今ここにある生命を喜ぶ
強がるのは 弱さを受けいれてないこと。
強がるたびに 気づいて
自分の弱さを知っていく。
弱さとは、
自分の許せないところ。
認めたくないところ。
あることを あるとしたくないところ、、
ないことを ないとしたくないところ、、
弱点や弱みは 攻撃されたくないところ。
護りたいところ。
不安や心配の元となる部分。
それは、
これは こういうもの、とか
こうじゃなきゃ 恥ずかしい、とか
こんなことでこんなふうに思われたくない、とか
もっとこんなふうなら いいのに、、とか
そうである自分では、嬉しくないこと。
それは、世の中からそう思わされてきたのか、トラウマのようなもの、とか、認め許したくないような、、目を逸らしたいような、、
そんな部分。
それは、目を逸らすほど
つまり あーだこーだ正当化や自分を誤魔化すほど
苦しい現実を創造していく。
つまり、
悩みや心配や嬉しくない出来事が起こる。
身体や心の不調や歪みの元となる。
だから、
敢えて ちゃんと見てみよう。
見たくないところをみると、
やっぱりそれは 痛みを伴うのだが、、
痛みの先に 安心と癒しが訪れる。
闘わず、抗わず、
起こる出来事の苦しさの意味を 見てみよう。
それは やっぱり 応援でしかなく、
味方でしかなく、愛でしかない。
真っすぐに 自分自身という存在を立てていけるように、あなたの個性を 大切にしていけるように、
起きていることを知るといい。
通常の行動パターンの軌道修正や
そうとしか捉えられない、考えられないという
強固な思考パターン、既成概念の枠を変えるといいよと教えてくれている。
自分でいることに安心していい
という思考回路や新認識へ 変えるチャンス。
自分の内面と、起きた出来事と、
思考パターンと
本当に望む方向とを
わかり、その真意はすぐわからなくても
眺めながら、置いておく。
それは、
自分のなかのバランスと人間関係を通して
何度でも やってくる。
わかるまで、やってくる。
受け取れるまで、やってくる。
受けとるとは、喜んでいいことだ、ということ。
それは 喜びだったということ。
文面では分かりにくい。
体験を通して、自分で気づいていくこと。
気づきは日々溢れている。
たくさんやってきている。
キャッチするのは、自分。
スルーするのも、自分。
なにか、悲しい出来事があって、
凹んだ時に、
同時に 傷つきたい自分、落ち込みたい自分がいることに気づいていく。
凹みながら、
自分の心理をわかっていく。
そうしていたいことに気づく。
叶っていることに、気づく。
叶っているだけ、
叶えているだけ、、
そうしていたいが、叶っている。
そこに気づけると、
そうしていたい自分をわかってあげられる。
そして、
そうしていたいのは、なんでだろう?
と、自分を知っていける。
苦しみや悲しみを感じていたくなるのは、
だいたい 落ち込みたいから。
落ち込みたいのは、
自信を持ちたくないから。
自信がなければ、
ずっとそのループの遊びができるから。
ずっとそのループの遊びをしていたいのは、
やっぱり このままの自分は嫌だから。
このままじゃ 許せないから。
このままじゃ 愛されるわけにいかないから。
なぜなら、
このままで愛されると 許されてしまうから。
許されてしまうと これでいいということに、なってしまうから。
これでいいのなら、今までやってきた事も、責めていたい子供の頃のあんな事もこんな事も、もう責めることが出来なくなるから。
あのとき、あーだったから。
親がこんな風に育てたから。
私だったら そんなふうにしない!
または、
こんなに頑張ってきた自分の成果。
その頑張ってきた 無かったことにはしたくないあれこれ、、とか。
そういう たくさん握りしめてきた 苦しかった思い出や思い出したくもないようなこと、、
でも、定期的に思い出し、何度も何度も その時の気持ちをしっかりと感じて、誰がこう言ったとか、何をしたとか、詳細に詳細に記憶しているような、あれこれを、
大嫌いだけど、大好きなのか?というくらい
忘れたくても忘れられない、、
忘れるわけにいかない
あんな事やこんなことを、、
それも よかったんだと、無かったことにするわけにいかなくて、、
だから やっぱりループの遊びを繰り返す。
それもすべてが、叶ってるだけだったんだと。
明らかにみれたときに、、
完全に 自分自身でいることができる。
だから、やっぱり痛みを伴う。
簡単には 許せないから。
そういう現実を創造しつづける。
創造しているというか、
起こった出来事を そのフィルターを通して認識反応するために、感情が激しく揺れ動くということが起こるだけ。
他の誰かのフィルターを通したら、
同じその出来事は 笑って終わり、かもしれない。
そういう 自分の受け取り方や反応として、
出来事が起こりつづけていく。
本来は ただ起こっているだけなのだ。
そこには なんの意味もない。
勝手に意味付けしているのは私たちの方。
すべて喜びとして起こってる。
爽やかに受けとり続けて
喜びとしてカウントしてもいい。
起こるままに起こる。
そこに 思考や感情が引っ張られているだけ。
引っ張られていることを知り、
そこにあるパターンに気づき、
受けとりたいように受けとれる事に気づき、
幸せな受けとり方をしていくといい。
それには、やっぱり痛みは伴う。
許しの連続。
だけど、許されていくと 幸せしかない世界になる。何にも引っ張られず、何にも揺さぶられることは無い。
安心と安寧と平和と癒しと喜びだけ。
そうなった時から、完全に切り離される。
自分の人生が始まる。
頭で浮かぶやりたいではなくて、
存在の根源から来る
どうしてもせずにはいられないことを
本気でやっていこうと思える。
そのために、
今までの現実のすべてがあったことがわかる。
壮大なストーリー。
自分が主役のストーリー。
これをしたくて来たという、
自分の個性に無理のない
絶対的に備えてきたような
当たり前に自然とできてしまうようなこと。
そして、それを特別とも思わないような
息を吸うようにできてしまうようなことを
軸とした
自分だけの役割を全うしていける。
誰に認められなくても
誰に褒められなくても
自然と自分のなかから
喜びが湧いてくるようなこと。
そして、その喜びが 周りのためにもなること。
そんな私利私欲を超えたこと。
自分が生まれる前に決めて
それをやりたくて来たこと。
そんな存在本来の 役割を
ただの1人のサンプルとして 世に現していける。
そうしたとき、
目の前に自動的に道が現れる。
勝手に人生がまわりはじめる。
抗わず、コントロールせず、
そこへ心を開いて、信じることを重ねていく。
自分自身を、
相手を、
出来事を、
この世界のすべてを、
信じて、安心して、
そのうえで 喜んで 存在していくことができる。
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