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映画「ミスティック・リバー」を読む


●ストーリー

 たったひとつの忌まわしい出来事が、少年たちの運命を変えた・・・。ジミー(ショーン・ペン)、デイブ(ティム・ロビンス)、ショーン(ケビン・ベーコン)の3人は、ダウンタウンに近いイーストバッキンガム地区で少年時代をともに過ごした幼なじみだった。11歳のある日、いつものように路上で遊んでいた3人。その中の一人が、誘拐され、監禁されてしまう。その日を境に、彼らの少年時代にピリオドが打たれ、3人は離れ離れになってしまう。そして、25年後に起きた殺人事件。それは、過去の出来事を呼び戻す、さらなる悲劇の幕開けとなった。殺された娘の父親と、刑事、そして容疑者。かつての幼なじみが果たした再会はあまりにも過酷なものだった・・・。

●喪失感が生み出した再会

 本作品は幼なじみの三人組、ジミー、ショーン、デイブについてのお話。少年時代のある日、デイブは、警察の振りをした男たちに誘拐されてしまう。その現場に居合わせたものの、彼を助けることが出来なかったジミーとショーン。連れ去られたデイブは、4日間、監禁され、性的虐待を受ける。自力で逃げ出したデイブだが、街に戻ってきたデイブは別人になっていた…。ここから、話は25年後に飛ぶのだが、誘拐事件をきっかけに、三人組は友情は崩れ、三人はバラバラの人生を送っている。ジミーは、街で雑貨店を営み、ショーンは、街を出て州警察の刑事になっている。デイブは、一人息子を愛する父親なのだが、抜け殻のような人生を送っている。この三人が、ジミーの長女が殺害されたことによって、ショーンは事件の担当刑事として、デイブは容疑者として、再会を果たすことになる。

 三人はただ再会を果たしたのではなく、「喪失感」を媒体にして、精神的に心を通わせていく様子が微妙に描かれる。デイブは、少年期のトラウマから廃人と化してしまい、夢を失ってしまった男。通りの排水溝の奥には、「ボール=少年の夢」がいっぱい詰まっていることが分かっているのに、トラウマが邪魔をして取り出せないでいる。彼は、25年間、この喪失感を誰にも理解して貰えず、孤独を味わってきた。そんなとき、ジミーは長女ケイティーを失い、喪失感に苛まれる。溢れかえる慰問客の前で決して泣けないジミーが、デイブの前で泣くのは、喪失感を共有することで、少年時代に見捨てたデイブと和解することができたのだろう。ここで、25年間の溝が埋まりかけるのだ。


 それは、ショーンについても同じである。彼は、ケイティーの事件の担当をすることになるが、相棒に「幼なじみだからデイブをかばっている」と言われた上に、勝手にデイブの尋問を始められてしまう。ショーンがデイブに甘いのは、彼がデイブの幼なじみだからではなく、このとき彼もデイブと同じく喪失感を抱えていたからなのである。ショーン自身も、妻子に家を出て行かれ、喪失感を抱えているため、有力な容疑者であるデイブに強く出ることができないのだ。作劇の観点から言うと、相棒の刑事は、こうしたショーンの心境を明確にするために用意されたキャラクターなのだ。
 少年時代、ジミーとショーンは、デイブを見捨てたことで、彼の夢を奪ってしまったことに負い目を感じて生きてきた。だからこそ、喪失感が三人を再び結びつけた重要な要素となるのだ。25年を経て、ジミーとショーンは喪失感を共有できる人間になったのである。

