「良いことでは飯が食えない」への終止符を。
フリーランスになってずっと、PRでお金を稼いで生きてきた。フォロワーが増え、消費促進が出来るからこそ、しっかり報酬をいただくことが出来た。
でも、自分の言葉をちゃんと自分で取り戻したくて、milieuで、PR記事をやめた。それがちょうど1年前のこと。
同時に、環境問題にも関心を持ち始めた。
すると、世の中を構成するあまりにも多くの物事が、社会的弱者や、動物や、地球を痛めつけて成り立っている……? と、途端に恐ろしくなってしまった。情報を摂取すればするほどに、のんきにニコニコ「買ってください!」「これ、いいですよ!」とは言えなくなってくる自分がいる。
"識字憂患"──つまり「人生字を識るは憂患の始め」というのは、中国北宋代の政治家であり文豪でもある蘇軾の言葉だ。これはつまり、人は文字を学び、書物に触れることで悩んだり苦しんだりしてしまうから、無知でいたほうがよほど楽だったのに! ……みたいな話。わかる。
この言葉が生み出されてから千年近く経った今も言い得て妙というか、むしろ識字憂患ここに極まれり、といった時代なのかもしれない。知らなければ、苦しまずに済んだかもしれなのに、知ってしまった以上、向き合わないことは罪になる。
でも、ちゃんと向き合うとすると、まず、どうなってしまうのか。
PRを生業にしていた人間が、それをパタリと辞めると、もちろんお金が稼げなくなる。
水面下でコンサルティングなどもしているが、やっぱりそこも、環境負荷の低い仕事を……と選んでいくと、どうにもこうにも苦しくなってくる。
noteでも、以前は「商品のバズらせ方」みたいな、もっと消費行動に直結するものばかり書いていた。それは正直、めちゃくちゃよく売れた。でもこのマガジン「視点」みたいな、かなり主観的なエッセイになった結果(これは私の力不足でしかないのだけれど)売上は5分の1くらいに落ち込んだ。(ただ、精神衛生は上がった)
同時に、一番ショッキングなのが「塩谷さんの影響を受けて、仕事が出来なくなりました」という読者からの声だ。もちろん、そこまで直接的な表現ではないけれど、つまり意訳すればそう捉えられる声なのだ。
私は、「もっと自然体に」「もっと環境負荷を低く」「もっと美しく」……と呼びかけ続けている。じゃあ、この意見に同意した読者が短期大量消費社会の現場にいたとしたら、どうなるだろう?
世の中に警鐘を鳴らすのはいいけど、鳴らしたあとの、次の世界までセットで考えておかないと、ただの机上の空論、口先ばかりの人間になってしまう。
──
しかし、最近はもっぱら環境問題のことばかり発信しているけれども、それは本当にやりたいことのコアなのか? と自分に問えば、NOなのである。
私は、美しいものが見たい。楽しいことがしたい。面白いもので笑いたい。欲しいものが欲しい。そして、そうしたもの全てを文章に書きたい。それが一番大切な、ただの欲深い人間だ。
でも、その背景に、搾取されて死にそうな人、たらい回しにされ腐敗臭のするゴミの山、理不尽に奪われる権利、そんなものがあることを知ってしまうと、もう何も出来なくなる。
医者になりたいと思った女性が、女性であるがゆえに医者になれなかったとしたら、まずは権利の平等のために闘うだろう。
美しい世界で生きたいと思う私が、美しくない世の中で過ごしているとすれば、本当に美しいものを安心して摂取できる世界になるまでは闘い続けるしかない。
しかし、闘うことは、自分の立ち場を──それも、資本主義社会、短期大量消費社会の中での立場を、どんどん弱くしてしまう。
「良いことしてるね」「尊敬してます」「助かりました!」
そんな言葉は沢山もらっても、収入は笑ってしまうほどに激減している。
「ロールモデルにしています!」
……という人に向かって、こっちに来たら儲からないからやめときな、とも言いたくなってしまう。でもそれじゃダメなんだ。貧乏にならない世界をちゃんと作って、「安心してこっちに来てね」と言いたいんだ。
私は良いことで飯が食える人を増やしたいのだ、情報を安心して摂取できる場所をつくりたいのだ。「真面目なだけじゃ、やさしいだけじゃ損するよ」と言われない世界をつくりたいのだ。
じゃあ、具体的に、どうするのか?
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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。