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後日談

この記事は続編です。ここに至る経緯はこちら
前記事  自分史 自業自得と時々外されちゃう梯子⑦


ここからは前記事の後日談になります。
※少しショッキングな描写もあるかもしれませんが、僕の中で大きな出来事だったのは間違いないので語ろうと思います。前の記事と次の記事にはやんわりと繋がると思うので、苦手な方は飛ばしていただいて問題ありません。


それではどうぞ。


僕の自宅は運良く津波が到達せず、地震のダメージだけの半壊で済んだ。ドアの立てつけが悪くなったり、場所によっては扉が開かなかったりするが家が無くなるよりは随分マシだ。いや、家族全員が無傷なだけでこれ以上望むのは、欲張りすぎだ。

電気、ガスなどのインフラがまだ復旧していない頃、まだガソリンが手に入らなかった。大学は休み、アルバイトも休み、ガソリンも貴重。つまり、自宅にいるしかない。

身近な親族や現在の友人の安全が確認されていく中、次に町の様子と旧友の安否が気になった。というのも、町内の消防団に属してしていた父親は被災後すぐに招集され、人命救助、捜索に駆り出されていたが、日に日に疲れ切って帰ってくることがすごく気になった。

どれだけ酷い状況なのだろうか。僕はその光景を知らない。生まれ育った故郷が、思い出のある場所がどうなっているか知りたかった。震災直後は規制線が張られ一般人は立ち入ることが出来ない状態となっていたが道路の瓦礫撤去が終われば入れるようになると聞き、少しでも早く動ける可能性を考えて市役所で募集していたボランティア活動に登録し、その時を待った。


しかし、存外早くその時は来た。あの日、津波が到達しきった鈍くキラキラ光る地平線を見ながらUターンさせられた道路が開通していた。
正確には道路だけが通れる状態であり、脇道には瓦礫、瓦礫、瓦礫。
鉄骨だけになった2階に綺麗に飾ってあるクルーザー。道路の真ん中に鎮座している大型漁船。コンビニの中には3台も車が入店している。広い田畑にはフリーマーケットのように並べられた黒い石、墓石だ。
海なんかまだまだ見えない距離なのに。

母校の小学校の体育館には、個人が特定できるものが膨大に集められていた。特に多かったのはランドセル。無造作に置かれた泥だらけの赤と黒の塊が印象的だった。

その中で旧友の卒業証書を見つけた。特別に仲良くしていた女の子ではなかったけれども、卒業後何年も会っていないけれども、気付いたらなぜか引き取ってしまっていた。直感的にそうするべきだと思えた。

避難所も徐々に秩序が安定してきたのか、元々住んでいた地域ごとに人の移動もあり、容易にその子の両親のところへはたどり着いた。

僕は卒業証書を手渡す。

その子はまだ行方不明だそうだ。

何か情報があったら連絡するため、連絡先を交換した。
僕の慣れ親しんだ町は決して大きくはない。場合によっては、幼稚園から中学校までの長い付き合いの友人も多くいたので、お互いの親御さんの顔は何となく分かっている。段ボールで分けられた居住スペースに友人の親御さんの姿はあるのに友人達がいないのも見かけた。もちろん、僕らもいい年だ。3月の平日なんて、社会人なら仕事しに町外に出ていることもあるだろうし、一人暮らししながら学校に通っているなんてことも考えられる。そもそも、トイレやタバコで今居ないだけかもしれない。今そこにその人がいない言い訳を勝手に積み上げる。僕は逃げるように避難所を後にした。


それから程なくして、卒業証書を手渡した親御さんから連絡があった。
友人が見つかったらしい。指定された場所へ向かうと、そこには整然と並ぶ棺とすすり泣く声で溢れていた。これ以上にないくらい淀んで息が詰まる空気。
顔を見せてもらうと、確かにその子だった。瞼こそ閉じられているが口元は苦しそうな表情に歪んでいた。

葬儀は順番待ちになっていて2週間後になってしまうらしい。親御さんにお礼をし、葬儀の日程と場所を聞き、その場を去ろうとすると、突然写真は持っていないかと聞かれた。

残念ながらその子とはプライベートでの関わりがなかった。まともな写真なんて持ってはいるはずがなかった。しかし、中学校の卒業アルバムならというと喜んでくれた。

「写真も何もかもなくてが流されてしまって。何もかもが。」

この一言で僕は何も言えなくなってしまった。
この親御さん達は突然住む場所が無くなり、娘が亡くなった上で気丈に出来ることをしようと藻掻いている。それなのに死者を弔うことすら満足にできない。なんてことだ。

結局、卒業アルバムは親御さんにあげてしまった。今まで碌に見返したこともなかった僕が持っているよりも有意義だと思ったし、僕はこれからも見返すことはないだろうし。
その代わり、他に同じような親御さんが居たら協力してあげてくださいと言うと快諾してくれた。


後に同じように遺体安置所に行く機会は何度かあったが、どうやら五体満足の状態で見つかることは幸せなことらしい。車や建物の瓦礫と同じ洗濯機に放り込まれるようなものだから、想像に難くない。歯形が一致したという理由で変わり果てた姿の亡骸を、現実を、受け止めざるを得ないこともあった。

感情論で言えば、今だってそんなの納得できねえよ。
とはいえ、誰もが異常な事態、非常な事態の中にいたことは間違いない。
皆、必死で藻掻いていた。どうすれば、どうなれば、納得が出来たのだろうか。今でも答えは出ない。そして、これからも。

飲み込んで前向いたフリして、納得しないで生きていくんだ。
こればっかりはそれでいいんだと。
本当はずっと前に誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
でも、僕はずっと胸に秘めてきてしまった。周りに気付かれることなく今まで騙し通してきてしまった。おかげでこんなにも遠回りしてしまった。

次からはもっと近道することにしよう。

つづく

~~~マガジンにまとめてみました~~~
自分史 自業自得と時々外されちゃう梯子


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