●失われた夢が犯した殺人

 しかし、デイブにとってこの再会は、あまり喜ばしいものではないようだ。娘の死によって、和解を求めてきたジミーに対して、「神がお前の借りを返しに来た」と思っている。これは、昔、ジミーが自分を裏切った仲間のレイを始末し、ミスティック・リバーに葬ったことを指して言っているのだろう。人の家族から父親を奪ったのだから、自分も娘を奪われたのだと(つまり、デイブと妻は、ジミーがレイを殺したことを知っていると思われる)。しかも、後半になって、ジミーの娘の殺害に使われたのが、レイの拳銃であったという因縁めいたものが見えてくると、デイブの「神の仕業だ」というセリフが生きてくるようになっている。
 ケイティーの殺害に使われたもう一つの凶器が、ホッケーのスティックであることも因縁めいている。少年時代、ジミー、ショーン、デイブは、通りでホッケーをして遊んでいた。そうしたことから、「ホッケーのスティック=少年の夢」と考えてみると、「少年の夢」がケイティーを殺したということになる。もちろん、ここで暗示される「少年の夢」とは、トラウマによって失われたデイブのものを指しており、それが誘拐時に助けてくれなかった友人への恨みとなって、殺人を犯したとも取れる。そうして考えると、実際にはデイブは手を下していないが、彼の失われた少年の夢が、ジミーに逆襲をしたと考えると面白いではないか。娘殺しの犯人だと勘違いし、ジミーはデイブを処刑するが、あながちその思い違いは、それほど間違っていないのかも知れないと思えてくるのだ。

●ドン=ジミーの牛耳る街

 本作品のラストで、レイを殺した過去を持つジミーが、幼なじみのデイブを処刑する。しかも無実の罪である。なのに、ジミーは何のおとがめも受けずに、のうのうとパレードを見物している。この道徳に反するオチに納得いかない観客もいたかも知れない。しかし、本作品をマフィアものの視点で見ていけば、この反道徳のオチにも多少は納得いくのではないだろうか。

 舞台となる街はボストンの貧困地区にあり、貧しい労働者たちが助け合いながら暮らす街という設定だ。ジミーは、この街を牛耳るドンなのである。ジミーは、「ゴッドファーザー part2」の若き日のドン・ヴィトー・コルレオーネに非常に近い立場にあると言えば分かり易いだろうか。サヴェッジ兄弟は、彼の手下であり、ドン=ジミーは、街の住人をファミリーとして扱い、非常に面倒見がいい。自分を裏切ったレイの家族には、毎月、仕送りを続けている(おそらく今後はデイブの妻にも仕送りをするのだろう)。その仕送りの額が何と800万ドルときてるから驚く。街のしがない雑貨店の店長にそんな仕送りが出来るはずがない。そうしたことからも、ジミーが普通の人物ではないことが分かる。ちなみに、ジミーがレイとやった酒屋強盗で奪ったのも800万ドルであることから、あの強盗で儲けたお金で仕送りをしていたのかも知れない。ただ、サヴェッジ兄弟が、処刑の直前にバーでデイブに話していたように、ドン=ジミーは、服役後も彼らと窃盗を繰り返しており、こうした闇の金を資金源とし、貧しい街を救っているのは確かなのである。ケイティーが死んだとき、ジミーの家が大量の慰問客で溢れている描写からも、彼が街の住民に崇められていることが伺われる。しかし、ドン=ジミーは、住民に対して施しを与える反面、自分を裏切る者に対して容赦がない。自分を警察にチクったレイは、「悪いことをしたら謝るタイプだ」と言われているにも関わらず、冷酷に始末されている。

 街の住民は、みんな知っているのだ。ケイティーと付き合っているレイの長男ブレンダンがジミーを異常に畏れているのも、老婦人がケイティーの殺害現場を見ていなかったと語るのも、レイの次男レイとその友人が、警察に真実を語らなかったのも、彼らがドン=ジミーの恩恵を受け、彼を崇め畏れている表れなのだろう。彼がいなければ、街の住民は生きていけないのだ。レイの妻子も仕送り元がジミーであることを本当は知っているのではないかと思われる。

 そうしたことを踏まえると、デイブの妻がジミーに「夫がケイティー殺しの犯人だ」と密告するのも分からなくはない。普通に考えれば、ジミーより警察官のショーンに打ち明けるのが当然と思われる。しかし、彼女とジミーの妻はいとこ同士であり、ファミリーの結束は他の住民たち以上に強いはずである。ケイティーの死後、彼女が何度もジミーの家族を慰めに家を訪問していることからも、それは感じられる。夫に対して疑惑を感じたデイブの妻は、愛する息子のため、ジミーに見放されないように夫を売ったのである。彼に見放されては、街では生きていけない。彼女はそのことを十分に分かっているのだ。最後のパレードで、息子の名を呼びながら、彼のあとを追い続ける彼女の姿には、強い母性が感じられる。しかし、息子に野球を教えてくれた父親はもういない。父親を失い、悲しみに暮れる息子が、彼女の呼びかけに対して何も応えようとしていないのを見ると、非常に哀れでもある。

