「いま・ここ」の欲望を満たすためのサブカルチャー消費の危うさ —推し・エモの行方
映画『花束みたいな恋をした』では、菅田将暉演じる主人公(の片方)の麦は就職してから好きだったはずのサブカルチャーが息抜きと思えなくなり、恋人に「もうパズドラしかやる気しない」と言い放つ様子が描かれた。同作を取り上げた三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、労働と読書の歴史を遡ることで、本が読めない理由は単に長時間労働によって余暇時間がとれないというだけでなく、人間を「ノイズを除去」した情報しか受け入れられないようにする社会に問題があるということを論じている。三宅が原因として示しているのは、新自由主義的な自己責任論の広がりによって台頭した「労働で自己実現」という夢が「全身」で労働に浸るよう人々を駆り立てていることである。この労働と余暇、労働と自己実現の問題は、読書に限った話ではない。三宅も冒頭で述べている通り、音楽でも舞台でも旅行でも「文化的な生活を送る」ことの多くが労働によって妨げられている。
三宅の議論は非常に興味深いが、新書——それも「働いていて本が読めない人」でもなんとか読めるように書かれた——というパッケージには収まりきらない考察の余地が残されている。そのひとつが、「本当に皆仕事で自己実現をしたいと考えているのか?」という問いである。
妹尾麻美『就活の社会学』では、上位大学の男子学生へのインタビューから、就職活動の間は「やりたいこと」を語る一方で内定が決まると「やりたいこと」はすっかり忘れて「〇〇歳で家庭を築き、マイホームを手に入れ、○○歳には部長になって……」と堅固な終身雇用制度を前提とした企業内部での出世や結婚・出産、マイカー、マイホームといういかにも戦後中流的なライフコースを描いていることを明らかにした。また、上位大学の女子学生は結婚、出産との距離感を考えざるを得なかったり、下位大学の学生は新卒一括採用の流れに載ることが一般的でなかったりすることも分かっている。妹尾が調査を行ったのは10年ほど前とやや古く、2013年卒、2015年卒の学生を対象としているが、当時はiPhoneが登場し「アプリを作ってベンチャー企業立ち上げて成功者になる」という「意識高い系」的な夢がまだ生きていた頃だ。労働と自己実現の機運があったとしても、それは一部の流行に過ぎないかもしれない。
しかし、それほど「労働で自己実現」を夢見ていない人であっても本は読めていない。では何が原因なのか。その答えはおそらくすぐ近くにある。「労働で自己実現したいと思っている」のではなく、「労働で自己実現したいとは思っていないのだが、そうしなければならないという不安と焦りがある」のではないだろうか。
三宅が「ノイズのない」情報として挙げるファスト教養や自己啓発書は一般に役に立つ情報として流通している。しかし、それらの情報が本当に直接的に仕事に役立つのだろうか。今日「教養のための〇〇」というタイトルで様々なテーマを扱った本があるが、そこに書いてある知識が実際に仕事で使える場面はほとんどないだろう。自己啓発書であっても、本人が受けてきた私立中高の教育とか、子どもの頃読んでいた本といった肝心の能力に関わりそうな部分は書いていない。では、本当は何のためにこれらの本を読んでいるのだろうか。
三宅も援用している牧野智和『日常に侵入する自己啓発』では、自己啓発が必ずしも自分を変えるために読まれているわけではないことを指摘している。牧野の自己啓発書購読者へのインタビューの分析によれば、「成功者を見習って自分を変え成功を掴む」ための本であるにも関わらず、実際は「自分と成功者の共通点を見つけて安心する」ために読まれているという。また、たとえ熱心に読んでいたとしてもほとんど内容を覚えておらず、その場の気分の高揚が目的になっていることも明らかにしている。
「安心」を求めているということは「不安」があるはずだ。その「不安」こそが問題の源だ。では、何に対する不安なのか。それは、「リスクに対する不安」だ。「知らないと損をするかもしれない」「いつか仕事がなくなって転職市場に投げ出されるかもしれない」といった、根拠有無や確率の高低に関わらない様々な不安が、人々に「ノイズ」を楽しむ余裕を与えないのである。
それは例えば浪人生の置かれた状況に近い。受験までの一年間、学校がなく何にも縛られず膨大な時間を勉強に使うことができるが、実際に毎日睡眠と食事以外の全てを勉強に割くことができる人はほとんどいない。というかそんな生活をしたら心身に様々な支障をきたしてしまうだろう。しかし、時には息抜きも大事だといってゲームをしたり漫画を読んだりしたとして、果たしてそれに没頭して楽しむことができるだろうか。今日参考書を1ページ進めなかったことで、他の受験生より一歩遅れたかもしれない。そんな不安を抱えていては、心を動かされるような体験はできないだろう。
