煙と共に去りぬ
昨今の禁煙運動の強化により、喫煙者や愛煙家にとっては生きづらい世の中になっていることは自明でしょう。これから締め付けがさらに強くなることを考えると、ため息代わりに一服したくなるものです。
ドラマや映画の登場人物、またはミュージシャンが煙草を吸っている姿をカッコいいと思う若者もこれからは少なくなりました。健康には悪い。経済合理性は無い。周りの人に迷惑。どこもかしこも禁煙スペース。百害どころか、千害あって一利なし、とみなされる喫煙者は、文字通り「煙たがられる」存在になっています。
世の中は常に変わっていくので、喫煙者を取り巻く環境も変わっていくことに異論はなく、粛々とマナーとルールを守ることに努めるしかありません。しかし、葉巻を取り扱い、喫煙可能な店として営業している人間として、「煙草や葉巻は心を洗う効果があるんだよ」とひっそりと小言を言いたくなります。喫煙の害ばかりが叫ばれる中で、この効能に目を向けてほしいものです。そもそもそれは、喫煙しない人からすると理解が難しい話です。科学的にエビデンスがあるかと言われると、喫煙者の主観的な思い込みにすぎないかもしれません。(ところで、喫煙しない人たちは、どうやって心を洗っているのでしょうか。)
煙草や葉巻が、元々は薬としての効能があると信じられていたことから「一服する」という表現が使われています。「服」という字には、「衣類・着物」という意味の他に、「体や心に受け入れる」という意味もあります。一服することは、まさしく心を洗うことだと言えます。
また、煙草や葉巻の味は、その時の人の気分で大きく左右されます。特に葉巻の味は、管理次第で大きく差が分かれますが、その一方で葉巻を吸う人の気分や状況も大きく影響します。例えば、仕事でうまくいった日にお祝いとして吸う葉巻は、当然美味しく、喜びを倍増してくれます。逆に、仕事でつまずいた時に吸う葉巻は、やさしく慰めてくれたり鼓舞してくれる味わいを感じ得るでしょう。仮に同じ日に同じ銘柄の葉巻を吸っても、人によって味や印象は違い、一つとして同じ味わいはありません。それは葉巻の個体差だけでなく、まさに「十人十煙」。それぞれの人が、それぞれの気分で葉巻を吸うからこそ、その人だけの唯一の味となり、至高の時間に繋がるのです。良かったことがあった日も、悪いことがあった日も、吸い込んだ煙が心を洗い流し、吐き出した煙と共にその日は過ぎ去っていきます。そして明日に向かって歩みを進める頑張る人たちが一服する時間と場所は、いつの時代もなくてはなりません。
煙草も葉巻も、れっきとした喫煙文化の象徴です。自分自身を調整したり、人間関係を調整するために、必要な人には必要です。そして文化とは、その文化の外側にいる人たちとの相対関係で成り立ちます。喫煙文化は、世間一般から見ると、無駄でしかなく、そのうち絶滅しかねないものですが、最後にこの言葉で締めるとしましょう。
「無駄に見えるものをどれくらい許容できるかが、文化というものでしょう。」(池波正太郎)