『きのう生まれたわけじゃない』音声ガイド制作記

上映は3月12日まで。
ぜひとも観てほしい、出会ってほしい映画です。
●全20席の劇場ですので、ご予約をお勧めしております↓



音声ガイドとは、視覚情報を言葉・音声に翻訳するもの。
それによって、目の見えない人にも映画をより楽しんでもらえることを目指す。
ざっくり端的に言うとこのような形になると、自分なりには思う。

今回は自分にとっても大切な映画『きのう生まれたわけじゃない』に取り組んだ。
本作を初めて観た時、まだまだ映画にこんなことができるのか!とワクワクした。すごいものを観れた、という高揚感。
人は飛べる!し、自分も飛んでいた!ような、地に足の付かないふわふわした気持ちに包まれて、散歩しながら映画を観た後の時間を過ごした。
自分はまだまだ多くの映画を観れていないのだが、映画を好きになった、のめり込んだ体験はこんな感じだった、と久しぶりに思い出した。

初めて観た時、あるシーンで泣いた。
河原の地面から遠く見上げて、土手の上を歩いたり走ったりする二人を映したシーン。
底から生きていることを見つめていたことに泣いたのか、と後になって理由付けた。
ある人と話したら、底から人を見つめ、さらに上に広がる空まで繋がっていることにグッときたのだなと思い、またまた理由付けを重ねた。

それぞれの人がそれぞれの状況によって、琴線に触れる映画の瞬間が、本作にはあるのだと思う。
映画に未だみぬマジックが起こることに驚き、いつまでも反芻できる感動を、画が見えない人とどう共にできるのか。
音声ガイド制作に取り掛かった。


まだまだ未熟な自分だが、自分なりの制作プロセスがある。
最初のステージでは、「映画」を身体に入れていく。
平たく言えば「下調べ」となるが、感覚的にはもっと身体的な行為。
抽象的だが、イメージとしてはドンピシャな表現で、たくさんのインタビューや過去作や文献といった資料を集中的に取り込んでいく。
本作はするする身体に入っていった。そして突き抜けていった。
特に本によって、福間健二監督の詩集、文章、映画の参考書籍によって、
そこに現れる言葉によって、映画と繋がりさらに思考が膨らんでいく瞬間がたくさんあった。
詩には登場人物の名前や映画で喋られた内容も出てくる。プロデューサーである福間恵子さんはポルトガルで太極拳をしている。
「ゆうかんな女の子ラモーナ」には自分を見ているもう1人の自分が時折登場する。
そして町屋良平さんの「ほんのこども」。

『きのう生まれたわけじゃない』には「人間やめられねえ!」という名台詞がある。
「ほんのこども」は、町屋さん自身とされる”わたし”が、”かれ"の遺した"小説"から亡くなった"かれ"を辿る「私小説」。
突然「人間はやめられんなあ」というセリフが出てくる。

この一言で、映画と本がリンクしてしまった。
様々な本の断片から映画を辿り直す。
裏を読み妄想が膨らむ。
セリフや音、画に込められたもの、
本作に限らず、文字や映像言語を使って表現しようとしたもの、
福間監督の思索そのもの。
それらに、散りばめられた言葉の断片から近づいて、触れていこうとする。
そして言葉を使って音声ガイドを書こうとする。

あまりにも奥が深すぎる世界に入り込むが、こうしていると、
傲慢かもしれないが、福間監督を近くに感じた。
まさに「ほんのこども」を準えていた。
映画を身体に入れるどころか、透過していった。
計り知れない映画の謎に改めて気付きながら、ワクワクもしていた。


そして第一稿を書きあげる段になると、「わからなさ」を「わからないまま」に伝えることに悩んだ。
「すごいものを観た!」という衝撃を、目の見えない人にも同時に体験してもらえるように、どう言葉で表現をすればよいのか悩んだ。

検討会には、モニター/クオリティチェッカーとして風船さん、監修に福間恵子さん、当館代表の平塚にご参加いただいた。
検討会とは音声ガイドの第一校稿を参加者みんなでチェックしていく場。
一つ一つのショットを分解し、画を言葉にし、「翻訳」した時間と空間を映画に導入し直していくようなプロセス。
見落としていたものや製作者の意図と違った自分の解釈に気づくこともそうだが、そうした答え合わせに留まらず、映画が広がっていく瞬間にも立ち会えるような気がする。

今回、『きのう生まれたわけじゃない』の検討会はとりわけ面白かった。
福間監督が挑んだ新たな映画表現。その強固な意思と、ひらめきを大切にした遊びなのかもしれない柔らかさ。
言葉にしようとすると、その言葉で意味や理由を特定づけてしまう難しさ。
それらに次々直面していく。
一つ例を挙げると、登場人物の視野のみを映すショットに突然切り替わるPOVのシーン。
音声ガイドの通例として、観客がイメージをすぐに立ち上げられるようにするために主語は必須なのだが、本シーンはにおいての視覚情報としては、これが誰の視線なのかはあくまで予想でしかない。
主語を当ててしまうと、その視界が誰の視界なのかを特定してしまう。
「わからない」ものは、「わからなさ」そのものを伝えないと、こちらの主観の押し付けになってしまう。
「わからなさ」を伝えるには、あえて主語を抜く、という音声ガイドの言葉選び・文章構成に至った。
言語はあくまで言語でしかなく、全てを伝えることはできない。けど伝えるためには言語を使うしかない。
こんな時代だからこそ、言語に限らず、丁寧な”言葉”が要る。

このように映画と出会っていく中で、恵子さんが、
「監督!聴いておけばよかった〜!」というふうなことをこぼされたのが心に残っている。
そして、傲慢かもしれないが、あの場に居たような気がする。


『きのう生まれたわけじゃない』は、福間組が遺してくれた希望の贈り物。
人は出会える。
他者や他者の”もの”を通して表現となり、だれかに届く。
そのときが出会いなのではないか。
さらに言うと、この映画との出会いは一回限りでなく、そのときの「自分」によって再び生まれる。
それは福間監督自身が、福間監督自身の様々な出会いを詰めてくれたからだと思う。
ロマンチックに考えてしまうが、事実、この映画から自分が受け取ったものはたくさんある。
出会えた!し、まだまだ出会える!
人間やめない。
人間やめられねえ!


文:スタッフ柴田 笙


●今まで当館で開催した舞台挨拶レポートもどうぞお読みください!
『きのう生まれたわけじゃない』田端上映レポート

◯『きのう生まれたわけじゃない』田端上映レポート2



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