浪人生であればその生活は1年あるいはもう何年かで終わりをむかえる。しかし、労働ではそうはいかない。最低でも40年、いや「老後2000万円問題」を考えればその先もずっとこの不安がつきまとうことになる。「パズドラしかできない」がそのような不安の表れであるとするならば、現代人はあまりにも不幸だと言わざるを得ない。
前回の記事では、このリスクと不安をめぐる問題について社会学者のアンソニー・ギデンズ、ジグムント・バウマンの議論を紹介し、人々にとっていかに「自己」が重要な問題になっているかについて論じた。今回は、「花束みたいな恋をした」で麦が続けられていた「自己啓発書を読むこと」「パズドラをすること」のうち、後者の「パズドラをし続けてしまうこと」の問題について、リスク社会やデジタル化という側面から考えていく。
※この記事は感傷マゾ論考集4本目です。単体でも読めるように書いていますが、リスク社会論やニッチな用語の丁寧な説明があるので背景知識を補いたい方は合わせて過去回をお読みください。
前回の記事
連載
不安を紛らわすための消費は「パズドラ」だけではない
「花束みたいな恋をした」に登場した「働いていてもできること」のモチーフは「パズドラ」だったが、その立ち位置のものは他にもある。YouTube、X(旧Twitter)、TikTok、InstagramといったSNSは真っ先に挙がるだろう。私も含め、現代人がだらだら過ごす時間につい見てしまうのはスマホである。
しかし、「リスクに伴う不安の埋め合わせ」という観点から考えると、世の中のほとんどの娯楽や文化はこれに当てはまるのではないだろうか。
なろう系と自己啓発書の共通点
今日のライトノベルやアニメの中で人気ジャンルの一角をなす「なろう系」は、ファストな消費の代表的な例といえるだろう。厳密に言葉の定義を考えると難しいが、
、タイトルが長文でほぼ中身がそのまま書いてある、「トラックに轢かれて転生」「中世ヨーロッパ風のJRPG的な世界観」「悪役令嬢」といった既存のありがちな設定を借りていて独創性よりもわかりやすいテンプレに沿っていることが重視される、「異世界転生」すると「チート能力に目覚める」か「転生前に持っていた能力が重宝される世界」だったために「無双」するという展開といった特徴が挙げられる。
タイトルだけで内容がわかる、テンプレに沿っていて独創性を重視しないというのは、膨大なコンテンツの中から「ハズレ」を引かず、短い時間で読んでも悩むことがない「ノイズのない」作品が好まれる状況への適応だろう。
そして、「異世界転生」して「無双」するという展開の裏にある欲望は、自己啓発書に表れているものと共通している。
転生した先の世界における主人公の強さは努力によって獲得されるものではない。転生と同時に超越的な力に目覚めるにせよ、能力の価値序列が変わっているにせよ、主人公は生まれながらにして「最強」になっている。これは、現実世界でいえば上流階級の家に生まれ、優れた身体的特徴をもち、物心つく頃には幼少期からの英才教育で特殊技能を持っているというような状況だ。転生前は中流あるいは下流階級の生まれで社会的に有利な能力やハビトゥスを身につけることができなかったが、努力ではなく「生まれ直す」ことによって階級移動を達成するのである。自己啓発書もまた、他人には真似できない成功者の家庭環境や人脈のような要素は書かれず、階級によって持っている資本の差やハビトゥスを無視して誰もが成功者になれるように書かれている。
そして、ありがちな設定のコラージュで作られた作品において「人生とは何か」「正義とは何か」といった大きな問いに答えることは重要ではない。「なろう系」作品を読むとき、消費されているのは気に食わない敵(多くは弱者を虐げている支配者)が倒される爽快感だ。「ビジネスの本質」よりも読んでいる最中の高揚感が重視され内容が忘れ去られる自己啓発本の読まれ方によく似ている。
作り手としての楽しみは一旦脇に置いておくとして、消費者の立場になった時、スマホの画面をスクロールしながら目に止まったタイトルの話をクリックして、さっと眺めた後に話はよく覚えていないけれどムカつく敵は倒されてよかったと思うだけの読書は人間を幸せにするだろうか。「なろう系」はその呼称自体がしばしば批判の意味を含んで使われるので、この問いは比較的受け入れられやすいものだろう。
流行とノスタルジー
