Cima

シズコでCimaです。

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河口の町:其の13

 「綾が住んでいた家は、この道を真直ぐ行けばいいんだろ?」  手取川の大橋を渡り終えると、夫が尋ねた。 「えっ?……あっ……そうよ。この通りをずっと行くと、坂になるの。その坂の下の右角の家……それにしても……あなた、私が話したこと、よく覚えていらしたわね」  タイムトンネルの中を、一人で彷徨(さまよ)っていた綾は、予期せぬ問いに、どぎまぎしながら答えた。 「ちょっと、下りてみるかい?」 「いいの……そのあたりだけ、ゆっくり走って下さるだけで……」  折角の夫の心遣いを、綾は素

    • 河口の町:其の12

       綾は、見様見真似で脱脂綿を濡らし、恐る恐る乾いた唇に運んでいった。脱脂綿の先が上下の唇を分けるや否や、割箸を通して、綾の手に強い吸引力が伝わってきた。予想もしなかったことだけに、一瞬、綾はたじろいだ。唇からは、またちゅうちゅうという音が洩れ出し、飛び出た喉仏が上下している。 「可哀想に……生きたい一心なんやろう……意識がのうなっても、こんなに吸うかして……」  祖母は嗄(か)れた声でいいながら、黒い前掛けの裾を抓(つま)んで、猫のように顔を撫(な)でた。  しっかり握ってい

      • 河口の町:其の11

         病室へと廊下を引き返す途中、曲り角で、ばったりと出くわした父の同僚の先生から、ちょっと話があるといわれた母は、先生と一緒に行ってしまった。  綾は、一人で病室へ戻る羽目になった。そっとドアを押した部屋には、もう小さな電燈がともっていた。その下に、背を丸めて椅子に座る祖母の後ろ姿があった。綾には、それが、黒い影法師のように見えた。大儀そうに、後ろを振り向いた祖母は、一人で帰ってきた綾を見ても、何もいわなかった。  部屋の中を見回していた綾は、隅の方に押しやられ、荷物の置き場と

        • 河口の町:其の10

           伯母さんは祖母とも、何やらひそひそと、互いの耳許に口を寄せるようにして話し合っていたが、やおら、困ったように眉を寄せてベッドに近付き、父の顔を覗き込んだ。 「綾ちゃんが来ても、わからんがやてね……気の毒に……」  語尾を詰まらせながら、伯母さんは、綾のオカッパ頭を撫で、背中をさすった。もしかしたら、お父さんは身を醒ますかもしれない……一縷(いちる)の望を抱いて、ベッドわきから離れなかった綾を無視するように、父は痩せて頬骨の飛び出した顔を白い天井に向けたまま、眠り続けている。

        河口の町:其の13

          河口の町:其の9

           綾は暫くの間、呆然(ぼうぜん)としてベッドの脇に突っ立ち、変わり果てた父の顔に見入っていた。ひび割れた白っぽい唇だけが、時々、ひくひくと動く。唇が僅かに動くことで、不気味な粘土のお面と向き合っているような奇妙な錯覚だけは、遠のいていった。しかし、どうしても、どこからも、父に対するような親しみの気持は沸いてこなかった。  通信簿を見せれば、お父さんも目を覚ますかもしれない……目を開ければ、お父さんらしくなるんじゃないかしらん……今日のお見舞いの一番大事な目的を思い出して、綾は

          河口の町:其の9

          河口の町:其の8

           あれは確か、去年のことだった……おばあちゃんに連れられて、親戚の家に行き、村祭りの御馳走になってきた夜から、私は病気になったんだった……近所のお医者さんから、疫痢(えきり)だといわれて、近所のお医者さんは、慌てふためいて、出張中のお父さんを呼び戻したんだった……お父さんは、飛んで帰ってくれたんだけど、その時、私はもう意識がなくなっていた……二日間の昏睡から醒めた時、私の目に最初に飛び込んできたのは、怖いほど真剣なお父さんの顔だった……黒眼鏡の奥から、私の目をじっとみていたお

          河口の町:其の8

          河口の町:其の7

           それから三週間たち、綾の通う国民学校は、春休みに入った。昨日の終業式でもらってきた通信簿を、入院中の父に見せるため、綾はまた金沢へ出かけることになった。今度は母と一緒だった。来月から幼稚園に入る妹とよちよち歩きの弟は、留守番役を引き受けてくれた親戚の小母さんと一緒に、残されることになった。  よそ行きのウールのワンピースに着替えた綾は、矢張り、銘仙(めいせん)の上下揃いのもんべ姿に替わった母と連れ立って、妹たちにみつからないよう、こっそりと家を抜け出し、午後の上り列車に乗っ

