時間をかけたものが、良いものだとは限らない
「気合を入れて書きました!」
「全力で書きました!」
だなんてよくツイートしちゃってるんですが、これ、だからって「良い記事だという保証」にはならないんですよね。悲しいことなんですが。
キチンと構成を練って、読者層を考えて、取材して、撮影して、レタッチしてもらって、校正して、カンペキに仕上げた記事よりも、感情にまかせて、涙を流しながら深夜に書きなぐったブログなんかのほうが、よほど反響が来たりする。前者に200時間、後者に30分かけたとして、反響はまったく時間に比例しないというのが、インターネットの悲しくも面白いところです。
「記事を作るのに、何時間くらいかけてますか?」とよく、本当によく聞かれるのですが、これに答えるのはむずかしい。感情がちゃんと乗っかっているとすぐに書けちゃうし、それが見つからないと全然、本当に全然進まない。
「どうすればバズりますか?」という質問もよくありますが……たとえば誰かの不満を代弁するだとか、とにかく量で有益さを担保するだとか、ある程度の正攻法があって、確率を上げることは出来ても、「絶対」なんてものがないんですよね。
でも1つだけ確実に言えることがあります。記事に何人もの人が関わり、たくさんの赤が入って、主語や感情がかき消されてしまった記事は、絶対に誰の感情も揺さぶりません。
すごくわがままに、本心のままに、恥ずかしいほどにえぐり出した記事ほど、誰かに強く響く。
「こんなことに共感してくれる人なんていないでしょ」
と思うようなことでも、インターネットの広さを舐めることなかれ。クラスのなかで一人ぼっちだったとしても、全国の教室の片隅に、涙を流しながら共感してくれる人はいるかもしれません。
ここ最近、ずっと「Webライターになるのは簡単だ」「今の時代、誰でもWebライターになれてしまう」だなんて言われています。
新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。