【書きたい人が読む本】町田康著『私の文学史』 文学はなんのためにあるのか
町田町蔵から町田康へ
最初に白状してしまうが、私は町田康氏の小説を読んだことがない。それなのに本書『私の文学史』を手に取ったのは、単純に町田康…というか、町田町蔵を町田康にしたのは何なのか、に興味が湧いたからだ。私にとって町田氏は、まず町蔵なのだった。
町蔵のバンドINUのアルバム『メシ喰うな!』は繰り返し聞いた(実は今Apple Musicで何十年かぶりにこのアルバムを聴きながら書いている。アルバム自体はもう手元にない。シンプルだがオリジナリティに溢れていて、今聴いてもおもしろい。そしてもちろん全曲覚えていた)。
アルバム発売後ほどなくINUは解散し、その後町蔵は、FUNA、人民オリンピックショーなどのバンドを経て、ある日突然、小説家町田康になった。
いや、たぶん突然なんかではないのだと思う。私自身が、ある時期に音楽、特に日本の音楽から離れてしまったこと、さらにその後、小説などのフィクションを必要としない生活をしていたせいで、どちらの世界にも疎くなり、町田氏のこの転身を知らなかっただけだ。
日本の音楽から離れる前、あれは人民オリンピックショーの頃だったかその後だったか、今となっては定かでないが、町蔵のライブを渋谷で観た。その時のライブは「町蔵大丈夫だろうか? だいぶ煮詰まってるなあ…」と思ってしまうような内容で、ちょっとジョン・ライドンのPILっぽい方向だったかと思うが、私は聴いていてきつくなってしまった。「これ、このまま続けられないでしょ…」と思った。
もしかしたら、あれは、当時私自身が煮詰まっていたからそう聴こえたのかもしれない、とも思う。それでも、その後ほどなくして、町田氏が町蔵から町田康になったことを思うと、あながち間違っていなかったんじゃないかとも思う。
もっとも町田氏は今でもバンド活動をすることがあるし、ご本人にとっては別に“転身”なんかではないのかもしれない。
町田康の「日本文学」
本書『私の文学史』は、町田康氏にとって「はじめての自分語り。」で、NHK文化センターで行われた全12回の講義をもとに加筆・修正・編集されたものだそうだ。本との出会いから、子どもの頃に読んだ本、好きな作家、パンク、詩、創作の背景、古典、翻訳、これからの日本文学についてなどが、話し言葉で綴られている。
話し言葉なのでたいへん読みやすく、ついさらっと読んでしまうが、うっかり重要なことを読み飛ばさないように気をつけたほうがいい。
(このカバー、実はカバーじゃなくて帯だということに、今、手元の本を見て気づいた。この下に通常のNHK出版新書の黄色いカバーがかかっている)
副題の「なぜ俺はこんな人間になったのか?」という問いへの回答までは、本書では到底とどかない。新書では無理な話だ。けれども、彼の文学、というか“言葉による表現”への並々ならぬこだわりと、表現することへの覚悟のほどは伝わってくる。町田康という作家が表現において何を大切にしているのかはわかる内容だ。
本の元となる講座の存在を知っていたなら、ぜひ直接講義を受けたかった。読むのとは別の伝わり方をしてくる部分もあっただろうと思う。何しろ彼は、言葉を声で直接観衆に届ける人でもあった/あるからだ。
「エッセイのおもしろさ」という章の中に、おもしろいものを書くには自分の本当を書く、そのためには文章を書くときのカッコつけ=自意識を外すこと、というようなくだりがある。これは書きたい人が書けなくなったときに見る言葉リストの中に入れておくべき言葉だと思う。
最終章の「これからの日本文学」は短いしさらっと話している(書いている)けれども、たいへん重要なことが独特な言葉で表現されている。
文学とは何か。文学で何をするのか。文学はなんのためにあるのか。
この章は、文学に限らず“何か”を書きたい人にとって必ず響く内容だ。ここからは引用掲載してはいけない気がする。全文を読むべきなのと、無料でシェアするのが憚られるので、気になる向きは直接本書に当たって欲しい。
この部分だけでも読む価値があると思う。もちろん一冊全部読んだほうがより深い理解を得られるに決まっているが。
語られていることは至極真っ当、それでも随所にパンクの匂いが漂う。町田氏自身がパンクなのだから、それも当然のことだろう。