『マミー』音声ガイド制作記

10月17日より上映中の『マミー』。
10月前半に上映した『正義の行方』と同じく、東風さんが配給を手がけたドキュメンタリーです。
1998年に起きた和歌山毒物カレー事件。犯人として林眞須美さんに死刑が宣告され、未だ再審請求が続くなかでの、事件発生から26年目の挑戦。
林眞須美さんの夫、長男へのインタビュー。判決の決め手となった目撃証言・科学鑑定の反証。そして、加熱を極めた当時の報道を省み、メディアの在り方の模索と批判までをも行った本作。
映画紹介文にはこうあります。
「林眞須美が犯人でないのなら、誰が彼女を殺すのか? 二村真弘監督は、捜査や裁判、報道に関わった者たちを訪ね歩き、なんとか突破口を探ろうとするのだが、焦りと慢心から取材中に一線を越え…。」

二村真弘監督自身をも映画に取り込まれながら映し出された、社会の歪みと知らないうちに歪ませてしまう私たち。その社会の中で人が人を裁くこととは何か。
ご観賞中、様々な思いが巡ることと思います。スクリーンでみつめていただければ。

●10月29日迄、連日10時30分からの上映です。
 最終日まで連日満席となっております。上記のリンクよりキャンセル待ち登録をお願いいたします。


映画を観る時稀に、その映画にぐっと引き込まれる瞬間がある。
『マミー』も初観賞時、冒頭のシーンで映画にのめり込んだ。
事件発生から四半世紀が経った中、車で花を手向けに行く被害者の会の男性を、カメラは助手席から映す。
構成上に必要な「人物紹介」としては、ハンドルを握る横顔やルームミラーに映る顔のみを捉えておけば、それで十分かもしれない。
しかし映画は次のカットを花を手向ける場所へと変えずに、カメラは車内に留まり続ける。しかもスクリーンに映されるのは男性ではなく、助手席から見えるフロントガラス越しの住宅街のみだ。
カメラはただただ移動の瞬間を撮り続ける。キャラクターとして当てはめた人の表情ではなく、撮っている時間自体というか、撮る行為というか、そのものを提示されたようだった。
このシーンから、本作の凄みを感じた。
本作でも言及されるメディア・スクラムや『正義の行方』でも触れられた、「ネタ」として事件を扱う以上の、取材者として向き合う意思のようなもの。
その凄みは、それ自体が「一線を超えてしまう」取材者の危うさのようなものを生んでしまうのかもしれない。白石和彌監督『凶悪』のジャーナリストを思い浮かべた。
そして、取材者をその状態に陥らせてしまうのは、真相よりも数字重視のメディアのあり方であり、そういった世の空気を作っている自分自身も無関係ではない。
その中で、人が人の命を奪う、人が人を裁いている。おかしいと声があがっていることが、おかしいままで解決されずに。
観賞後はそういったことをぐるぐると考えていた。
同時に、鋭く深い問いを放つ本作を、上映すべき映画だと感じた。


上映のために、目の見えない人にも本作をより深く体験していただけるように、音声ガイド制作に取り掛かった。
音声ガイドとは、視覚情報を音声・ナレーションに翻訳して伝えることだと私は考えている。

今回の反省も込めて、音声ガイド制作を通して考えたことを書いていく。
まず本作で繰り返されるドローン撮影について。
これが誰の視点なのか。これを誰の視点として「見る」のか。
例えば、海をドローン撮影した画を音声ガイドに書くとき、
「Aが海を見下ろす。」と「見下ろす海。」と「海を見下ろす視点。」ではイメージできるものが変わってくる。
そうした場合、特にドキュメンタリーでは「カメラが海を見下ろす。」や「ドローン撮影、海を見ろす。」などを使って”撮影されたもの”であることをあえて前面に押し出したりすることもできるだろう。
また、「海を見下ろす視点」などを用いて見ている場所を強調しスムーズにイメージに繋げようとする手も考えられる。
しかし、本作にはカメラを主語にはし難く、誰の視点かを決め難い、映画の流れがあった。
繰り返し挿入される林眞須美さんの手紙の朗読や、街や海を覆う声や音から、何か捉え難い存在が映画を包んで・見下ろしているような気もする。
最終的にはカメラの存在を意識させる単語は用いずに、遥か上から何かを見下ろしているという描写のみにとどめた。改めて目の見える自分は「何をどう見ているのか」の「どう」に引っ張られ音声ガイドを書いてしまそうになると感じる。
言葉一つで音声ガイドから受け取る印象が変わってしまうのだ。