ノスタルジーは今日の流行を表すひとつのキーワードだ。シティポップリバイバルから新海誠に代表されるする「エモい」青春アニメまで、それぞれ複雑な文脈はあれど大衆には「ノスタルジーを感じること」がひとつの魅力として受け入れられているものは多い。
ノスタルジーはあらゆるコンテンツに取り入れられている。今回はKPOPについて詳しくみてみよう。しばしば最先端の流行として紹介されるKPOPだが、実はノスタルジーとの結びつきも非常に強い。その代表的な存在であるNewJeansは日本の90年代~00年代カルチャーを取り入れたコンセプトで人気を博した。彼女たちの作品(というかミンヒジンのプロデュース)はよくY2Kリバイバルと評されるが、実際にはどちらかというと平成レトロのほうが近い。そもそもY2K自体は2000年代のアメリカのセレブによるファッションのっ流行を指す言葉だったが、今日では日本においてはY2KというとNewJeans的な90年代から00年代の日本のファッションやサブカルチャーの再解釈を指すほうが一般的になっている。
このKPOP的なY2Kリバイバルは、最近1グループの活動方針に留まらずひとつの流行になりはじめた。その流れで、ノスタルジアを感じる様々な要素がこの中に取り込まれている。
New Jeansが提示した代表的なモチーフはやはり制服と古いビデオカメラで撮った粗い映像だろう。DittoのMVは驚くほどに日本の学生像、青春像に対する理解が深い。私も初めてこのサムネイルを見た時は日本の青春を歌ったバンドか何かだと思ったのだが、クリックしたら軽快なJersey Clubがはじまって驚いたのを覚えている。
aespaは以前もKPOP的なY2Kを扱ったことがあるが、最近出た新曲の「Hot Mess」は少し方向性が違う。MVは冒頭からどう見てもエヴァやガンダムを意識しているし、本人たちはギャルっぽい恰好をしていて、終盤のアニメはどこかセーラームーンを感じさせる(色々詰め込みすぎてどれとも決定的に似てはいないが)。
ボーイズグループでは、RIIZEが積極的に同時代のモチーフを取り入れている。制服姿を披露した「Love119」のMVは学生×宇宙的なSFといういかにも「君の名は。」らしいモチーフで、1st Mini Albumの「Impossible」のビジュアルイメージは同じく90年代~00年代の近未来的な流行である「Gen X Soft Club」に基づいていた。また、「One Kiss」やドラマの主題歌にもなった「Same Key」は明らかに嵐などの00年代のジャニーズを意識している。
なぜKPOPを取り上げたかというと、これらのコンテンツが日本で受け入れられているだけでなく、日本のコンテンツにおける青春像にも影響してきそうな兆しを見せているからだ。青春像の代表格ともいえるポカリスエットのCMに、今年は有名KPOPアイドルの撮影をいくつも担当したソン・シヨンが関わっている。ピクセルアートも印象的だが、実写部分はまさにNewJeans「Ditto」のようないい意味で画質の悪い古ぼけた映像だ。夏篇のARで実写映像に3DCGのキャラクターやオブジェクトが登場するのも、取り上げた3組もやってきた手法だ。2016年の「エール篇」のような大人数が制服で踊る映像とは大違いである。
KPOPアイドルが、特に日本向けコンテンツにおいてこれほど90年代~00年代の要素を取り入れるのは、多くのファンが子ども時代を過ごした時期だからだ。10代後半から20代のファンが幼少期に触れた作品や過ごした生活を呼び起こすような表現は親しみやすさを感じさせると同時にノスタルジーを喚起する。
ノスタルジーを呼び起こすことが商業的戦略として有効なのは、それが多くの人に共通する欲望だからだ。その理由はいくつかあるだろう。例えば一昔前のテレビ番組やゲームは今日よりも趣味の細分化、フラット化が進んでいない時代であったためにより多くの人が共通体験として知っているかもしれない。その時代を生きていた人であれば、2020年代のヒットチャートよりもスピッツやAKBのほうが認知度は高いだろう。
そして、前回も扱ったようにノスタルジーは今日多くの人々が抱えるアイデンティティの問題と結びついている。後期近代社会においては伝統社会や前期近代社会のような堅固な価値基準が存在せず、アイデンティティは再帰的に確認され選び取られた自己の来歴になる。アイデンティティの本質である自己の連続性は脅かされた時、人々は存在論的不安に陥る。そんな時、ノスタルジーに浸ることは自己の連続性を再確認してアイデンティティを安定した状態に戻す働きをする。(詳しくは前回の記事で丁寧に説明しているので、そちらをお読みください)
