「守ってくれるゆず」
彩香が「ゆずの精」に出会ったのは、中学校に行く途中、道に落ちていたゆずを、走って来て踏みそうになった小学生から助けたことがきっかけだった。
小学生がそのまま走り去り、踏まれずに済んだゆずを拾い上げたとき、ゆずが話し掛けてきた。
「君はなんて優しい子なんだろう。 僕がこれから君をまもってあげる。君のお守りになるよ」
彩香はゆずが話し掛けてきたことに少し驚いたものの、これまで物語をたくさん読んできたので、「そういうこともある」んだと、自然に受け入れることができた。
「どうやって守ってくれるの?」と聞くと、
「もし、なぐられたり、いじめられそうになったら、ぼくを相手に見せるといいよ。そうしたら、相手はもうきみをなぐったり、いじめたりできなくなる」
「わたし、学校でよくいじめられるのだけれど、もういじめられなくなる?」
「もういじめられなくなるよ」
「嫌なことも言われなくなる?」
「相手が悪さをしようとしたり、意地悪なことを言いそうになったら、ぼくを相手に近づけるといいよ。相手は悪いことはできなくなるし、言えなくなる」
「取り出すのが間に合わなかったら?」
「じゃあ、ぼくの汁をちょっと手につけておくといい。汁のついた手を出すだけでも、効果があるから」
「そうか、あなたは良い香りだから良い気分でもいられるわね」
「そうだよ。ぼくが君を幸せにする」
少し考えた結果、彩香はゆずの果汁を手に付けるのはやめた。
ゆずに傷をつけて汁を出すのは、ゆずに悪いというより、ポケットがべちゃべちゃになりそうだったからだ。
ゆずの香りをかぎ、匂いがうつるといいなと思いながらゆずをこするようになでて、それからスカートのポケットにしまった。
ゆずが守ってくれるというので、いつもはこわごわ登校するのだけれど、その日はゆずの香りを思い出しながら、胸をはって学校に入った。
幸いなことに、ポケットのゆずは教室に入るまで先生にも友達にも気づかれることはなかった。
普段なら通りすがりに、彩香の頭をはたいて追い抜かしていく慎吾も、その日はただ彩香をちらっとみて、横を走り抜けただけだった。
学校に着いたとき、いつもからかってくる俊樹が近づいてきたので、あわててゆずを取り出した。
すると、俊樹はゆずではなく、意外なものを見るように彩香の顔を見つめなおし、それから視線をはずしてよけて行ってしまった。
後ろの席のさやかは、毎朝のように「前に座っているのが彩香なんてねえ」と嫌味を言うのだが、今日は何も言うことはなかった。
ゆずは本当にわたしを守ってくれているのかもしれない。
ずっとゆずが一緒にいてくれるといいな。
その日は一日、何もいやな思いをすることなく過ぎた。
帰るとき、幼馴染の春奈が、本当にひさしぶりに「彩ちゃん、一緒に帰ろ」と言ってきた。
「彩ちゃん、なんか今日いつもと違うね」
「え?いつもと一緒だけど」
「なんか大人っぽい。それで、なんかかっこいい」
「かっこいい?なにそれ」
「よくわからないけど」
「それは、わたしにはゆずの精がついているからだよ」と思ったけれど、昨日までと態度を急に変えた春奈に、本当のことを教えてあげる気持ちにはならなかった。
ゆずの精は、彩香だけの秘密だ。
家に帰ると、母親はまだ帰っていなかった。
今日はフラダンスの日なのだ。
いつものんきで明るい母に、彩香は学校でいじめられていることを話していなかった。
リビングにおやつが用意してあるのが見えたけれど、彩香は立ち止まらずに自分の部屋に入ってドアをしめた。
ポケットからゆずを取り出す。
「ゆず、ただいま。家に帰ってきたよ、今、誰もいないよ」
ゆずは、何も言わなかった。
「ゆずさん、もうしゃべらないのですか?」
ていねいに言い直してみたが、ゆずは何もしゃべらなかった。
登校中に彩香がゆずの声を聞いたと思ったのは、幻だったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
彩香はゆずのパワーを感じていた。
ゆずの精は、本当にわたしを守ってくれたのだ。
しゃべらなくても、ゆずの精は一緒にいてくれる。
彩香は、ゆずの精を信じることにした。
「でも、ゆずって普通に果物だよね。このままずっと一緒にいられるわけではないよね。そのうち腐るよね」
心配なことを口にして、ゆずに話し掛けてみたけれど、何も言わない。
信じることは信じるものの、実際にはどうしたらいいのだろうか。
彩香はゆずを手に取り、両手の間でころころ転がしてみた。すると、なにかなつかしい感じがした。
ゆずって、いい匂いだな。ゆずの感じ、好きだな。なつかしいな。
そうか、おばあちゃんちだ。四国のおばあちゃんちに行ったときに、木にたくさんなっているゆずを見たんだった。あのときはじめて、ゆず茶という飲み物を飲ませてもらったんだ。
おばあちゃんのゆず茶、美味しかったな。
このゆず、ゆず茶にしたらどうだろう。
お守りになってくれている「ゆずの精」のゆずを、食べてしまっていいのだろうか。
でも、ゆず茶飲みたい。
ゆずの精が「汁を手につけるといいよ」と言ってくれたのだから、そうするには傷をつけることになるのだから、いっそのこと、食べてしまってもいいんじゃない?
