早い段階のテキスト化
シェルパ・アンド・カンパニー株式会社 AI事業部の小田です。シェルパでは事業部長の立場で活動していますが、他社でリサーチサイエンティスト、また奈良先端科学技術大学院大学で招聘教員(助教)を併任しています。個人的な専門は自然言語処理、特に言語モデルや機械翻訳で、オーソドックスな方法からLLMまでかれこれ10年ほど分野に関与しています。シェルパでも自然言語処理の業務適用や、関連企業・組織との共同研究などを指揮しており、当社の先進技術面での裏打ちを担当しています。技術的な内容等を語る機会は他の媒体に譲るとして、本記事ではAI事業部の方針の一つに注目したいと思います。
AI事業部は基本的に全員フルリモートワークが前提になっています。個人的な興味で出社することは拒まないので、メンバーによってはオフィス勤務の者もいますが、全てのメンバーがいつリモートで勤務しても問題なく業務が遂行できることを目指しています。また、基本的に事業部内の全メンバーが裁量労働制で、必要な会議等を除けば他人と勤務時間を合わせる必要もないようになっています。自分自身も他組織とのクロスアポイントメントであり、フルタイムで勤務しているわけではなく、一週間のうちシェルパに対して集中的に労力を投下すべき時間帯を決めています。結果的に勤務時間は短いですが、面白いことに実際の業務の進み方はフルタイムの場合とそう変わらないように思います。
さて、リモートワーク一番の難しさとして、情報伝達が非対称になりがち、というのがあります。多くの人にとって物理的に会話するのが一番楽な手段なので、目の前にメンバーがいると基本的には会話で情報伝達を済ませようとしますし、それは自分も同じです。小さなオフィスにメンバーが集結しており、全ての会話が耳に入るような状況であればともかく、大組織で相手が離れた位置にいたり、同じチームに一人でもリモートのメンバーがいると、音声だけでは情報伝達がしばしば成立しません。また、仮に全員が会話に参加でき、その場ではうまく内容を記憶していたとしても、多かれ少なかれメンバーの暗黙知となってしまいますし、時間の経過と共に段々その認知内容が歪んだり更新されたりして、元の知識が何だったのか誰にも分からなくなってしまいます。こういったものが積み重なると、新たに参加したメンバーのオンボーディングや、別のメンバーとの前提知識のすり合わせに非常に苦労することになります。皆さんも、古参のメンバーしか知らない知識があまりにも多すぎ、キャッチアップに困った経験などはないでしょうか。人間の脳の情報整理能力というのは凄いもので、自分が以前に経験した事例だと、メンバーから業務を承継する際に暗黙知を実際に書き下してもらったところ、これが何週間あっても終わらない、膨大な情報が本人の頭で都合よく最適化されてしまっており、他人が書き下しを読んでも理解できない、というようなこともありました。
AI事業部の大きな方針の一つに、早い段階で徹底したテキスト化を行う、というのがあります。オフィスでの会話やSlackのハドル、オンラインミーティングなど本人が必要と思えば自由に設定してよい代わりに、音声コミュニケーションの成果は全てNotionやGitHub上のissue、あるいは非常に些細なものであればSlackや、コードに紐付く情報であればpull requestに背景を記載してもらうことにしています。また、意見や提案なども音声で突然提示するのではなく、事前に何らかの形でノートに起こしてもらって共有し、それをベースに議論してもらうようにしています。Slackで何かを提案したり雑談したりするのは妨げませんが、実際に作業になりそうなものは最終的にdesign docやissueに落とし込むところまでを一つの方針としています。とにかく喋ったり考えたりした内容が何らかの形でテキスト化されている、という状況に持っていくのが目的で、情報が整理されているかどうかはこの時点では厳しくチェックしたりはしません。あまりにも膨大になってしまった暗黙知を書き下すのは非常に大変ですが、その場の論点や結論を少しまとめる程度であれば、多少の訓練は必要ですが基本的には誰でも実行でき、テキストの形で情報が残るため、意図的に編集されない限り内容が変化することもありません。
どこかに何かがテキストの状態で残っている、という状況ができると、キャッチアップのためにまず社内の媒体を検索する、という手段が使えるようになります。メンバー個人が検索を行う分には他人の時間を使わないので、AI事業部のような非同期勤務の傾向が強い組織では検索に頼ることの有効性が非常に大きくなります。また、音声コミュニケーションを明示的に書き下してもらうのは一定の訓練が必要な一方で、既にあるテキストを活用するのは割と自然にできるもので、今日の議論の根拠に過去の書き下しを参照する、というのは特にそう指導したわけでもなく日常的になっていると思います。
書き下してしまったテキストを後から参照できることの裏返しですが、実際に書き下した具体的な内容については一定量忘れてしまうことができます。そういう議論があった、程度のインデックスだけ頭に入れておき、詳細は実際に過去に書いたテキストを見て思い出す、という方針を取るわけですが、これは案外効率的で、今現在記憶しておくべきものがほぼ目の前のタスクのみになるため、思考の整理がしやすくなります。複数組織に所属していると頭で考えていること全体を切り替える必要がしばしば生じるので、特にそう思うのかもしれません。SlackやNotionのワークスペースを切り替えるタイミングで記憶していたものを一旦リセットする感じでしょうか。そうしないと頭がパンクしてしまいますし。
業務が進展するにつれて、特定のタスクについてより整理されたドキュメントがほしい、という状況になることもあります。構造化されたテキストをいきなり書き下すのは高い文書作成能力を要求され、書いている本人も大いに疲弊するのですが、事前にメモが用意できると下書きを半分くらいクリアした状態からスタートできるので、大幅に難易度が下がります。最近だと文書を構造化する部分はChatGPTなどに任せてしまってもよいかもしれません。自然言語処理のことを思い出すと、ざっくばらんに集めたコーパスから情報抽出するのは伝統的なタスクで、書き下しから業務に必要な情報を適切な粒度で取ってくる、という設定は研究対象としても面白いテーマになっているかもしれません。
というわけで、早い段階でのテキスト化は暗黙知や過去の情報の歪みを減らす効果と、後で様々に活用できる余地が大きい、という論点で記事を書きました。前者はリモートワークでは必須ですし、後者は全員オフィス勤務の場合でも相当の有効性があります。広い視点では社内データの蓄積の一環と言うこともできるかもしれません。人によっては何を今更という内容かもしれませんが、改めて書いてみるとメリットが多いことが分かります。この方針の難点としては、やはりどういう形でも執筆作業は多かれ少なかれ面倒臭いもので、まず知識をテキストにする、という部分を定着させる難易度がそれなりに高いことでしょうか。この記事の本文は空白を除いて3200文字あり、原稿用紙だとちょうど8枚になるのですが、これくらいの分量の執筆が苦ではない程度には自分もテキストに慣れてしまっています。音声コミュニケーション主体の職場やメンバーだと、上記のような方針をいきなり適用されるのは辛いと感じるかもしれません。後で参照したいからこの辺にちょっとだけ書いてくれ、という軽いものから始めて、少しずつ定着させてゆくのがよいでしょうか。