●ドン=ジミーを支える人たち

 誰からも畏れられるジミーだが、彼以上に恐ろしいのは彼の妻である。ジミーは、娘を失ったことや、誤って幼なじみのデイブを処刑してしまったことから、すっかり弱気になっている。そんなジミーに彼女は喝を入れるのだ。「家族のためなら何をしてもいいのだから、あなたがやったことは間違っていない」と。「あなたは街の支配者で強い男、王様なのよ!」と檄(げき)を飛ばしまくったかと思えば、そのままセックスへと突入していく。すると、ジミーの体に彫られた「力」の入れ墨が息を吹き返していく!ああ、女というのは何て恐ろしい生き物なのだろうと、痛感させられる場面だ。

 そんなドン=ジミーが捕まらないのには、ショーンの意志が反映しているのではないか。「(レイの家だけでなく)今度はデイブの家にも送金するのか」と言っていることからも、おそらくショーンは、ジミーがデイブを殺していることを知っているのだろう。パレードでショーンがジミーに向かって手で撃つ真似をするが、そこには「お前のやってることはお見通しだぞ。悪い奴め」という意味があり、それに対して、ジミーが「さあ、どうだろう」ととぼける身振りには、ドンの貫禄を感じさせる。本作品の裏ストーリーは、街を出た少年が、警察官として街に戻り、一つの殺人事件を通じて、幼なじみが街のドンになっていることに気づく物語ということになるだろう。しかし、その幼なじみが街を救う救世主になっていることを知り、彼を捕まえれば、この街の住民が生活苦に陥ることから、彼の犯罪に目をつぶることにしたのだ。


 ショーンは、前半、部外者として、川の向こうからジミーの牛耳る街を見下ろしている。これは、少年時代、警察に扮した二人組に話していたように、ジミーとデイブは集合住宅に住み、ショーンだけは離れて岬の一戸建てに住んでいたことから生じる距離感を表している。同じ貧困地区に育ちながらも、ショーンは、ジミーやデイブほどの貧しい生活を味わっておらず、隣近所が助け合わなければ、生きていけないことを実感していなかったに違いない。彼は、自立する前に街から出ているため、なおさら、そのことが理解できていないと思われる。この距離感が、ショーンの初登場シーンに表されているのだ。
 そんなショーンが、ラストでは、家族と共に、この街のパレードに加わっている。街をあげて行われるパレードは、当然の事ながら、ジミーの感謝祭の意味もあるはずだ。ショーンは、このパレードに参加することで、街を救おうとするジミーの姿勢に対して、たとえその方法が違法であろうとも、たとえ自分が刑事であろうとも、ジミーや街の人に支持を表明しようとしているのではないか。

●償いの物語

 ミスティック・リバーは、実際に存在する川の名前でもある。ジミーは、この川に死体や殺人の証拠品を捨てる。デイブは、この川を臨むバーの裏に死体を捨て、彼の妻は、この川の畔で悩む。まるでこの街の住人の心の闇を象徴しているかのようである。弱くてもろい人間たちが、心に秘めた闇。キリスト教で言うところの原罪(人類が生まれながらにして自分の霊に持っている罪)。本作品は、人間がその罪を償おうと心を開いて懺悔する姿を描いた「償いの物語」だと言ってもいい。そう、この作品は人間のダークサイドの人間ドラマであり、ミステリーの謎解きを期待して観ていくと肩すかしを食うことになる。

 少年時代、ジミーとショーンは、連れ去られるデイブを助けることも出来ずに呆然と立ち尽くしていた。自らの弱さを目の当たりにした二人は、その後、25年間、その罪悪感を背負ったまま生きていくことになる。この過去によって、二人は心を閉ざした人生を送るようになる。ジミーの方は、娘を失ったことをきっかけに、デイブに心の内を吐露し泣き崩れる。これは、自らが喪失感に苛まれることによって、喪失感を抱えこませてしまったデイブに懺悔をしていると見てもいいだろう。ショーンも同じである。ブレンダンがケイティーとの関係を「あんなに愛することは二度とない」と言うと、ショーンは「普通は一度もない」と口にし、デイブのことを相棒に「あいつは友達じゃない」と言い放つ。このように、誰にも心を開かなかったショーンだが、最後には家を出た妻に「I'm sorry」と懺悔する。それは、デイブの妻も同じだ。夫がケイティー殺しの犯人だと誤解し、それを隠す罪に苛まれ、ついにはジミーに懺悔する。

