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地域の信頼が経営者の報酬を変える一因となる|論文紹介「Trust and Contracting:Evidence from Church Sex Scandals」

こんにちは!シンギュレイトnote編集部です。

第5回の論文紹介です。今回は、地域の「信頼」の、経営者報酬や経営戦略への影響を調査した論文です。

調査の結果、明らかになったのは、地域の信頼の値によって、基本給と業績連動報酬の割合が変わることや経営戦略において重視する視点が変わる、ということでした。地域の信頼が、企業経営に大きな影響を与えるのです。

早速、その中身をみていきましょう。

紹介論文
Trust and Contracting:Evidence from Church Sex Scandals
Gilles HILARY, Sterling HUANG

植野剛 株式会社シンギュレイト サイエンスチーム 責任者京都大学大学院にて情報学の博士号を取得。 専門はAI・機械学習。科学技術振興機構、東京大学、理化学研究所での研究員を経て、金融系スタートアップにてCROを務める。2023年4月にシンギュレイトに参画。シンギュレイトの研究開発を一手に担う。
論文紹介者:植野剛,博士(情報学)

ここがわかれば9割OK!(論文でわかること)

  1. 信頼が高い地域では、

    1. 経営者の報酬は基本給中心で、業績連動報酬が低くなる

    2. 過剰な投資が抑制され、企業の年間設備投資増加率が低下する

    3. 株主は長期的視点の経営を評価し、企業価値が向上する

  2. 外生的なショックにより信頼が低下すると、

    1. 経営者の報酬における業績連動報酬が増加し、短期志向の経営が促進される

    2. 年間設備投資増加率が上昇する一方で、株主は短期志向の経営を評価せず、企業価値が低下する

1. 背景と目的

現代の企業経営における特徴の1つに「所有と経営の分離」が挙げられます。20世紀初頭まで、多くの企業が創業者一族による同族経営をおこなっていましたが、企業規模の拡大とともに、株主が専門経営者に経営を委ねる形態が一般的となりました。この変化により、経営の専門知識を活かした高度な経営が可能となった一方で、新たな課題も生み出されました。それは、会社の所有者である株主と、実際に経営を担う経営者との間で利害が対立するという問題です。この利害の対立は、おもに2つの要因から生じます:

  1. リスクに対する考え方の違い: 株主は複数の企業に投資してリスクを分散できるため、経営者に対して積極的にリスクを取ることを求めます。一方、経営者は自身の収入が1つの企業に依存しているため、失敗を恐れて慎重な判断をする傾向があります。

  2. 情報の非対称性: 経営者は日々の業務を通じて企業の詳しい情報を得られますが、株主が得られる情報は限られています。このため、経営者が自己の利益を優先するような行動をとっても、株主がそれを見抜くことは困難です。

この問題を解決するため、多くの企業で「インセンティブ契約」と呼ばれる報酬制度を採用しています。これは、経営者の報酬を株価や業績と連動させることで、株主と経営者の利害を一致させる仕組みです。しかし、この仕組みには予期せぬ副作用もあります。経営者は本来リスクを避けたがる傾向にあるため、リスクの高い経営判断を求められることへの代償として、高額な報酬を要求します。また、短期的な業績や株価の上昇を重視するあまり、過度なリスクテイクや会計上の不正行為を誘発する可能性もあります。

さらに、このような非倫理的な行動を防ぐため、経営者の行動を詳細な契約で規定することも考えられますが、あらゆる状況を想定した契約の作成とその履行には膨大なコストがかかり、現実的ではありません。そのため、インセンティブ契約に代わる、より効果的で持続可能な解決策が求められています。

本稿で紹介する論文は、インセンティブ契約に代わる解決策としての「信頼」の役割を検証します。社会科学において、信頼とは「相手が自分にとって望ましい行動をとるだろうという期待」を指します(Gambetta 1988)。

では、なぜ「信頼」に注目するのでしょうか。会計学の研究(Aghion & Bolton 1992; Lambert  2001)では、経営者が株主に有害な行動をしないと信じられる環境では、複雑なインセンティブ契約を結ばなくても、基本給を中心としたシンプルな報酬で効率的な経営が可能ということが理論的に示されています。この研究を踏まえ、著者らは「地域社会の信頼が高い場合、株主は経営者を信頼し、基本給中心のシンプルな報酬体系を採用するのではないか」という仮説を立て、実際のデータで検証をおこないました。

しかし、信頼が与える影響を科学的に実証することは容易ではありません。なぜなら、信頼は教育水準、所得、宗教など、さまざまな社会経済的要因と密接に関連しているため、信頼の純粋な効果を分離することが困難だからです。

