自分史 自業自得と時々外されちゃう梯子⑩
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大学生時代編ダイジェスト(1850字)
・ 東日本大震災を経験 ⑥~
・ 順調過ぎると思っていた就職活動
紆余曲折を経て、書籍出版を目指す研究室の一員となった僕。
通常は大学3年になってから卒業論文の制作を始めるというのがスタンダードなようだが、テーマが自然災害ということで物的状態、心理状態はなるべく日が浅い方が正確な状態を図れるという判断の下、2年生の秋にはプロジェクトとして始動していた。国からの研究補助金もあり、移動費(高速代、ガソリン代)の一部で補助を受けながら、とにかく被災地へ通った。
大まかな概要としては、研究室生である10人以上でプロジェクトチームを発足し、東日本大震災で被害を受けた地域をテーマに学術論文を持ち寄り、准教授の名前で刊行するという内容だ。もちろん学生である僕らには印税は入ってこない。しかし、その代わり卒業論文としての提出を認められるというメリットもあったせいか、様々な思惑を持ったメンバーが揃った。
卒業論文が早く書き上げられるというので就職活動に専念出来そうだと考える人、在学時に有名になりたい、大きなことをしたいと考える人、なんとなく面白そうだからという人、友人が入ると言っていたからという人など。
僕の思惑は復興の過程で無くなってしまうかもしれない故郷の名前を残すこと。
東日本大震災から半年ほどでは、復興への目途が立っていない地区も多く、基本的にアポイントなんて取れる状況ではなかったので、飛び込み調査がメインだった。そのため、片道2時間かけて成果が得られないこともよくあり、確かに大変な作業ではあった。せっかく話を聞かせてくれるという対象者を怒らせてしまうことも日常茶飯事。それなりに覚悟が必要なプロジェクトチームではあった。
残念ながら、浮ついた下心で参加していたメンバーは途中で脱落していく中、とにかく地味な作業が続く。
遠方まで何件も飛び込みで話を聞きに行き、成果があれば研究室へ帰り、録音した音声をWordで文字に起こしまとめる。そして、准教授や先輩、同期の助言から各々のテーマを深堀していく。そして論理的に足りない情報があれば、穴を埋めるように論文を読み漁り、それでも足りなければ、再び現地へと足を運ぶ。
気付けば、最終的な刊行に至るにはプロジェクト立ち上げから2年以上掛かってしまった。
僕らの手元に本としての形で届くのは卒業間近になってのことで、
一般の書店に並ぶのは卒業した頃になるだろうということだった。
手探りで立ち上げたプロジェクトゆえの方針転換も多くあり、難儀したことは数知れず。しかし、それでも僕は目標を達成した。
この経験から僕は一つ誇れることがある。
僕らから始まったこのプロジェクトが代々受け継がれており、後輩たちの道しるべとなれたことだ。僕らが必死に生きてきた震災から月日が経つことで初めて見えてくることもあるということが年下の彼らと話をして思ったことだ。
2020年春 残念なことに恩師である准教授は、母校の関西の大学へ行くこととなった。准教授は若いこともあって単純に栄転だった。
そして、もう一つ。僕らの巣立ったキャンパスがそう遠くない将来に無くなることが決まった。(正確には統合?)
そこで2020年の現在猛威を振るっている新型コロナウイルスが取り沙汰される少し前、歴代の研究生や現役生たちで送別会を開いた。
僕は再び大切なものを失うことになったのだが、プロジェクトをやり切って本当に良かったと思う。僕等が確かにいた証を残すことが出来た。
送別会も終盤。歓談の場が設けられる。思いで話にも花が咲く。
僕らから上の世代はこの准教授にしてこの学生あり、と言った癖の強い先輩方ばかりだったが、僕らから下の世代は真面目で優秀な学生ばかりで毛色が変わったようだ。震災以前はどちらかというとはみ出し者や変わり者のマイノリティが集まる研究室だったらしいが、僕らのプロジェクトに感化された学生も多く集まったと聞く。
こんなに嬉しいことはない。
そこへ一人の後輩であろう女の子がやってきた。
『私も書いたんです。読んでもらえました?』
流石に後輩たちの書籍を全部読むことは出来ていなかったのだけれど、どの地区でどんなテーマなのかはすごく気になった。
君は一体どんな地区で揉まれて、どんなテーマで書き上げたものか教えてくれる?
彼女はゆっくりと語り出す。
彼女が口にした町の名前は……
つづく
~~~マガジンにまとめてみました~~~
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