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河口の町:其の7

 それから三週間たち、綾の通う国民学校は、春休みに入った。昨日の終業式でもらってきた通信簿を、入院中の父に見せるため、綾はまた金沢へ出かけることになった。今度は母と一緒だった。来月から幼稚園に入る妹とよちよち歩きの弟は、留守番役を引き受けてくれた親戚の小母さんと一緒に、残されることになった。
 よそ行きのウールのワンピースに着替えた綾は、矢張り、銘仙(めいせん)の上下揃いのもんべ姿に替わった母と連れ立って、妹たちにみつからないよう、こっそりと家を抜け出し、午後の上り列車に乗った。
 並んで座ることはできたけれども、車中の母は、殆ど無言だった。何か考えごとをしているのだろう。眼は閉じていたが、両手は絶えず膝にのせた風呂敷包みの結び目をまさぐっていた。
 だが、綾の心は弾んでいる。トコトコトコトコ……単調な車輪の響きさえ、軽快だった。列車の振動に身を任せながら、綾は時々、手提げの中の通信簿を覗き見る。この通信簿を見た時、お父さんはどんな顔をするかしらん……よく勉強をみてくれたお父さんだもの……きっと喜んでくれるだろう……。
満面に微笑を浮かべ、頭を撫でてくれる父の姿をあれこれ想像して、綾は密かに胸をおどらせていた。
 雪があとかたもなくなった金沢の町は、一昨年から続いている戦争のことなど、忘れてしまっているかのように、のんびりと穏やかな雰囲気を漂わせている。道行く人々の服装は、さすがに国民服やもんぺ姿が多かったが、一刻も早く病院の父に会いたいと心せく綾にとって、人々の動作は、まるで昼寝から目覚めたばかりのように、緩慢に思えてならなかった。
 しかし、金沢駅から市電に乗り換え、ようやく辿り着いた大学病院は違っていた。初めて綾が見た病院は、薬品の匂いが鼻をつき、さむざむとした空気が、異様にはりつめている別世界であった。
 丁度、面会時間になったばかりだったので、綾たちの乗ったエレベーターも、かなりの混みようだった。綾は大人たちの間に挟まり、目隠し状態にされる。見舞客の誰かが抱える水仙の花束が放つのだろうか、すがすがしい香りが、ほのかに漂ってきた。
 父の病室は、最上階にあった。ドアをノックする母の傍らで、綾は身を硬くしていた。やがて、
「はーい」
 という聞き馴れた低い声がして、ドアが静かに開けられる。綾の目の前に、泣き笑いの祖母の顔があった。久しぶりでみる祖母の顔は、萎んでひとまわり小さくなっていた。
 祖母に肩を抱かれるようにして、足を踏み入れた病室にも、矢張り、薬の匂いがあった。それに少し薄暗くも感じられた。部屋の中央よりやや窓寄りに、父が横たわるベッドが見える。細目に開かれたカーテンの間から流れ込む帯状の柔らかな光を浴びて、窓辺に置かれた鉢植えの桜草が、ひっそりと息衝(いきづ)いている。祖母と母は、家から持ってきた着替えの包みを開けながら、部屋の隅で何やら小声で話し合っていた。
 綾は足音を忍ばせ、恐る恐るベッドに近寄って行く。
「お父さん」
 そっと呼んで覗きこんだ綾は、思わず息を呑んで後退りした。これが……本当に、私のお父さんだろうか……二か月前まで、一緒に暮らしていた、あのお父さんなんだろうか……。
綾の脳裡に、父との生活が走馬燈のように流れ、クローズアップされた父の顔がよぎって行く。
(其の8に続く)

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