今日の社会の変化は凄まじく速いため、物事を反復することは少なく5年前とは全く違う生活をしていることのほうが普通になっている。2010年を生きる人に、今後10年の間に震災と原発事故が起こり、世界がパンデミックで混乱に陥ってリモートワークやオンライン授業が当たり前の世界がやってくるなどと言っても信じないだろう。そのような環境では、現在の自己と過去の自己は全く違うように思われても仕方がない。自己の連続性が脅かされやすい現代において、ノスタルジーに浸りたいという思いは単に時折昔を懐かしむ以上に抗いがたい欲望なのだ。
「推し活」は本当に「熱心な消費」なのか
ここ数年で「推し」という言葉はすっかり浸透した。好きな対象を熱心に追いかけるファンの姿は、経済的にも文化的にも注目を集めている。
「推し活」をする人は一般に趣味に生きているようにみえるが、そう単純な話ではない。
好きな人を「推す」理由は対象に惹きつけられることだけではない。意外にも「簡単に切り捨てられること」が重要なのだ。ユリイカ2020年9月号『女オタクの現在 ——推しとわたし』では、そのことに触れているエッセイがいくつかある。声優の悠木碧は「推しと俺」の中で、既婚オタク女子の友人の「子供と旦那には責任を感じるが、推しはただ愛していればいい」という言葉を受け、オタクとは「最終責任を自ら負うことができないにも関わらず、その対象に熱中できる人」と結論づけている。また、綾奈ゆにこは「推し依存症」の中で、はじめての推しであるアイドルが卒業後声優としてデビューし、同じ業界の人となったときのエピソードを語っている。綾奈は自分の関わった作品に起用するなど仕事で関わることも考えたが、推しがコネ採用だと思われるなど不利益を被るリスクを考えそうしなかった。最終的には、アイドルと違ってシステム化されたお金の落とし方がないため推し方がわからず、推すこと自体を「卒業」してしまう。結局のところ「推し」とは、「お近づきになる」ことで発生するリスクを心配せず、安全なところから勝手に好きでいられる存在なのではないだろうか。
また、ファンだからといって推しのコンテンツを深く理解しようとしているとは限らない。ここでもKPOPアイドルを例に出そう。未熟さを愛する傾向のある日本のアイドルと異なり、KPOPアイドルは完成されたコンセプトとパフォーマンスを披露することを重視している。CINRAによるアンケート結果をみると、アイドルにも関わらず容姿よりパフォーマンスで評価していると考えている人が多い。
そのため、制作側も可能な限りクオリティを高めようと努力している。先程紹介したNewJeansのように、様々なカルチャーを引用しながら細部までこだわりを持って作品やパフォーマンスが作り上げられている。
しかし、ファンがその意図を汲もうとしているかといわれると、そうとも限らない。「推し活」をする中で音楽やファッション、ダンスについての知識がつくわけではなく、元ネタを理解したり推しの表現を通じて新しいカルチャーを知っていくことはあまりない。例えば近年のKPOPでよく採用されるハウス、2Step、Jersey Clubは元のジャンルでいえばそれなりに離れているのだが、KPOPアイドルの楽曲として似たような音色やテイストで提示されるとその違いは意識されず「似た曲」として挙げられる。また、制作が意図したコンセプト通りであったとしても、その意味が簡単に理解できないコンテンツについて深く考えることはない。以前RIIZEが出した生成AIを用いた映像のコメント欄は、批評や考察ではなく非難の嵐だった。
ではファンは何を消費しているのかというと、結局のところ容姿も人格も良い「推し」のかっこいい姿を見たときに湧き上がる感情、大勢の人々がリリースやイベントのために動いていて、自分もそこに参加しているという高揚感、一体感、熱狂といった情動なのではないだろうか。
没頭しているようにみえる推し活も、実は「リスクを負わない」ことが鍵になっている。推しの表現がどれほど意味深いものだったとしても、それについて深く考えたり新しいカルチャーと出会ったりすることにはあまりつながらない。「推し消費」もまた、ファストな消費としての側面が強いと考えられる。
「消費の殿堂」と文化
現代的な文化消費のあり方の多くが実はファストでノイズレスなことをみてきたがこれは流動的近代においては自然な流れである。バウマンは『リキッド・モダニティ』の中で、今日の消費が絶えずその瞬間の欲望を満たすものになっていることを指摘している。
バウマンは、現在の消費社会をうごかす精神は具体的必要性ではなく欲望だという。欲望は一時的で変化しやすく、根本的に自己完結的で、正当化も理由もいらない自己発生的、自己推進的である。それゆえに、欲望が消えることはない。