そこで本研究は、この課題を克服するため、2002年に発覚したカトリック教会の性的虐待スキャンダルに着目しました。カトリック教会は地域社会において道徳的権威として重要な役割を果たしてきたため、数十年にわたる児童虐待の組織的な隠蔽という重大な背信行為は、地域社会の信頼を大きく損なわせることとなりました。このスキャンダルは地域によって異なるタイミングで発覚したため、信頼が下がった地域と下がらなかった地域の前後の変化の比較によって、信頼の効果のみの測定が可能になりました。

本論文は次の2つの課題を実証的に分析します: 

  1. 地域社会の信頼が経営者の報酬形態と企業価値にどのような影響を与えるかを定量的に解明

  2. 信頼が突然失われた際の企業行動の変化を詳細に分析

これらの分析を通じて、企業経営における信頼の役割を解明し、より効果的な企業運営の方法を模索します。

2. データ

本論文では、地域社会の信頼が企業行動にどのように影響するかを分析するため、以下の4つの異なる種類のデータを組み合わせています。

[データ1] General Social Survey (GSS)

  1. NORC(National Opinion Research Center)が実施する米国最大規模の社会調査の1つ。米国国勢調査に次いで社会科学分野で2番目に分析されているデータソース。回答率は約76%と高く、信頼性の高いデータ。

  2. 1992年から2010年までの10回分の調査結果を使用 。(調査は隔年で実施)

  3. 信頼に関する質問への回答: 原文"Generally speaking、 would you say that most people can be trusted or that you need to be very careful in dealing with people?" (日本語訳: 「一般的に言って、ほとんどの人は信頼できると思いますか、それとも人と付き合うときにはよく注意した方がよいと思いますか?」) 回答は3段階で評価で"can be trusted"(信頼できる) が3点、"depends or don't know"(場合による/わからない) が2点、"can't be trusted"(信頼できない) が1点として評価。

  4. 米国の信頼の平均値・中央値は1.8であり隣人に若干不信感を抱いている。一般的にカナダ国境付近——ウィスコンシン州やミネソタ州などは信頼が高い。

  5. 333の郡をカバー——アメリカの時価総額の約半分に相当する企業の本拠地をカバー。

  6. 郡レベルで回答を平均化。欠損年のデータは線形補間で推計。

[データ2] Executive Compensation Database (ExecuComp)

  1. 企業幹部の報酬に関する包括的なデータベース。

  2. 1992年から2010年までのデータを使用。

  3. 経営者の報酬インセンティブを測る2つの指標を収集:

    • Delta:株価が1%上昇した時に、経営者の報酬がどれだけ増加するかをあらわす指標。Deltaが高いほど、株価の短期的な上昇を重視するようになる。

    • Vega:株価の変動性(リスク)が1%上昇した時の経営者の報酬がどれだけ増加するかをあらわす指標。Vegaが高いほど、経営者のリスク選好が高まる。

[データ3] Compustat/CRSP

  1. 世界の上場企業の財務・会計データを提供する最も信頼性の高いデータベースの1つ。

  2. 1992年から2010年までの企業財務データを使用。

  3. 分析の精度を高めるため、以下の企業は除外:

    • 金融セクター:他の産業と異なる規制環境下にあり、財務指標の解釈が異なるため

    • 株価1ドル未満のpenny stocks:極端に小規模で取引が不活発な企業を除くため

[データ4] カトリック教会性的スキャンダル報道データ

  1. Boston Globe、CNN、Associated Press、Reuters、Wall Street Journalなどの主要メディアの報道を収集する。

  2. 2001年8月から2002年8月を対象。

  3. スキャンダルが報道された43群を特定。各郡における最初の報道日を、その地域の信頼が損なわれ始めた時点として使用する。

3. 結果

3.1.地域の信頼と経営者の報酬の関係

地域の信頼と経営者の報酬との関係性を分析するため、本研究では、信頼とインセンティブの大きさを測るDeltaとVegaに対する回帰分析を実施しました。

回帰分析の結果より、地域の信頼が高いほど経営者の報酬のインセンティブの割合が小さくなる——報酬がより基本給中心で安定的になる——ことが分かりました。具体的に地域の信頼が1ポイント上昇すると、Deltaは8.0%、Vegaは3.8%それぞれ減少します。この結果は、企業規模や財務状況、地域の教育水準や所得水準、さらには経済環境の年次変動などを統計的にコントロールしても一貫して確認されました。

さらに、こうした報酬の安定性は経営判断にも影響を与えています。同様の回帰を「年間の設備投資増加率」、企業価値をあらわす「Tobin’s Q」に実施した結果、地域の信頼が1ポイント上昇した場合、年間の設備投資増加率は0.3%抑制される一方で、Tobin’s Qは0.141ポイント上昇しました。この結果は、1)信頼が高い地域の経営者は安定した報酬を背景に長期的な視点で意思決定をおこなうことができるため、過剰な投資をおさえて、効率的な経営を実現していること、2)そのような効率的な経営を株主が評価していること、を示唆しています。