飲んだらゆずは体の中に入るのだから、ずっと守ってくれるんじゃないかな。
ゆず茶、飲みたい。どうせ取っておいても、腐っちゃうし。
明日の朝のために、汁を少しだけ取っておけばいいじゃん。
彩香は、おばあちゃんがしてくれたことを思い出しながら、ゆず茶を自分で作ってみることにした。
ゆず茶と言っても、お茶を使うわけではない。
ゆずの皮や実をを細かく切って一緒にカップに入れ、はちみつを足して、しばらく待つ。
そこにお湯を足す。それだけだった。
ゆずを手に取り、キッチンに行く。
包丁とまな板を取り出した。
包丁を入れる前に、一応声をかける。
「切るよ。食べていいかな。ダメなら今ダメって言って」
ゆずは何も言わなかった。
思い切ってザクっと切ってみた。良い香りが広がった。
ゆずを開くと、たくさんの種があった。
そうだ、種を庭に植えよう。いつかゆずが実をつけるかもしれない。
そうしたら、今度はたくさんのゆずがわたしを守ってくれるかもしれない。
それがゆずの望むことなのかどうかわからなかったけれど、切ってしまった以上、それしかゆずのためにできることはない気がした。
果汁を小さな器に軽くしぼってとっておく。
ていねいに種を取り除き、小さめのお皿にのせる。
ゆずは外皮も内皮も実も刻むと、マグカップにいっぱいになりそうな量になった。
一人分には多いかもしれない。
でも、これは自分だけのものにしたい。
食器棚から一番大きいマグカップを取り出し、はちみつも棚から出して、ゆずが全部浸るくらいに注いだ。
ゆずとはちみつの良い香りがした。
湯沸かしポットに水を入れてスイッチを入れる。
「ゆずの精、明日からも守ってくれるといいんだけどな」
ゆずはなにも言わない。
でもなんとなく、彩香は明日からの自分は、大丈夫な気がした。
幼馴染の春奈が、今日彩香がおとなっぽくてかっこいいと言った。
ゆずが「君を守るよ」と言ってくれたとき、彩香の心の中のなにかが、変わった感じがしたのだ。
今日は一人でゆず茶を作ろうと考えたし、種を植えようかとも考えた。
昨日までの自分とは違う。
「わたしのからだの中で、わたしを守ってね」
なんとなく都合が良過ぎる気もしたが、申し訳ないという気持ちはなかった。
「ゆず」、と最後に話しかける。
「今日一日、ありがとう。わたし、ちゃんと守ってもらったことがわかったよ。
ゆず茶にして、飲ませてもらうね。
種は取ってあるから、庭に植えるね。
うまくいくかわからないけど、いつか実がなるようにしてみる」。
幸せな気持ちになりながら、熱いお湯をマグカップに注ぐ。
スプーンで皮や身をつぶすようにかき混ぜて、少しずつ口に入れる。
ゆずとはちみつのあわさった、少し苦みもある甘くて香り強い味が口に広がった。
ゆず、ありがとう。美味しい。
おばあちゃんもありがとう、美味しいよ。
途中で思い出し、母親が用意してくれたマフィンも一緒に食べた。
お母さんもありがとう。
ゆずの精のことや、いじめられて嫌だったこと、お母さんに話してみようかな。
いや、ゆずの精のことを話してもなあ。いじめのこともなあ。
どちらのことも、きっと話さないだろう。
でも、「自分には何もできない」みたいな気持ちには、もうならないんじゃないかと言う気がした。
「わたしはゆずの精に守られている」。
彩香は守ってくれているゆずの精を思いながら、カップの中のゆず茶を最後まで大事に味わった。