堅固な伝統や秩序、規範が溶解し「こうするべき」という道筋が示されなくなった流動的近代においては、何をやっても間違いということはないが、何が正解かもわからない。そうなると、欲望は一時的に満たされたとしても、果たしてこの選択は正解だったのかという疑問が生まれる。そのため、満足感は長続きせず、次から次へと新しい処方箋を求めることになる。
その瞬間ごとに移り変わる欲望に答えてくれるのは消費の世界だ。消費は対価を支払えばすぐに結果を得ることができる。労働や学問、芸術といった長期的な努力を必要とする世界ではそうはいかない。消費の発達によって結果が速く手に入る用になるほど、束の間の満足はより短くなり、際限のない消費の競争に駆り立てられることになる。
そして、今日においてはアイデンティティもまた消費によって作り上げられている。
ギデンズが言ったように、アイデンティティというのはあくまで再帰的に確認された来歴であり、過去のなかから任意の点同士をつなぎ合わせて見出したひとつの線である。ゆえに、自己はひとつの流れのように感じられたとしても、点の選び方や繋ぎ方次第で何通りもの自己を作り上げることが可能であり、絶対的な統一性があるわけではない。ことあるごとに行われる自己の確認作業のたびに自己は再度構築される。しかし、私たちはそこに固定的な自己があるように錯覚してしまうのである。
どのような自己を選択するかということについて、私たちを縛るものはほとんどない。身分や性別、人種、よき国民などの属性と結び付けられた規則や規範は解体され、人々は自由を手に入れた。
その自由の中で、一過性的なアイデンティティをつど形成するための近道は消費だ。バウマンが「アイデンティティのスーパーマーケットで「適当なものをみてまわる」こと」と表現したように、その場の理想の自己を現実的な形でものにする手段は「買い物」である。自由であることは、消費への依存によって成立している。
しかし、これはほんとうの意味での「自由」ではない。消費のあり方はメディアが供給するイメージや商品を販売する企業の都合に左右される。生産にかかる費用を回収するだけでなく無限の拡大を志向する資本主義の中にある企業は、言うまでもなく「儲かること」を理由に動いている。
消費が人々の実存と結びついていることは、ファストな消費によって利益を得ている人々にとって好都合だ。次から次へと新しい欲望を喚起したり、存在論的不安を煽ったりすることによって、膨大な需要を作り出すことができる。しかも消費者は一時的にしか満足しないので、一度顧客となった人が繰り返し金を落とし続けてくれる可能性は高い。ファスト映画から仕事・学歴・恋愛のコンプレックスを刺激するYouTuber、過剰な複数買いを黙認あるいは推奨するアイドルに至るまで、そのようなビジネスは自覚的かどうかに関わらず様々な形で存在している。これが健全なあり方でないのは明らかだろう。
実存をかけるほど「ファストな消費」になっていく
かつては文化にのめり込むということは、一見無駄と思えることにリソースを注ぎ込めるという意味をもっていた。何かリターンがあるわけではないが、面白いと思えることに金や労力をかけられるというのは余裕の表れであり、一種のステータスとして機能した。
しかし、短期的な欲望を満たすことが消費の目的となった今日では、その時々の欲望を満たすことに必死であるほど文化にコミットするようになる。そして、欲望を満たすことに一生懸命になる理由は単に快楽主義的な価値観を持っているかどうかではなく、不全感、アイデンティティの危機からくる不安や焦りであることが多い。消費はしばしば喜びのためではなく逃避や不安の解消ために行われる。
サブカルチャーにのめり込んで行き着く先が、現実から退却して感傷に浸り過去の記憶に縋りながらアイデンティティを保つことや、推しのために借金してまで破滅的な消費をすることだとするならば、それは手放しで推奨できることではない。文化が人生を豊かにするものであり続けさせるためには、こうした問題と向き合っていく必要がある。
デジタル化がもたらした文化消費の変容
バウマンが2000年に指摘していた消費の中毒とも呼ぶべき状況は、ここ数年で多くの人が実感できるほどに進んだように思われる。背景にはリスク社会があるのだが、その傾向を現実的に可能な形に落とし込んだのはここ30年の間に進行した急速な情報技術の発達だ。高速なインターネットやコンテンツの推薦アルゴリズムなくしてファストな消費やノイズのない消費はできなかっただろう。