3.2.社会的信頼の低下が企業行動に与える影響

これまでの分析により、地域の信頼と経営者報酬の間に強い関連性があることが確認されました。しかし、これが純粋に信頼の効果によるものなのか、それとも他の要因が影響しているのかは明らかではありません。前述のとおり、信頼は多様な要素と密接に関わっており、その効果の直接的な検証は容易ではないためです。

この課題に対応するため、本研究では「差の差分析」をもちいて信頼の純粋な影響を検証しました。この手法は、ある介入の影響を受けた群(処置群)と介入の影響を受けなかった群(対照群)について、介入の前後の変化を比較することで、その実験が及ぼした因果的な影響を測定します。

この分析のために、本研究では2002年に発覚したカトリック教会の性的虐待スキャンダルに着目しました。このスキャンダルは、地域社会において高い信頼を得ていたカトリック教会の権威を揺るがす重大な不祥事であり、地域社会全体の信頼を低下させる直接的な要因となりました。
一方で、このスキャンダルが企業行動に直接的な影響を与える可能性は低いと考えられるため、スキャンダル発覚を「介入」とみなし、その前後で企業行動の変化を検証しました。具体的には、スキャンダルが発覚した地域を「処置群」、発覚しなかった地域を「対照群」と設定し、両群のスキャンダル前後の変化を比較しました。

分析の結果、スキャンダル発覚前には地域の信頼に有意な変化は見られませんでしたが、発覚後には平均で6%の信頼の低下が確認されました。この信頼の低下は、企業行動に大きな影響を及ぼしました。

まず、経営者の報酬において業績連動報酬の割合が増加しました。具体的には、経営者が株主と同じ目線で意思決定をおこなうインセンティブの強さであるDeltaが7.1%、リスクをとるインセンティブの強さであるVegaが4.1%それぞれ増加しました。これに伴い、経営者の投資行動にも変化が見られ、年間の設備投資は0.3%増加しました。

さらに、こうした変化は企業価値にも影響を与えました。短期志向の経営スタイルが強まったことで、株主はその経営方針を望ましくないと評価し、Tobin’s Qという企業価値を表す指標が0.114ポイント低下しました。この結果は、産業全体の業績トレンド、企業規模や業種の違い、さらには企業の立地変更などの様々な要因を統計的に調整した後でも一貫して確認されています。

4. 考察とインサイト

本研究は、地域社会における信頼が企業統治に果たす役割について、2つの重要な発見をもたらしました。

第1に、信頼が高い地域では、経営者への報酬は複雑なインセンティブ契約ではなく基本給中心のシンプルな形態となり、過剰な投資も抑制され、結果として企業価値が高くなることが分かりました。第2に、カトリック教会のスキャンダルという外部ショックにより地域の信頼が損なわれると、企業は経営者への監視を強め、報酬体系もインセンティブ依存型へと変更を余儀なくされました。その結果、経営者は短期的な成果を重視するようになり、企業価値は低下することを確認しました。

これらの発見は、私たちに重要な示唆を与えています。社会における信頼は、契約や規則に頼らずとも、株主と経営者の利害を自然に調整する「見えない調停者」として機能するのです。言い換えれば、信頼は単なる心理的な要素ではなく、企業の価値創造に直接影響を与える「経営資源」と捉えることができるのではないでしょうか?

この研究結果は、実務においてどのように活用できるでしょうか。まず、企業の立地戦略において、地域社会の信頼度を重要な判断基準として考慮することができます。また、組織開発の観点からも重要な示唆が得られます。経営者と株主の関係で見られたように、組織内でも信頼関係が醸成されている環境では、詳細な規則や厳格な管理体制よりも、シンプルな行動指針の方が効果的に機能する可能性があります。具体的には、複雑な承認プロセスを簡素化し、従業員の自律的な判断を促すことで、より迅速で効率的な意思決定が可能になるでしょう。

一方で、本研究の限界にも目を向ける必要があります。なぜ地域の信頼の高さが株主による経営者への信頼につながるのか、そのメカニズムは十分に解明されていません。また、企業行動の変化が完全に信頼によってもたらされると結論付けるのは早計です。観察されていない要因の影響を完全には排除できておらず、さらなる実証研究が必要とされています。

それでも、本研究は社会的信頼という無形の資産が、具体的な経済的価値を持つことを実証的に示した点で、画期的な貢献をしています。特に注目すべきは、信頼の存在が企業価値を高める一方で、その毀損が重大な負の影響をもたらすことが明確に示された点です。この結果は、企業経営において信頼の構築と維持が極めて重要であることを、改めて私たちに認識させています。


最後まで、お読みいただきありがとうございました。今後も、信頼や傾聴、組織開発にかかわる論文を紹介していきます。もし今回のnoteが、「参考になった」「面白かった!」と思った方は、ぜひ記事への『スキ』とフォローをお願いします!

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