          河口の町:其の7

          河口の町:其の6

           ゴトン、ゴトン……ゴトン、ゴトン……規則正しい車輪の響きも、今の綾には、もう悲しい音に聞こえる。伸び上がるようにして眺める車窓には、白地に黒い模様を描いた反物を手操るように、田んぼや畠が、次々と現われ、消えて行く。 だが綾の心には、降車駅のことしかなかった。四つ目、四つ目、ただ降りる駅の順番だけを、呪文のように繰り返す。それでも、安心できず、綾は停車の度に、伸び上がり、ホームの看板に目を凝らし、駅名を確かめた。  それでも三十分ほどかかっただろうか。綾は無事、美川駅に降り立

          河口の町:其の6

          河口の町:其の5

           昼下がりの気だるさを漂わせ、閑散としていた先ほどの駅の構内にも、今は見違えるように人が増え、活気がみなぎり始めている。会社の引け時には、まだ少し早かったが、待合室は、空席がないほどの混みようだった。  布製カバンを肩にした中学生らしいグループが、ふざけ合いながら、改札口へ吸い込まれて行く。大きな買い物包みを下げたおばさんが、手を引いている子供を叱りながら、切符売り場の方へと急いでいる。リュックサックを背負ったおじさんが、ゴム長靴をひきずるように、大股で去って行く。ホームへ滑

          河口の町:其の5

          河口の町:其の4

           北側の建物の軒下には、まだあちこちに、屋根から降ろした雪が、かなり大きな塊となって残っていた。その雪の塊の表面は、薄汚れてごつごつしており、何だか、うずくまった動物の痩せ衰えて行く姿に似ていた。  綾は、厚手のハーフコートのポケットに、帰りの切符があることを確かめながら、ズボンに泥ハネをあげないように、注意深く歩いて行く。擦れ違う着ぶくれした人々も、みな足許に神経を集中させているように、俯きがちに見えた。  もう一度、駅まで戻り、正面の出口に立った綾は、駅前広場を、ゆっくり

          河口の町:其の4

          河口の町:其の3

           綾の全身を、突然、痛みに似た悲しみが走る。冷たい風が、心の隅々にまで吹き込んでくる感じがした。今まで拭っても、拭っても、止まることがなかった汗が、嘘のように引いて行くのがわかった。    「ああ……困った……見つからない。伯父さんの会社は、どこへ行ってしまったんだろう?……」  シャーベット状の雪と、泥水に埋まった長靴を通して、冷たさは容赦なく入り込んでくる。淡雪にぬかるんだ舗道に立ち尽くしている綾の顔は、べそをかいていた。不安と焦りは、黒雲のように綾の心を覆い、その視界を

          河口の町:其の3

          河口の町:其の2

           車窓が描き出す風景は、青田が広がる田園から、松林が続く海辺へと、次第にその画材を変え、道路がより海へ接近していくことを感じさせる。車道に並行して延びている松林の手前の砂地には、ところどころに、かぼちゃやさつまいもの畠がある。はびこった葉はどれも、焼けつくす砂地の照り返しを受けて、ぐったりしおれていた。  道路脇の砂まじりの土には、小判草(こばんそう)が群がり生え、その間に月見草の株が点在している。小判草の実は、強い日差しを反射させ、波頭のように白くきらめき、月見草の花は、化

          河口の町:其の2

          河口の町:其の1

          真夏の強烈な照り付けに、軽舗装の道は、白く乾いて埃っぽかった。路面の凹凸をそのまま拾って走る中古車の乗り心地は、決して快いものではない。 車の窓を全部開け放しても、入ってくるのは熱風ばかりで、滲み出る汗は止まらない。助手席に座った綾は、ハンカチーフで額や鼻に吹き出た汗を押さえながら、ハンドルを握る日焼けした夫の横顔を盗み見て、少し痩せたのではないかしら……と思った。  一か月ぶりに家族四人が顔を揃え、一つの車に揺られているという心の安らぎは、乗り心地の悪さや、蒸し暑さを忘れさ

          河口の町:其の1

          庭の花ジニア

          庭の花ジニア

          庭の花鶏頭

          庭の花鶏頭

          庭の花ノウゼンカズラ

          庭の花ノウゼンカズラ