家族について語るというのは、いわば身内の恥をさらすものだと概ね避けるのが常識です。
しかしながら創作題材としては1位、2位と言って良い程家族をテーマにした物語のなんと多いことか…なのです。
潜在的な覗き見趣味は言い過ぎですが、興味本位に他所の家族を知りたいという自分との比較対象に思考するのでしょうか。
「家族に乾杯」等、テレビの情報バラエティでもいまだお宅訪問ネタは健在です。
人のことはいざ知らずとそういう点では私はテレビやメディアで取り上げる家族のサンプルには関心がなかなか湧く事はありません。ですので、例えばドラマで描く家族模様については私の中でもリアリズムは欠かせませんが、稀なケースを想像するのです。
その稀なケースと思う以上に現実が想像を越える家族にまつわる昨今増加の一途にある犯罪事件、そうしたニュースをどのように捉えるべきか毎度頭を過ります。結果、輪をかけて他所の家族へのいざ知らず感が加速するのは大体、犯罪に走る理由はエゴイズムに端を発し事態を引き起こすにつけ、辟易してしまうのです。
私が日頃から思う他者への関心について大切だと諭す対象は個人を意味するのだと反芻します。結局、個人の考え方次第で集合体が家族か職場か団体かの違いでしかありません。
そうして考えると基本一対一の人間関係においての信頼性、その濃淡の数の多い少ないが個々に異なるのだと思うのです。
これは勝負事ではないのですが、一対一に自分を投入できる人に私は魅力を感じます。一人を納得させられる情熱、人柄が複数人への言葉のチカラにも進化していける自信に昇華できるものだと。
加えて伝達手段やコミュニケートの大半をインターネットに依拠する時代に、実際に会って話しをすることがなんだかんだで関係性の構築には大切なことでもあります。
家族はまたその縁についての業といった計り知れなさから、逃れようにも踏みとどまる責務を意識します。
確かに他人に理解できないと端から見るとエゴイズムにしか解釈されない矛盾がひしめいているのが、社会とも言い換えられるのかもしれません。
故に人間の智恵が創出した折り合える最大公約数な見解こそ法律や決まり事なのでしょう。暴力に訴える前の抑止効果の側面も考えられます。
とは言え、こと家族内トラブルからの抑止を振り切る犯罪露見となるともはや体裁不要な救われる術は無くなります。
大人になるということは親を乗り越える、親の因果を断ち切れた時に初めて寛容になれるものだとする考え方があります。しかし90パーセント以上の人は断ち切れずに一生を終えるのが殆どだとされています。
であれば、歴史の紡がれ方における生と死はそうして繰り返される流れにあり、家族とはよほど深い因縁にあるのだと推察して已まず、大人になりきれない人で世の中溢れていると考えると、どこか優しくありたいと願う自分がいるのです。
心荒んだ時、はっぴいえんどの『風をあつめて』が聴きたくなります。
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