アニメ絵(美少女)表紙の小説が増えた事の考察とそれに対する嫌悪の正体。
俺は特に用もなく本屋に足を運ぶのが好きだ。
特に最近は梅田の芦谷書店にお世話になっている。家から決して近いわけでは無いが自転車で40分程の時間を要しその空間を求める。
そこまでして本屋に行き何をするのかというと、ただウロウロと棚を縫うように徘徊するだけだ。良さげだなと思った本があると、手に取り、パラパラとめくり、財布を確認しレジへ。
そのルーティン時に買う本は大抵文庫本である。
新潮、講談社、角川、幻冬舎・・
大抵の本屋では文庫本コーナーとしてぎゅっと近隣同士の棚に固められつつある。
そんな文庫本エリアを牛歩していた際、ふと気づくことがあった。
近年、アニメ(美少女)絵表紙の小説がスペースを増していることに。
もはやライトノベルコーナーとの境界も引けぬほどに。
それが悪かと問われれば別にそういうワケでもないのだが、その情景が目に入ると身体から購買意欲が抜け落ち、酷く嫌悪感を覚えるようになった。
読めば面白いんだろうが、買う気は消え失せる。
恐らく同じ思いを抱く者も何人かはいると信じたい。
さて、上記の場面を頭で思い浮かべてほしいのだが、その際に疑問点が2つ残る。
1)何故アニメ(美少女)表紙の小説が多くなったのか?
2)それに対する俺の嫌悪感はどこから沸いて出たモノなのか?
この上記2つの出来事に懐疑的視線を向け、考察してみた。
1)何故アニメ(美少女)表紙の小説が多くなったのか?
1.最も考えられる理由
「平積みされている、目立つ場所に並べているから目に入りやすいだけで、実際はそこまで増えていない」
という考察が挙げられる。
本屋も言ってしまえばセレクトショップであり、消費のニーズや立地に伴い、仕入れや配置を変える。
その際に、「売りたい本」は当然我々の目に入りやすい位置に配置するだろう。
故に上記を=でつないでいけば
アニメ表紙の小説=我々の目につきやすい本=本屋の売りたい本
↓
本屋はアニメ表紙の小説を売りたい
という1つの定説が完成する。
2.次点
「実際にアニメ表紙の小説が急増しており、消費者の間でもブームとなっている」
という考察が挙げられる
出版社も利益追求団体に過ぎないので消費者のニーズに合わせた「売れるもの」を世に出そうとする。
その消費者ニーズが「アニメ表紙の小説」であれば合点が行くだろう。
現に、森見登美彦著「夜は短し歩けよ乙女」、和田竜著「村上海賊の娘」、有川浩著「図書館戦争」、三上延著「ビブリア古書堂の事件手帖」、住野よる著「君の膵臓を食べたい」
上記はほんの1例だが、アニメ表紙でさっそうと現れあれよあれよとコミカライズ、アニメ、映画、ドラマへと転身を遂げた。
そう、それはまるで
マルチメディア展開されることありきで発行されたかのように。
消費者の購買動機として多いのが「映画・ドラマ・アニメ見て良かったから原作買ってみよう」というものである。
つまり
売れる本=マルチメディア展開されている本
=アニメ表紙(最初から映像化されることを見越して
↓
当所から映像化のプロット上で書籍が発行され、映像化され、売れる
というパータン形成が急増している
要するにラノベ商法に寄った小説の急増
という定説が完成する。
2)それに対する俺の嫌悪感はどこから沸いて出たモノなのか?
読書を頻繁にされる方には当たり前のことかもしれないが
読書にのめりこみ文字を追っていると、頭の中で文字が映像に変換され、知らぬ間に世界観に没頭し周りから切り離された空間へと誘われる。
それがしやすければしやすいほど読ませる文章力があるいい小説である。
まあこれはあくまで俺の持論だが。
王道かもしれないが、俺は結局東野圭吾が好きだ。
卓越された文章力と構成力、そして肝となるトリックと発想が毎回外れなく読者を飽きさせない。
だが何といっても俺は東野圭吾の無骨さが好きだ。
この場における無骨さとはキャラ付けの無さである。
東野圭吾はサスペンスに混じり、SF、ファンタジーな非リアルな内容の者も多くそろえている。
しかし注目すべきは人物像と会話のやり取りである。
彼の作品における登場人物は特別な口調や癖があるわけでもなく、いい意味で普通、究極にリアルなのだ。
3次にもいるだろうなという人物の様々な層を書き分ける。
そのリアルな人物が、非リアルを体験するからこそ、そのパニックが読者にも伝わるし、トリックやどんでん返しも映える。
なので東野圭吾小説を読んでいる時の、俺の脳内での映像は全作品実写だ。
そして東野圭吾の文庫作品にアニメ表紙の作品は無く、映像化もすべて実写化である。
逆にキャラ付けが多い作家、森見登美彦はアニメ化も多くアニメ絵表紙の作品も多い。
まあ森見登美彦の独特な文章力は見ていて楽しいが
誤解しないでほしいのが「読んだら読んだで楽しめる」ということに俺も薄々気付いているということであり、アニメ絵表紙のDisがしたいわけではないということだ。
恐らく嫌悪感の正体は
「キャラ付けしない東野圭吾、横山秀夫、ルポライターなどのリアル系小説が面白い」
という定説が俺の中で完成されているので、相対する「キャラ付けするラノベ寄り小説」が「面白くない」という先入観が生まれてしまった故のものだと考えられる。
違和感が取れてすっきりした。
今度は久々にアニメ絵表紙の本も手に取ってみようか。
嶋浪 智練