芸術的な表現を指す狭義の文化、特にサブカルチャー(ポピュラーカルチャーといったほうが良いかもしれない)はとりわけデジタル社会に適応しやすかった。音楽や写真、イラスト、映像は実体を伴わないデータとして流通可能だからだ。レコードの価値がある部分は塩化ビニルの円盤ではなく溝の形だったのだ。実際にはキャンバスの素材のように物理媒体が作品に影響を及ぼすこともあるが、そうでないケースのほうが圧倒的に多い。
アクセスが簡単になるということ
インターネット上でデータを流通させるようになったことで起きた一番の変化は、アクセスが容易になったことだ。人々はより速く、より多くの情報に触れることができるようになった。
音楽を例に考えてみよう。インターネット登場以前は、雑誌やラジオで気になる音楽を見つけたとして、それをその日のうちに手に入れることも簡単ではなかった。アーティスト名やCDのタイトルをメモして、翌日CDショップを訪れて購入する。都市部に住んでいなかったり、マイナーな作品で棚置いていなかったりするならばさらに待たねばならない。一方ダウンロード販売やサブスクリプションサービスの登場以後は、深夜でも出先でもインターネットさえ繋がればいつでもアクセスすることができるようになった。
量という側面から言えば、店でも家でも棚の容量を気にする必要がなくなった。今日の書店がそうであるように、実店舗では限られた棚の容量の中で可能な限り人目につきやすいスペースを膨大な作品が奪い合う。当然無名なアーティストの作品は置かれず、リスナーにとっては出会う機会すらない。リスナーにとっても、家の棚に収まりきる範囲で買うCDを選ばねばならない。ダウンロード販売はこうした物理媒体が占有するスペースの問題を解決しただけでなく、流通コストの低下や原材料費のカットにより音楽の値段そのものを安くし、個人の可処分所得で購入できる音楽が増えた。今日ではYouTubeやサブスクリプションサービスによって、無料から月額1000円程度で数億曲の音楽に自由にアクセスすることができる。
この変化を一言でまとめると、音楽の聴取の形は「所有」から「参照」になったということができる。井手口彰典『ネットワーク・ミュージッキング』では、「参照」の消費が「いま・ここ」の欲望と結びつけられることを指摘している。
同書が出版されたのは2009年なので、実例として挙げられているのは「着うたフル」だ。2005年の春に放送されたauのCMには、動物園デートをする若い男女が登場する。男のほうがニヤニヤしながら携帯電話を操作しているのに対し彼女が怒り出すのだが、実は彼氏は彼女に聴かせたい音楽を「着うたフル」でダウンロードしていたのだ。その後登場する売り文句は、「いつでもどこでも、着うたフル」「音楽は場所を選ばず」「一曲まるごとダウンロード」である。
井手口は同時に「いま・ここ」で聴きたい音楽をダウンロードする男は、その曲を後に反復して聴くことを念頭に置いていないことを指摘する。「いま・ここ」で聴くためにサービスを利用するということは、「いま・ここ」で聴かないのにサービスを利用することもないということだ。これは、バウマンが指摘した消費がの満足感は一時的で、次の瞬間には新たな欲望が絶え間なく現れては消えていくことの問題と重なる。デジタル化は満足と不満足のサイクルに追いつき、その速度をさらにはやめたのだ。
2024年現在では、CMに登場した男が音楽をダウンロードする時間はもはや存在しない。定額制のストリーミングサービスでは、購入手続きもダウンロードも必要ないからだ。20年前に萌芽を見せていた「参照」の消費はすっかり現実のものととなったのである。
「鑑賞」よりも「遊び」
スコット・ラッシュ『情報批判論』によれば、テクノロジー的生活様式において文化は言説や文脈を伴わずただ現前し、その消費は「鑑賞」ではなく「プレイ(遊び)」であるという。
「鑑賞」に必要なのは時間的・空間的距離である。私たちは名画を観る時、近づいたり遠ざかったりしながら「どのような背景や意図があるのだろうか」「この絵を美しいと思えるか」「なぜこの絵は評価されているのか」といったことを考えながら時間をかけて眺める。絵画以外でも、例えばクラシックのコンサートを観に行ったり、単館上映の映画を観に行くときにはパンフレットを買って楽団や監督、作品についての背景知識を入れ、深く考えながら観るだろう。
ストリーミングサービスの自動再生で流れてくる音楽を聴くとき、次に再生される音楽はプラットフォームのおすすめ機能によって選択され、曲名もアーティストもよほど気になって調べることがなければ知らないまま過ぎ去っていく。表現の意味についてあれこれ考えたりはしない。ただ心地いいか、気分が高揚するか、ノレるかといった「快/不快」のレベルでしか良し悪しは判断されず、反省的判断、美学的判断を伴うことはない。だからこそ、そのような聴き方はその瞬間の快楽に身を委ねるだけの「プレイ(遊び)」なのだ。
