見出し画像

河口の町:其の10

 伯母さんは祖母とも、何やらひそひそと、互いの耳許に口を寄せるようにして話し合っていたが、やおら、困ったように眉を寄せてベッドに近付き、父の顔を覗き込んだ。
「綾ちゃんが来ても、わからんがやてね……気の毒に……」
 語尾を詰まらせながら、伯母さんは、綾のオカッパ頭を撫で、背中をさすった。もしかしたら、お父さんは身を醒ますかもしれない……一縷(いちる)の望を抱いて、ベッドわきから離れなかった綾を無視するように、父は痩せて頬骨の飛び出した顔を白い天井に向けたまま、眠り続けている。
 息が詰まりそうな重苦しい時の流れに身を置くことに、綾はとうとう堪え切れなくなった。ほっ、と欠伸(あくび)を洩らすと、母の袂(たもと)を引っ張り、
「もう、お家に帰りたくなった……」といいながら、立ち上がった。
 綾の言葉を汐(しお)に、伯母さんも帰り支度を始め、そこまで送ってくる、という母と一緒に、綾も病室を抜け出した。
 廊下の空気は、少し冷たく感じられたが、病室のように、暗くよどんではいなかった。大人二人の話は、歩きながらでは尽きないらしく、エレベーター横に並べられた長椅子に腰を下ろしてまで続けられた。
「ほんまに……こんなに早う、昏睡(こんすい)が来るとは思わなんだわ……一昨日来た時は、まだ話も出来たがに……若いさかい、癌の転移も早いがやろね……ほやけど、奇蹟ということもあるがやして、最後まで希望を捨てたらいかんぞう……三人の小さい子もいることやし、あんたが、しっかりせんと……」
 伯母さんは、近くの吸殻入れを引き寄せると、布製のバッグからおもむろに煙草を取り出し、マッチで点火した。
「私は……あの人が、どんな体になってもいい……生きていてほしいがや……例え、一生、寝たきりでもいいさかい、生きていてほしいと思っとるがやけど……こないだ来た時……あの人は私に、遺言としか思えんようなことを言い出してね……」
 暫く沈黙した後、母は肩を小刻みに震わせながら、涙声で続けた。
「私や子供たちのために、なんとしてでも治りたかったんやけど……ここまで来てしもうては、もう自分でも、駄目なことがわかるというてね……そやさかい、私に、子供たちのことを頼みたいと……自分は死ぬやろうけど、死んでも、きっと、草葉の陰から子供たちを護るつもりやと……早晩、こんなことになること、わかっとったんやろうかねえ……」
 綾は、向き合った長椅子から、時々ハンカチを目に当て、啜り上げながら話をしている見慣れない母の姿を、固唾(かたず)を呑(の)んで見守っていた。
 祖母は、小鼻の黒子(ほくろ)を膨らませるようにして、長い煙の帯を吐き出してからいった。
「ほうやったがか……ほうやろうね……信夫さんも、小さい子を三人も残して……死んでも死に切れん思いやろ……なまじ医者やさかい……自分の病気のことでも、ようわかったやろし、……本当に……どんなにか辛かったやろね……今後の病状のことは、わからんけど、うちはここから近いし、人でもあることやさかい、毎日、誰か必ず顔出しするわ。あんたは、身体が弱いんやから、無理せんといてえ……ここで、あんたにまで倒れられたら、子供たちはどうなるんや?わかっとるやろうね……私等、出来るだけ力になるさかい、気をしっかり持つんやぞ……いいね!」
最後まで母を励ました村井の伯母さんは、折よく上がって来たエレベーターに乗って帰っていった。
(其の11に続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?