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河口の町:其の3

 綾の全身を、突然、痛みに似た悲しみが走る。冷たい風が、心の隅々にまで吹き込んでくる感じがした。今まで拭っても、拭っても、止まることがなかった汗が、嘘のように引いて行くのがわかった。
 
 「ああ……困った……見つからない。伯父さんの会社は、どこへ行ってしまったんだろう?……」
 シャーベット状の雪と、泥水に埋まった長靴を通して、冷たさは容赦なく入り込んでくる。淡雪にぬかるんだ舗道に立ち尽くしている綾の顔は、べそをかいていた。不安と焦りは、黒雲のように綾の心を覆い、その視界をも、すっかり灰色に変えていた。
 つい今し方まで、雲間からこぼれていた早春の午後の薄陽は、いつのまにか消え失せていた。変わりやすい北陸の空は、どんよりと重く垂れ上がり、今にも雪がちらつきそうな感じだった。
 金沢駅前の停留所で、乗降客をすっかり入れ替えた市電は、案外すいているらしく、腰掛けている乗客の後ろ頭だけが、窓際に一列に並んでいた。金属性の軋み音を、重々しく響かせながら、電車は、綾の横手を通り過ぎて行く。
 手にした包みは、疲労とともに重々しさを増していく。殆ど、泣き出さんばかりの綾の脳裡に、家を出る時の、真剣な母の顔が浮かび上がった。
「綾は、うちでは一番のお姉さんやし……一年生なんやから……これくらのお遣いなら出来るやろ……これを、ちゃんと村井の伯父さんの会社まで届けるんやぞ……そしたら、会社の人が、大学病院で、お父さんに付き添っているおばあちゃんのところまで、持って行ってくれるさかいね……手術を受けたお父さんに、早う治ってもろうには、栄養を摂ってもらわなならんからね……この鶏は、頼んで、やっと分けてもろうたもんやさかい、大事に持っていくがやぞ……駅前の伯父さんの会社……行ったことあるさかい、わかっとるやろ……そこで、美川から来た原田やといって、これを渡してくるだけや……出来るやろ?……切符は、金沢までの往復を買うがやぞ。今からなら……二時半の汽車に間に合うわ……」
 幾重にも紐が掛けられた新聞紙の包みを、綾の方に差し出しながら、母はいった。綾は、学校から帰って、ランドセルを置いたばかりだった。遊びに行く約束をしてきたのに、それを、破ることになる……それよりも、何よりも、一人で汽車に乗ったこともない……綾の顔に広がった不満は、直ぐに、不安へと変わる。綾は逡巡した。だが、母の命令は、綾に有無をいわせない厳しさに満ちていた。
 心をよぎった母の言葉は、すっかり萎えていた綾の気持に、カンフル注射の効き目があった。
 もう一度、最初から丁寧に探し直そう……綾は、鶏の包みを、痺れてきた右手から、左手へと持ち替え、今、来た通りを、金沢駅に向かって引き返した。
 駅前の大通りは、その真中に市電のレールを鋏み、両側に商店や事務所を連ねて、駅の正面出口から真直ぐ東に延びている。
 父の入院している大学病院は、ここから市電に乗って、二~三十分かかる終点にあることを、綾は聞いている。このレールが、父や祖母のいるところまで続いていると考えると、綾の心は、少しばかり明るくなった。
 今頃、お父さんやおばあちゃんは、どうしているのかしら……暫く会っていない二人の顔が、綾の脳裡に点滅した。
其の4に続く

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