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夢を失ったその先に、

年末を前にして人生を一度振り返っておこうと思い、久々にログインしてみました。
何の変哲もない二十と数年の人生の話。よかったら覗いていってください。


聞き分けのいい天才児

私は愛知県の、車がないとコンビニに行くのも一苦労な地域で育ちました。
何かあればすぐに近所へ伝わる、良くも悪くも半径5mの世界に興味津々な世界。今でも実家に帰れば、同級生の噂話と芸能人のゴシップを聞かされる、そんな地元が私はどうしても苦手です。
帰省をどうするか、年末の憂鬱ごとの一つです。

そんな田舎で、私は天才児として人生をスタートさせました。
というのも、幼稚園のひらがな教育の中で、他の子と比べた圧倒的物覚えの良さから、先生たちに「この子は天才かもしれない」と言われていたそうです。親から聞いた話なので多少の脚色は入っているかもしれませんが。
小学校に上がっても成績優秀なのは変わらず、高校は地元の進学校へ進み、大学もそこそこの国公立大学へ進学しました。

高校までを地元で過ごしていく中で、その後の人生に大きく影響を残した出来事が二つありました。

一つは小学生の頃。
成績が良かったこともあり、私は自己肯定感の高い子どもでした。
小学四年生になると、学級委員制度が始まり、ある程度自分に自信のあった私は同級生に勧められるがまま満更でもなく立候補し、次候補者と三倍の差をつけて学級委員に選ばれました。その時のことは鮮明に覚えています。
なぜそんな昔のことを鮮明に覚えているか、それは親に報告した際にキレられたからです。
成績がいいと親は喜びました、だから当然、クラスメイトから支持を受けたとなれば喜ばれるはず、褒められるはずと思い母親に報告したところ、言われたことは
「目立つことしないで。」
でした。
当時地元のPTA制度は、立候補者がいない場合は推薦式になっており、子どもが目立つと親も選ばれやすい、そういった背景がありました。
褒められると思ったもののキレられ、パニックになった私は、立候補したことを隠し、「推薦で選ばれてしまって仕方なくなってしまった」と咄嗟に嘘をつきました。
これが私が人生で初めて親についた嘘でした。
その後の私は、目立つことを極力避け、地味で真面目な学生生活を過ごしました。親の機嫌をとにかく気にして、機嫌を損ねないよう上手く嘘も使いました。
この経験で、私は大人の機嫌を読むことが自然とできるようになり、社会人生活で役に立ったり、逆に読みすぎて動けなくなったりしました。
最近バズっていた、小学一年生の新聞への投稿を読んで少し泣きました。(宿題をやって褒められると思って報告したら逆に勉強が足りないと怒られてしまった、という内容だったと思います。)

二つ目は中学一年生の頃。
幼稚園の時にできた、人生で初めての友達が亡くなりました。学校行事の中での事故でした。
その子とは幼稚園だけが一緒で、住んでいたエリアの違いから小学校以降は別のところに通っていました。そのため会う機会はほとんどなかったのですが、その子は決まって誕生日になると手紙をくれました。手紙が来れば返事を書かないといけない。正直私は鬱陶しく思っていました。別々の学校へ行って、お互い新しい世界があるのに、滅多に会わない人に割いている時間はない、と思っていました。なので彼女の誕生日も忘れていました。
彼女の死は、出会った人は大切にし続けるべきだということを教えてくれました。今でも私は高校時代の友人、大学時代の友人、そして前職の先輩後輩などと繋がりを持ち続けるために、会う機会を作り続けています。自ら動いていかないと、人の繋がりは簡単に切れてしまうこと、何かあってからじゃ遅いことを、私は早くに気づくことができました。
ただ大切にできなかったことも事実。まだ彼女のお墓参りには行けていません。

人生に無駄はない、と感じた大学生活

私は実家から出るため、あえて関東の大学を受験しました。
何とか合格を手にした私は晴れて一人暮らしを開始しました。
あとでわかったことですが、合格最低点だったそうです。本当にギリギリ。

私は学習よりもサークル活動に力を入れるタイプでした。
そりゃあ親の期待を裏切らないためにも必死に受験勉強したのですから、一旦勉強から離れたくなってしまうのも当然。
高校生にもなれば全然天才ではなかったので、一日十時間ぐらいは普通に頑張ってました。それが当たり前の環境にいられたのも大きかったと思います。

