偏愛を育てていくと、別の偏愛のスペシャリストとも途端に話がしやすくなるんですよね。
「あぁ知ってますよ(名前だけは)」みたいな感じの知ったかぶり野郎には、誰も本音で、自分の宝物のことを打ち明けてはくれません。
(↑このSHさんがすごくスッキリ言語化してくださっていて、うれしかった。。。)
でも、今の時代、情報が多すぎて、感性を殺さなきゃ生きづらくなっちゃう。感性を開きっぱなしにすると、毎日の満員電車が、まず耐えられない。感情で考えると「NO!!」なのに、そのサインを見て見ぬ振りして、耐える。だから、「大人になる」と「感性を殺していく」は、少し同義でもあると思うんです。悲しいことですが……。
ただ私は、感性を殺さずに仕事をしたい。今はそれが叶えられる時代になったから、そこをちゃんと磨いていって、どんどん偏っていきたいなぁ、と思うようになりました。
もちろん、「自分のクライアントは多種多様で、美容からグルメから金融までありとあらゆる分野の宣伝を担当してる」といったお仕事の方であれば、幅広いインプットは必要かもしれません。私自身、会社員の頃はまさに美容からグルメから金融までがクライアントで、だからこそ、本当に全てをインプットする日々でした。それは無駄じゃなかったし、今でもその知識に支えられることはあります。
ただ、ここ数年で業界の状況も随分と変わって。
SNSの発達で中央集権的な仕組みが崩壊して、
新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。