 しかしながら、辛く厳しい世の中は、ただ懺悔をするだけでは生き抜いていくことは出来ない。喪失感を抱えた人間が生きるためには、その人間を受け止める対象が存在するか否かが重要となる。その対象が存在すれば、脆弱な人間という生き物は生きていくことが出来るが、その対象が存在しなければ生きていくことが出来ない。それは、ジミーとデイブを比較すれば分かりやすい。ジミーの妻は夫の弱さを受け止めてあげることが出来たが、デイブの妻にはそれができなかった。ジミーにしろ、デイブにしろ、いずれも同じ弱い存在なのである。両者の生存の鍵は、彼らの妻が握っていたのである。ラストのパレードで、ジミーの妻がデイブの妻に送る視線には、夫を受け止めることが出来なかったことを咎める意味が含まれていたのではないだろうか(ここで、デイブの妻がいなくなるまでジミーが表に現れないのも、同じ意味があるのではないかと憶測するのは、ちょっと行き過ぎか)。いずれにしても、あのジミーの妻の表情には、どことなく優越感が感じられる。この喪失感を抱えた人間を受け止める器の重要性は、ショーン夫妻を見ても分かる。ショーンが出て行った妻に携帯電話で許しを請うと、彼の妻は「私こそ」と受け止めてやるのだ。

●吸血鬼は懺悔をしない

 デイブの妻は、喪失感を抱えたデイブを支えられず、デイブはこの世から姿を消す。しかし、彼の死は、単に妻のせいだけではない。彼自身、誠実に懺悔することが出来なかったことに問題があったのだ。十字架の入れ墨をしているジミーは、彼がこの街にとっての神の存在であるという解釈も出来る。後半、その入れ墨が露わになったとき、私はハッとさせられた。なぜなら、それを見て、デイブがジミーに殺された意味が分かったからである。前半、テレビで吸血鬼映画を観ていたデイブは、妻に自分のことを吸血鬼だと語る。そう、吸血鬼デイブは、ジミーの十字架によって殺されたのである。

 そもそも、デイブが吸血鬼になったのには、少年時代の誘拐事件と密接な関係がある。少年時代、デイブを誘拐した二人組の一人は、ケルト十字の指輪やペンダントをしており、デイブは、4日間、暗闇の穴蔵に閉じこめられていた。つまり、彼は、太陽光線を浴びずに、十字架から逃れようとしていた。そして、妻に告白したように、彼は「穴から出ると別人(吸血鬼)になっていて、違う人間(デイブ)の振りをしている」のだ。彼は妻に「吸血鬼は人間のころを忘れているのがいい」とも語る。デイブは少年期のトラウマから逃れようとして、吸血鬼という別人格に生まれ変わったと考えるといいのかも知れない。
 デイブが同性愛好者を襲うくだりでは、そのことが象徴的に描かれる。彼は、通りで同性愛好者が少年に性的虐待をしているのを見て、逆上し、その男を殺してしまうが、そのとき、デイブは血まみれになっていたり、彼の車のトランクが血だらけだったりと、大量の血があふれ出ていることが強調されている。これも彼が血を好む吸血鬼であることを示す暗喩と思われる。このとき、デイブは、同性愛好者に体を傷つけられるのも象徴的だ。その傷は、少年の頃、同性愛好者たちに襲われたときの心の傷を彷彿させるし、彼がジミーやショーンにその傷を隠して生活しているのは、それ以後の彼の生活とシンクロするではないか。そんな彼が、レイの次男で同性愛好者でもあるレイが犯した殺人の罪の濡れ衣を被るというのも皮肉だ。子どものころ、同性愛好者に襲われたデイブは、同性愛好者に逆襲したものの、最後に、同性愛好者との戦いに敗れてしまう訳である。
 追いつめられたデイブは、「何もかも正直に話して妻と息子ともう一度最初からやり直したい」と正直にジミーに懺悔をする。しかし、「ケイティー殺しを認めれば、殺さない」と言われ、また嘘をついて新たな罪を犯してしまう。人間の振りをしていた吸血鬼は、十字架を体に刻むジミーに問いつめられて化けの皮をはがされてしまう。ジミーは、「デイブは25年前に車で連れ去られたままだ」とショーンに語る。この言葉は、ジミーがデイブの正体が吸血鬼だと気づいたことを示しているのかも知れない。デイブが通りの落書きに名を残せなかったのも、彼が吸血鬼となり、街の住人でなくなることの伏線だったのだろう。