そして、イメージ映像について。
ドキュメンタリーにおいては、インタビューに合わせてイメージ映像が入ることで、効果的に話がすっと入ってくる映像の作り方がよくある。
本作は、「目撃証言」や「科学鑑定」を反証するパートでイメージ映像が重ねられるのだが、役者の演出にも非常に力を入れて撮影したと感じるほど多数のショットがインタビューに重ねられる。
イメージ映像によって映画のリズム・映画を体験する時間が作られる。一本の映画の中で、振り替えられない時間を振り返ることを可能とさせるような。イメージシーンを撮ること自体、「誠実に」検証することへの挑戦なのだと感じる。
しかしインタビューに重ねて、イメージシーンを描写する言葉を音声ガイドに載せてしまうと、肝心のインタビューのノイズになってしまう。
また、唐突に鮮やかに挿入されるイメージシーンを、音声ガイド上でも唐突に鮮やかに思い浮かべてもらうには何か言葉のスイッチを設ける必要がある。
スイッチがないと、音情報のみの上では、単純な場面転換のシークエンスにボイスオーバーでインタビューが重なるだけの印象になってしまう。
そこで、「くすんだ画面」という言葉を文の頭に入れることで、スイッチとすることを試みた。最初の数シーンは「イメージ映像、くすんだ画面。」とし、その後は「くすんだ画面。」のみとしていく。
スイッチは単刀直入に「イメージシーン。」のみでも良いのだが、それでは説明し過ぎてしまう無粋さも感じてしまう。少しでも鮮やかに画の重なりを伝えられれば。


大島新さんが本作に寄せた文章のタイトルは、<「知らない世間」と「報じないメディア」に抗って>。
「知らない世間」と「報じないメディア」による社会の中で、二村監督に「一線を越え」させてしまったのではないか。そう思ってしまう。
「お墨付き」がないと報じられないメディアのあり方、その中で映画ができることとは何であろうか。
どうしても凝り固まって危うくなってしまうメディアの構造、それほど取材者に切羽詰まらせてしまう世の空気、その空気を変えるためには、やはり危うさスレスレで取材することが必要なのか。しかしそれでは、加害性をはらんでしまう。堂々巡りだ。
それでも本作が世に出され、当館でも連日多くの方にお越しいただいていることに、前向きになりたい。
『マミー』を観ることで、歪な社会の何かが変わるのではないか。

文:スタッフ柴田 笙

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●バリアフリー日本語字幕は「じまくびと」さんに制作いただきました。声を文字としてどう表記するか、想像を超える難しさだと感じますが、特に本作では和歌山の方言も丁寧に文字として起こしてくださっております。今回もありがとうございました!

●「もう逃げない。―いままで黙っていた「家族」のこと(和歌山カレー事件林眞須美死刑囚長男著,ビジネス社)
監督の取材のきっかけとなった一冊。事件について、「長男」について、メディアがもたらす加害の可能性について、映画と合わせるとより深く触れられる一冊です。
*サーバーエラーが生じており、ひとまず紀伊國屋書店のリンクを貼っておきます。

●10月19日(土)には二村監督に舞台挨拶をいただきました。

●上映情報
10月17日(木)~10月29日(火)
  10時30分~12時34分
*16日,23日(水)休映

監督:二村真弘
プロデューサー:石川朋子 植山英美(ARTicle Films)
撮影:髙野大樹 佐藤洋祐 オンライン編集:池田聡
整音:富永憲一 音響効果:増子彰
音楽:関島種彦 工藤遥 製作:digTV 配給:東風
2024年|119分|DCP|日本|ドキュメンタリー (C)2024digTV

シネマ・チュプキ・タバタはユニバーサルシアターとして、
目の見えない方、耳の聞こえない方、どんな方にも映画をお楽しみいただけるように、全ての回を「日本語字幕」「イヤホン音声ガイド」付きで上映しております。

●当館ホームページ「シアターの特徴」

皆様のご来館、心よりお待ちしております!


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