こう説明されると、鑑賞的態度を持ち合わせているのは一部の評論家やアーティスト自身だけではないかと思われるかもしれない。しかし、以前は多くの人が当たり前にしていたはずだ。例え雑誌に載るような難しい言葉で説明できなくとも、時間をかけて良し悪しを判断することは必要さえあれば誰にだってできる。
かつて人々に「鑑賞」を可能にしていたのは、皮肉にもデジタル化が取り払った様々な障壁だ。まだ作品が物理媒体に縛られていた頃、文化消費には様々なリソースの制約があった。限られた予算で、限られた棚に収まる範囲でCDを購入しなければならないので、気になったとしても買えないCDが必ず出てくる。ゆえに、自室の棚に並んでいてほしいCDは何かというのは切実な問題だ。1枚のCDを買うために雑誌に載った評論家のコメントを読み比べ、ラジオで放送された1コーラスからアルバムの全体像を想像する。店に赴いて買うまでの待ち時間こそが「鑑賞」だったのである。
もはやサブカルチャーは人生を賭けるに値しない
膨大なコンテンツに簡単にアクセスできることは、さらに文化のフラット化をもたらした。今日でも音楽の好みを表明することで自分自身を表すことが全くなくなったわけではないが、その機能は大きく減退している。
皆がプラットフォームのおすすめで音楽を知るならば、渋谷のレコードショップに通える距離に住んでいることや労働者階級としてのアイデンティティをもっていることはもはや聴いている音楽と関係がない。上流階級から大衆まで同じEDMで踊っている世界では、互いに自分の肩入れするジャンルでマウントを取り合うことはないが、そもそも音楽自体がその瞬間の快楽を満たす以上の価値を見出だせないどうでもいいものになってしまうのだ。争いがなくなるのはいいことに思えるが、同時に価値も減少している。
瞬間的な欲望を満たすという意味では何かひとつのものを掘り下げるよりもその時の気分に合わせて好みをとっかえひっかえするほうが都合が良い。そのような消費の仕方では、飽きることなく、自分自身にとって長い間かけがえのない存在であり続ける作品やアーティストを見つけることは難しいだろう。
いかにして人々に「本を読ませる」か
ここまで様々な文化消費がファストでノイズのない形を志向していることを確認してきた。そして、それは人々の欲望やアイデンティティと結びついていて必ずしも豊かさをもたらすものではなく、時に不安や焦りを利用した搾取にもつながりかねない危うさを持ち合わせている。長期的にみて人間が幸せになるためには、その場の感情に振り回されるのではない理性的な消費にシフトしていく必要がある。
プラットフォームの「おすすめ」を自動再生し続け、曲名もアーティストも何一つ覚えていないという聴き方や「推しのため」といって買ったCDをイベントの抽選券以外は触りもせずにメルカリに出してしまうような消費は果たして人間を幸せにするだろうか。この問題を解決するためにすべきことは、これらを「最先端の流行」としてもてはやすのではなく、オルタナティブな楽しみ方を提示し実現可能な形に落とし込んでいくことだ。
きっかけとしての「推し」「自己」
では、どうしたら鑑賞的態度で作品と接しノイズを楽しむことができるようになるだろうか。ファストな消費は社会のあり方の問題なので、環境を変えずに個人の力だけで欲望に抗うことは難しい。だからこそ、強い動機として機能している「推し」「自己」をきっかけに少しずつノイズに触れていくのが現実的なやり方ではないだろうか。
ここまで「推し」や「自己」に専心することを批判してきたが、アイドルを好きになることやノスタルジーに浸ることの全てが悪いわけではないし、それらのコンテンツがとるに足らないものだといっているわけではない。むしろ、作り手は消費者が気づこうが気づくまいが細部までこだわりを持って作品を作っていることがほとんどだ。KPOPアイドルの幅広いカルチャーの要素を使いこなす精緻なコンセプト、アニメ映画がもつ文学的な表現、ロックやヒップホップを生み出した社会背景、出会えていないだけで「ノイズ」や「外部」は既に目の前に存在している。
三宅はこれまで度々「推し」を語りたいという欲求を利用することで「ノイズ」と出会わせようとしてきた。noteのYouTubeチャンネルに上がっている動画「書評家の三宅香帆さんに、"推し"の魅力を伝える文章の書き方を学びます!」では、「推し」を説明するために共通点をもつ他ジャンルと結びつけることを推奨している。そこでおすすめとして挙げられているのは海外文学やスポーツあるいは同ジャンルの古典だ。また、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』は文章がうまい作家や学者、タレントから書き方を学ぶという内容で、文章がうまくなる過程で様々な書き手との出会いが起こるように作られている。
