アフリカで泥棒に入られた話
ジブチという国は小さい。そこに住む外国人は少ない。
毎日の行動すべてが注目されていると言っていい。
知っていたけど、わかっているつもりだったけど、甘かった。
ある日、生活費を下ろしに銀行に行った。600ドル。
その夜のことだ。
当時住んでいたアパルトマン(マンションと訳すほどきれいではないけれど、アパートと訳すには頑丈すぎる)には門番がいて、わたしと夫が住んでいるのは2階で、ジブチには犯罪が少なくて、安全なはずだった。
玄関には鍵がかけられていた。
朝起きてすぐ、閉まっているはずの玄関の扉が軽く開いているのに気が付いた。
「誰かが入った」。背筋がぞっとした。身がすくんだ。
玄関近くに置いてあった財布が、なくなっていた。
その時点で、変だと思うものの、まだ確信はない。
でも全身が異変を訴えている。
自分が落ち着きたいために、寝ている夫を「泥棒に入られた!」と起こした。「玄関が開いていた、財布を盗まれた!」と。
2人でどこから入ったのか見まわったら、ベランダの窓が開いていた。
外壁をよじのぼり、ベランダから入ったらしい。
そこの窓は普段から閉めていなかった。
ケーブルを外から引きこむために、閉まらなくなっていたのだ。
門番はどうしていたのだろう?
その段階で、今は誰も信じられないという気持ちだった。
他に盗まれたものはないかと見ると、扉のない寝室の、わたしのアクセサリー・ポーチが盗まれていた。
高価なものはなかったが、何年も前にロンドンで買って気に入っていたネックレスやジブチに着いてから買ったイエメンのアクセサリーなどが入っていた。
あー、残念と思った瞬間、もっと重大なことに気づいた。
泥棒はわたしたちのすぐ近くまで入って来ていたのだ。
その時、すべてをあきらめた。観念した。
「命に危害を及ばされなかっただけでも、よかったとしよう」
犯人を捕まえようとか、決して許さないとか、そういう気持ちにはまったくならなかった。
qd de p自分たちの不注意、安全管理ミスだ。
泥棒に入られたのに、お互いが無事。それだけでよかった。
夫の知り合いだったアパルトマンのオーナーに連絡し、窓に柵をつけてもらった。
数日たって、家政婦が門番など数人の男たちに囲まれているのを夫が見かけて、家で話を聞いた。
家政婦が言うには、門番とその兄弟が犯人らしい。ジブチ人同士で話が耳に入ったのを口外しないように言われたとのことだ。おませのせいにしてやる、とも言われたらしい。
門番が犯人なら、納得はいく。
犯人がわかったなら警察を呼ぶ?
わたしたちは警察を呼ばないことを選択した。
呼んでどうなるのだろう。
泥棒をした門番は刑務所に入るのか、警察官に鞭うたれるのか、処遇がわからない。
わたしたちは数か月後には、フランスに発つことになっていた。
どういう待遇になるかわからない刑務所に、泥棒したからと言って一人の人間を送ることに、ためらいがあったのだ。
オーナーには一応伝えた。門番は違う人になった。
わたしたちも、より慎重になり、その後は被害にあうことはなかった。
あの時の対処が正しかったのか、今でもわからない。
盗んでも罪にならなかったことで、彼は罪を重ねただろうか。
答えの出ない問いは、答えの出ないまま、ときどき思い出し考えることに、意味があるのではないかと考えている。
200年後、2000年後の人々の中にも、同じ問いを立てる人はいるだろうか。