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河口の町:其の4

 北側の建物の軒下には、まだあちこちに、屋根から降ろした雪が、かなり大きな塊となって残っていた。その雪の塊の表面は、薄汚れてごつごつしており、何だか、うずくまった動物の痩せ衰えて行く姿に似ていた。
 綾は、厚手のハーフコートのポケットに、帰りの切符があることを確かめながら、ズボンに泥ハネをあげないように、注意深く歩いて行く。擦れ違う着ぶくれした人々も、みな足許に神経を集中させているように、俯きがちに見えた。
 もう一度、駅まで戻り、正面の出口に立った綾は、駅前広場を、ゆっくりと見廻わした。
 以前、この街に住んでいたというのに……二年間の美川暮らしは、綾の感覚まで、すっかり変えてしまったのか……それとも、独りきりで、やって来たという緊張感のせいなのだろうか……綾の目に映った金沢の町は、とてつもなく大きくて、よそよそしい顔つきをしていた。
 綾は、母と一緒に訪ねたことのある伯父さんの会社までの道程を、会社のたたずまいを、懸命に思い描いた。一つ大きな深呼吸をした綾は、これから試験問題に取り組む受験生のような真剣な眼差しで、駅前の大通りに向かって、再び歩き出した。
 伯父さんの会社は……電車通りに面していて……下半分が曇りガラスの表戸に、金色で、村井商事株式会社、と書いてあったはずだけど……村井商事……村井商事……殆どの商店や事務所の看板には、綾の読めない漢字が並んでいる。
 だが、綾の頭の中に、村井商事という漢字だけは、実物と同じように、金色ではっきり刻み込まれていて、他の文字と間違えるはずはなかった。けげんそうな人の視線など、いっさい気にせず、綾はただ、一軒一軒、店の名前と、あたりの様子を確かめながら、歩を運ぶ。
 かなりの距離を歩いただろう。気がつくと、市電の次の停留所近くまで来ていた。しかし、それだけ遠くまで、丁寧に探し歩いたのに、どうしたわけか、綾の手操り寄せる記憶と一致する伯父さんの会社は、見当たらなかった。
 絶望が胸を締めつけ、頭の中が真っ白になって行くようだった。滑って転びそうになった拍子に、綾のかじかんだ指先から、包みはあっという間に路上に落ちた。我れに返って、慌てて包みを拾いあげたが、新聞紙の一部は、すでに泥水を吸って濡れていた。
 やりきれない気持になって、見上げた空は、濃い灰色の雲が、隙間なく埋め尽くしている。忍び寄った黄昏の気配は、陰気な街並みの表情を、一段と暗く淋しいものにしている。頬を撫でる風も、冷たさを増したようだった。
 息苦しいほどに膨れあがった心細さは、何とか今まで持ちこたえていた綾の使命感をも、一瞬に押し潰すほどだった。
 電車が、カーブを曲がりながら、もの悲しい軋み音を放つ。その音にも、綾の里心は、かきたてられた。もう綾には耐えきれなかった。ただ無性に家が恋しく、帰りたかった。
 仕方がない。もう家に帰ることにしよう……その心に決めると、綾は新聞紙の包みを両手で抱え、流石に、肩を落としながら、駅への道を急いだ。
 (其の5に続く

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