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【フランス生活】さようなら、シラノ。

昨日はシラノの四十九日だった。12歳直前で逝ったゴールデンレトリバー。

特に法要めいたことをしたわけではないけれど、ああ、このくらいの日数なのだなあという実感だ。
いないことが日常として受け入れられるようになってきた。

同時に、最近になって、ふとした瞬間にさびしさが急にこみあげるようになった。
「シラノに、会いたい」と突然自分の心の叫びを聞いたりする。
逆なようだけれど、そういうゆとりが、心に出来てきたということなのかもしれない。

写真もちゃんと見られるようになって、元気なシラノを目にするようになったので、生きていたら今でも元気だった気がして、「なんとかして、もっと長く生かせなかったのか」と自分を責める気持ちになったりする。
でも、心が落ち着き最後の日々に思いが至ると、いや、なんとかしても数日あるいは数週間の延命で、その間シラノの辛さを長引かせることになったのだと、改めて諦めなおす。

「なんとかして、もっと」と思うのは、シラノのためというよりは、さびしい自分のためなのだ。
シラノにつらい思いをさせて「もっと」があったとしても、いなくなる日は必ず来て、さびしい日は訪れた。

12年近く、ずっと一緒で、毎日2回、40分~60分の散歩に行った。
散歩ついでに買い物やカフェ、外食など用も足せるので、ほんとうにずっと一緒だった。
仕事などで一人で出かける時は、家に帰ると、シラノのとびきりの笑顔と愛情が迎えてくれた。
帰りが遅くなって、プン!とこちらに背中を向けつつ、ちらちら振り返る姿はとりわけ可愛かった。

バカンスはシラノを第一に考え、海か山か別荘に行った。
他の街に行くより、シラノが楽しめるところの方がよかった。
故郷である日本には定期的に帰ったけれど、それ以外に夫と2人でシラノを置いて旅行に行くということもなかった。

シラノは表情豊かで、意思や気持ちも人間のように示した。
ときどき「あれ、今日シラノしゃべらないな」と思い、「ああ、シラノは犬だからしゃべらないんだった」と気づくなんてことがあるほど、シラノはちゃんとコミュニケーションを取ってくれていた。

常にいろいろな表情やしぐさや目線で、わたしを幸せな気持ちにしてくれたから、自然にわたしの気持はいつも底上げされて、なにも努力しなくても幸せが保証されていた。

それが無くなった。
瞬間瞬間の幸せを、自分で作らなくてはいけなくなった。

そういう日が来たのだ。受け入れ、順応するしかない。

シラノを思い出しながら、幸せな瞬間を自分で作っていこう。

「満たされないから、次の犬を飼う」というのではなく、シラノの不在を感じながら、シラノを思い出して、自分で幸せな瞬間を作っていきたい。

シラノがいた頃はしなかったこともしよう。

・たとえば、速く(シラノは用を足したり、においをかいだり、足を止めることが多かったから)。
・長めに日本に滞在して、両親との時間を大事にする(シラノを夫の両親に預けていたので、長期間は遠慮していた)。
・夫と長めの旅行する(2人で旅行なんて、したいと思わなかった)。
・白いカーペットを敷く(シラノがいると汚れていくので)。
・電車に乗って出かける(車の方が都合がよかった)。
・美術館に行く(シラノが老いてきてから、行かなくなっていた)。
・白い毛がついたり、散歩用を意識せずに服や靴を買い、おしゃれする。

我慢していたわけではないけれど、シラノとの時間が幸せで、1人で出かけるということもしなくなっていた。シラノといれば特別なおしゃれも必要なかった。

今なら全部可能だ。シラノと出会う前の自分を取り戻す感じとも言える。

けれども、やっぱり出会う前の自分でもなくて、シラノはいなくなったけれど、いつも一緒にいられるようになった時が訪れたとも言える。

心のシラノは、飛行機にも一緒に乗れるし、日本のカフェやレストランにも一緒に入れる。本屋や映画館も。

わたしがシラノを思いさえすれば、どこにいても一緒なのだ。

さびしいけれど、さびしくない。

自分にとってそういう存在であるシラノと出会えたこと、これまでの12年の日々と共に、これからも心にシラノがいるということ、わたしの人生にとって大きな幸せだ。

心の中のシラノと共に、愛し愛されている実感と共に、これからの日々を歩いていく。

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