 本作品には、同性愛好者に追いつめられて殺される人物がもう一人いる。ジミーの長女ケイティーだ。彼女は、デイブと同じように、森で同姓愛好者に追われる。デイブは、同性愛好者を狼に置き換えて、ベッドで横たわる息子に、自分が狼(=同性愛好者)から逃れようとした話をする。すると、デイブの頭にはケイティーが森で逃げまどう映像が浮かんでくる。ここはデイブとケイティーが完全に重なる瞬間であり、二人が共に狼に狙われた吸血鬼であることを示す。ケイティーが吸血鬼の仲間であることを匂わす設定は他にもある。彼女は、妹の初聖体の儀式に参加せず、恋人と街の外へ飛び出すつもりでいた点である。彼女は大事な日にも教会に近づこうとせず、デイブ同様、自らの罪に対して許しを請おうという姿勢が見られない。そうした姿勢が死に近づけたのかも知れない。それにしても、吸血鬼と狼の戦いだなんて、まるでおとぎ話のようである。そんな見方も出来る本作品は、全く奥が深いものだ。

●信頼の深さは憎しみの深さに比例する

 ジミーが抱えていた罪悪感は、少年時代にデイブを救えなかったことだけではない。人間は「死ぬときはひとりだが、死ぬときはそばにいてやりたかった」と言っているように、ジミーは、服役中に愛する前妻を一人で病死させてしまったことに強い罪悪感を感じている。また、服役中に独りぼっちにさせていた長女ケイティーに対しても、ジミーは同じ罪悪感を感じている。出所した後、ジミーは「小さな娘は刑務所より怖かった。それほど愛してた」と語っている。街のドンであるジミーは、街の住民をファミリーだと思う男だが、この家族思いの男にとって、自分の家族を孤独にすることこそ、辛いものはないのだろう。後妻の父に「残った家族に責任を果たすことが大切だ」と言われても怒れてしまうのは、ケイティーに対する罪悪感をもったまま、彼女を死なせてしまったジミーにとっては、当たり前なのだ。ジミーは、ガンだった前妻と娘のケイティーの面倒をよくみてくれたレイが、自分を裏切って妻の死に目に会えなくさせたことに強い怒りを感じている。そして、今度は、自分が心を開いたデイブが、娘の死に目に会えなくさせた。つまり、ジミーにとって、レイとデイブの姿はダブっており、二人に対して同じ憎しみを感じていると言っていいだろう。家族思いの男は、家族の死に目に会えなくさせた友人たちを憎悪の弾丸で撃ち抜いた。観客は、ジミーがデイブに言い放った「死ぬときはひとりなんだ」ということばに戦慄を覚えることだろう。

 本作品は、喪失感を抱えた人間のドラマとして観たり、マフィアものとして観たり、キリスト教の原罪に絡めて観たり、おとぎ話として観たりと、いろいろな見方が出来る。幾重にも物語が積み重ねてつくられているため、表面的にも鑑賞できるとともに深読みも出来る作品なのだ。表面的に観ても、深く観ても、鑑賞に堪える。この二重構造が傑作の条件だと私は思っているのだが、本作品はその条件を十分にクリアしている作品だ。この作品に無駄なショットは1ショットも存在しない。完璧な人間ドラマの誕生だ。ただし、この深刻なドラマを笑いも涙も織り交ぜずに完璧に描いてしまったため、観ていて息抜きは出来ない。思いっきり泣かすことが出来る話でありながら、決して泣かしに入ろうとはしない。重い人間ドラマを徹底的に深刻に描く。このスタイルはイーストウッド監督の人生観が反映しているのだろうが、これをあまり完璧にやりすぎたことで、観客も心してこの作品に臨まなければならないのだ。


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