私は放送サークルに所属していて、ラジオ番組作ったり、映像作ったり、イベントの機材周りを担当したり、色々やっていました。
サークル以外でも、学園祭でアイドルイベントの運営をやってみたり、バイトとしてイベントスタッフやってみたり、エキストラでドラマに出てみたり、普通に接客バイトやったり、とにかく勉強以外を色々やりました。
勉強の方は単位が取れる程度にしかやらなかったのに、その他の活動はとにかくちゃんとやりたかった。勉強以外のどんな活動に手を出しても咎める人はいない。自由になったのだから、興味のあるものは何でも挑戦したかったんだと思います。
忙しかったし、睡眠を削ってなんとかすることもザラでしたが、とにかく楽しかった。そして、その後の人生に役立っていることがたくさんあります。
この先の社会人生活の話で紹介していきますね。

人が生きている音を作る

大学卒業後、私はラジオ局で働く技術スタッフになりました。
理由は二つ。
①地味で真面目な高校生活の中で、深夜の楽しみをくれたのがラジオだった
②放送サークルの活動の中で音響卓を触るのが楽しかった
割と夢見がちな理由ですが、高校生の頃からラジオ業界で働くぞ、と友達には言っていたので有言実行した形になりました。夢叶ったよ、やったね。

正直給料は安いし、泊まり勤務もあるしで親からは苦言をいただきました。「実家に帰って来れば車買ってやるぞ」は今でもよく聞く言葉です。
いい大学出て稼げない仕事を選んだ申し訳なさは若干あれど、車はいらんし、地元は苦手だし、自分の意思で生きていくことに決めていました。

私はこの仕事にとても誇りを持っていました。誰かの明日を作っている、そんな実感があったからです。
ラジオは二つの側面で人を救っていると思っています。
一つは、災害時の情報源として。
もう一つは、生きていくための楽しみや救いの場として。

災害時の情報源、というのはイメージしやすいと思います。
家を離れて避難をした際、電気をあまり食わず手回し発電でも十分に使えるラジオは、東日本大震災でも大活躍しました。
最初は情報源として、多少落ち着いた頃には心を落ち着かせる娯楽として、被災した方々の明日を作ったと思います。そして地震大国日本では、きっとこれからもそうあるでしょう。

そして、生きていくための楽しみや救いの場、というのは自分も救われた一人だから感じることだと思います。
孤独を感じた時にラジオをつければ誰かの声がする。そしてそれはリアルタイムの、生の声であることが多い。
今はSNSの発達もあって、同じ時間に生きている人がいることは感じやすいと思います。ただ、文章よりも声で聞けた方がより実感できる。また、リスナーから届くメールや、番組ハッシュタグを使った投稿から、同じものを聞いている、つまり同じ時間を共有している人がたくさんいることも感じられる。
人が死を選ぶのは一瞬です。でも十秒あれば踏みとどまれるとも言われています。たまたまラジオをつけた人にその十秒を与えられれば、もしくは次の放送を楽しみにしてもらうことで生き延ばせたら、そんなことを考えながら仕事をしていました。

途中で配置変更もあり生放送の現場から離れることもありましたが、ラジオに携わるということは24時間人が生きている音を作ることだ、と思って働いてきました。
退職してしまったものの、今でも好きな誇りを持てる仕事です。

そういえば、この仕事をしていく中で役に立った過去の経験は、
・音響
・音声編集
・大人の機嫌を読む
といったところでしょうか。その系統の仕事を選んだので当たり前といえば当たり前でしたね。


新たな夢とその喪失

そんな誇りを持っていた仕事をどうして辞めたのかというと、新たな夢が叶ったからです。

私には十年くらいずっと好きなアーティストがいて、その関連でアイドルのオタクもしていました。
その事務所にいつか入って、もっと広めるぞ!と思っていたわけです。
そもそも社員採用なんてしていなかったわけですが、履歴書送ってみたり、どんな力があったら採用に近づけるだろうかと考え、オンラインスクールでマーケティング学んでみたりしました。
そして、社員募集がかかったタイミングで上手く引っかかることができ、アイドルマネージャーになりました。