「推し」は誰にでもいるものではないので、おそらく別の回路も必要だ。そこで前回の記事で提案したのが「自己」を掘り下げる方法である。「感傷マゾ」というジャーゴンに共感した人々がサークルを作って「なぜエモいと感じるのか」「何をエモいと感じるのか」といった自分の感じたことについて知るために様々な文化について深く考え同人誌を作るに至った。「なぜこれを美しいと思うのか」という問いは、突き詰めれば美学に繋がっていく壮大な問いである。外部と結びつけて自己を語るならばそれはノイズのある消費にも繋がっている。
人生を賭けなくても「ノイズを楽しむ」ことはできる
仕事で忙しいのに、時間をかけて文学や芸術を学んでいくなんてできないと思うかもしれない。しかし、そう気負う必要はない。楽しむために必要な学びの時間は人生を賭けるほどではないし、必要な知識も苦痛を感じながら詰め込むものではないからだ。
例えば釣りや編み物は休日の趣味として成立している。魚は網でとった方が効率がいいし、服は機械で作ればいい。しかし、楽しいから人は釣り糸を垂れ、編み棒を動かすのだ。
釣りは長時間かけてもなかなか成果が出にくい趣味である。何度もやる過程で餌を変えたり場所を変えたりしながら試行錯誤の末にだんだん上手くなっていく。編み物も同様に、はじめたてのうちは編み目が揃わずいびつな形になるかもしれない。だが、いくつか作品を完成させるうちにコツをつかんで道具の扱いや体の動かし方を覚えていく。
こうして楽しみながら得た自然についての知識やものづくりの技術は専門家には及ばないかもしれない。しかし、それこそが自分と世界をつなぎより広く世界を見るためのレンズになる。苦労して覚える楽しみ方は、その分リターンも大きい。このことに気づくにはまず一回やってみるしかないだろう。
音楽や映画といった文化消費において、「何度も釣りをすること」にあたる訓練はなんだろうか。「自分もつくってみる」は間違いなくひとつの解だが、それなりにハードルも高い。もっと簡単なのは、気になったアーティストや作品について深く調べてみることだ。ミュージシャン、イラストレーター、映画監督、俳優、どの職業も「就活」をしてなるものではない。未だに正社員として就職することが「標準的」とされている中、彼らは「社会人」の枠の外側で生きてきた。ゆえに、多くの人にとって好きなアーティストの人生を追うことは全く異なる生き方があることへの驚きを伴うだろう。そして、そのアーティストが何を見聞きしてどのように作品を作ってきたかうぃ知れば、自然に社会と芸術のつながりに気づき、先人たちが積み上げてきた歴史に触れることができるはずだ。
そのような文化消費を可能にするためにはメディアが重要だ。デジタルプラットフォーム上で音楽や映画やイラストに触れる時、作品を知るのと作品を視聴するのは同時である。ゆえに、作品が載っていないのにそれについて語っているメディアは介在する余地がない。だからこそ雑誌の影響力は皆無になっているのだが、作品と距離をとって深く掘り下げるために必要なのは売り文句ではない第三者による議論や評価だ。単なる情報の寄せ集めというだけでなく、作品をあれこれ分析的に読み解いて議論することに人々を動機づけるという意味で「雑誌的なもの」を復権させる必要があるだろう。
おわりに
推しやエモといった今日の流行をことごとく批判してしまったが、私は日々の楽しみに水を差したいわけではない。音楽、映画、小説、あらゆる「文化的なもの」が与えてくれるものを知っているからこそ、それに夢中になることで人間が不幸になったり搾取的なビジネスに利用されたりしてほしくないだけなのだ。その場の感情や欲望に振り回されて疲れてしまうのは「娯楽」としても本末転倒だし、閲覧数だけが増えていってだれも中身を読もうとしないなら作者が浮かばれない。その現状を変えていくための一歩として、文化を享受することの楽しみを維持するためには社会も自分も変えなければならないということが伝えられていたら嬉しい。
参考文献
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三宅香帆,2024,『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』,集英社
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