『あゝ声なき友』(1972年)

2012年2月28日(火) 銀座シネパトス

ラストは、北村和夫と別れ、踏切で電車が通り過ぎるのを待ちながら、呆然と、これからどうするべきかというような顔をしている渥美清の、電車越しのストップモーション。
彼がこれで遺書の配達をやめるのか、続けるのかはわからない。
深作欣二の『軍旗はためく下で』に似ていると思った。

アタマのほうの、渥美清と小川真由美とのやりとりが色っぽくてよかった。
「名前なんて、ただの符丁よ。そんなの聞いてどうすんのよ」
「でも、あると便利だな」
の会話とか、渥美清のタイミングが見事。

あとは、ラストの北村和夫がすごくよかった。

(観たあと、原作の『遺書配達人』を読み、ラストの部分を書き写していた)

汚ないのみ屋で、百瀬大吉は、焼酎を注文した。
酒が運ばれてくると、大吉は、テーブルに両手をついて、口を、コップの方へ運んだ。
百瀬の態度は、満州の内務班にいたときと少しもかわりがないようであった。
「九年前に自分が書いた遺書を、自分で読んだ気持が、西山にはわかるか?」
「さあ」
「宛名は、百瀬清子、――しかし、君から、あの遺書を受けとった女は、百瀬清子ではない」
「何だって?」
「清子は、三年前に離縁したのだ。いまいる女は、その後で拾った女だ」
「そうだったのか」と、私は、遺書を読んでいるときの女の無感動さに、納得が行った。
「しかし、あのときは、死ぬと思ったから、いろいろと、書いた。宛名ちがいの遺書で、いま、ひともん着あったところなのだ」
「遺書を、持って来ない方が、よかったのかな」
「そうでもない。別れた清子に、あの遺書が渡されたとしても、いい結果には、ならなかっただろう」
「清子さんは、いま、何をしている?」
「仲見世の裏で、小さな、のみ屋の女中をしているよ」
「会うのか?」
「ときどきね。しかし、あの女は、俺の留守に、男をくわえ込んでいた。生活のためだ、と言っていたが……」
「さっきの女の人は?」
「パンパン崩れだ」
「同じことなら、なぜ、清子さんと、離縁した?」
「同じことではない。そんなことを、するはずがない、と思った女が、していたし、しても当たり前だ、という女が、ふっつり、やめた。俺自身も、変わったのだ」
「どうして、生きて帰れたのだ」
「くわしく話すのは、めんどうだ。俺には、年齢相当の智恵があったということだろう」
「ほかの連中は」
「確実に、全部、死んだ。お前の前にいるのは、幽霊だよ。さ、のんでくれ」
「君はいま、何をして生活しているんだ」
「言ったって、仕方がないだろう」
「そりゃあ、そうだが……」
「それよりも、お前のことを聞かせないか」
「八年間、遺書を、配達しつづけた」
「なんで喰っていた? お前のと同じ質問だが……」
「保険の外交を、主にやった」
「保険か。家族は?」
「女房をもらったが、死んだ」
「遺書は、全部すんだのか?」
「まだ二通残っている。いろいろな目にあったよ」
「いちいち言わなくてもいいよ」
百瀬大吉は、乾いたテーブルの上に、焼酎で、分隊員の名前を書きはじめた。
松本、西賀、市原、武富、宇津木沢、西野入、尾宮、島方、吉成、木内、町、上辻。――百瀬が、その最後に、自分の名前を書いたとき、最初に書いた、分隊長の名前から、消えはじめた。
「八年間も」と、大吉は言った。「遺書を、配達して歩いたのか」「……………………」
「悧巧じゃないな」
「多分ね。しかし、おれは、これを全部、始末してしまわなければ、何をはじめる気にも、ならなかった」
「だから、悧巧じゃない、というのだ。もう、戦争の音なんか、聞こえやしない。この世の中で、戦争へ行ったのは、おれ一人だったような気がする」
「百瀬」と、私は、突然、自分の心の中に噴き上げてくるものがあるのに気づいた。
「そうじゃない。おれは、悪いことをする奴は、みんな戦争へ行かなかった奴らばかりだ、と思う。子供だった奴や、生まれていなかった奴は、仕方がない。戦争で儲けた奴。隠れていた奴。特権を利用した奴。それから、としよりだと思われて、戦争へ行かなかった奴ら。――いまはばをきかせているのは、みんな、そういう奴じゃないか。違うか?」
「あのな」と、百瀬大吉は、ふっと顔を上げた。「おれは、仲間が、みんな死んで行くのを、この目で見た。苦しんだ奴もいれば、苦しまなかった奴もいる。松本は、松本らしく、西賀は、西賀らしい死に方をしやがったよ。死んだ奴は、死んだ奴。それでいいじゃないか」
「遺書は、まだ、二通残っている。八年間、おれを貧乏の中で、ささえていたのが、いかりだったということに、いま気がついた」
「馬鹿な」と大吉は言った。「いかりなんて、高尚なもんじゃない。惰性だよ。それだけだ」
私は、まったくどう扱ったらいいか、わからない自分をかかえ込んだようであった。義務でも、友情でもない。それは、やはり、いかりのようなものであった。
私が立ち上がると、百瀬は、どろんとした目で、私を見た。
「帰るのか」
「ああ」
「忘れてしまえよ。その方が、ずっと楽だ。遺書なんか、焼いてしまえ」
私が歩き出したとき、百瀬大吉は、音を立てて、テーブルの上に顔を伏せた。(終)

有馬頼義『遺書配達人』 終わりの部分


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