そうして掴んだ夢でしたが、たった五ヶ月で辞めました。
給与は低いし、勤怠管理なんて存在しないし、夜中でも連絡が来たら対応したり、でも正直そんな労働環境のことなんてどうでもよかったです。
みんなで続けていくためには改善が必要だと思っていたし、その提案をして大コケしたこともありましたが、このライブがあるおかげで、この音楽があるおかげで、明日も生きることを選ぶ人がたくさんいると知っていました。だからそれでもやる意味があった。
私はオタクの顔を見るのが大好きです。この日のために頑張ってきたことがわかるし、推しを目の前にすると感情が見える。スタッフとして見られる僅かな時間でも、やってて良かったと心から思える時間でした。
じゃあなんで辞めたのか、それはきっと私の愛する器が足りなかったからだと思います。人間同士、トラブルはつきものだと思います。内部で問題があったとき、事務所を愛し続けることができなかった。
仕事に誇りはあれど、この環境下で長く続けようと思える程の愛情は失ってしまった。だったら長期案件を持ってしまう前に潔く消えようと思いました。
ただ、オタクの顔を見るのが大好きなので(二度目)、ツテでチェキスタッフバイトはちょこちょこ続けています。生きる活力!

労働環境悪し、教育体制なしの環境下では、過去の経験に助けられまくりました。
ざっと挙げるとこんな感じ。
・音響
・映像編集、画像編集
・社労士の勉強してたこと(一社目の時に何となくしてた)
・アイドルイベント運営
・接客バイト
・ライターバイト(一社目の時に副業でちょっとやってた)
・納期管理(大学サークルでも一社目でも)
マーケティングの勉強は正直そこまで考えている余裕がなくて生きなかった。


やりたいことがなくなった!どうしよう

これまで夢を追いかけて、携わりたいと思ったものを仕事にしてきてしまったのでさぁ困った。
お金は全然なかったので、前職を辞めると決めた時から転職活動はスタートしました。短期集中決戦です。
とりあえずマーケティングの勉強はちょっとしたし、せっかくだからその方向で行こうかしら、と思い探し始めました。実務経験はないものの学歴はあったので書類はそこそこ通れど、どうも最終まで辿り着けない。そもそも、完全にマーケティングだけの仕事もなんか違う気がする。そう思いながら事務所に社員が出社する前を狙って(ライブが夜遅いので朝はゆったりめ)、事務所近くのレンタルスペースを借りてオンライン面接をする日々を過ごしていました。貯金もないのに経費かかりまくりです。
色んな会社の人と話をするのは楽しかったです。知らない世界が見えることは相変わらず好きです。

なんやかんやで辿り着いたのは、マーケティング職と謳いながらも実情はマーケティングはほんの一部分で、営業だったり事務だったりクリエイティブだったり、色々混ざったマルチタスク型の社会人向けスクールの仕事でした。
忙しいのが好きだし、イベントも好きだし、ルーティーン仕事は飽きるし、トラブルでテンションが上がるタイプなので自分に合っていました。
人間関係がとても良くて、裁量もある。なんか今までで一番ビジネスをしている、というか考えることが多いな、と思いながら楽しんでやっています。
前職から間を空けずに、つまり無収入の期間を作らずに入社できたのも良かった。

ただ一つ問題がありました。
誰かの生きる理由を作っている感覚がないので、どこに誇りを持てばいいのかわからない。
思えばずっと、ビジネスではないところにいました。売り上げが出るに越したことはないけれど、ラジオも音楽も届けることやそこにあり続けることが一番大事なように思います。営業部にいたら話は違ったかもしれないけど、少なくとも私はお金になるかどうかは追いかけていなかった。
これまでの仕事を、社会的意義を大事にしてきたことで、売り上げ数字を見ていると何のための仕事なのかがわからなくなってしまう。どうにも私は売り上げについて考えるのが苦手なようです。
とは言っても、自分のお金を稼ぐためにも通らないといけない道ではあると思っています。稼げない仕事では従業員の給与も上がらない。

日々色んな方と接する機会があります。でも生きるか死ぬかを迷っている人はそもそもスクールには来ないし、学習を始めることで逆に病んでいってしまう人もいる。
誇りを持てる部分をどこに見つけられるか、それを探しながらもうしばらくやってみようと思います。その先に新しい夢が見つかることを信じて。

追伸
やっぱり過去の経験役立ちまくりなので人生に無駄はない!
・音響(なんでやびっくり)
・映像編集、画像編集
・アイドルイベント運営
・接客バイト
・ライターバイト(一社目の時に副業でちょっとやってた)
・納期管理(大学サークルでも一社目でも)
・オンラインスクールで勉強してみたこと(シンプルに競合他社)
・アイドル文化知識
・人前で喋るのに抵抗がない

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