グリザベラについて考えた話

私は分からない。
グリザをどう解釈したらいいのか。

グリザベラ。キャッツに出てくる娼婦猫である。
周りの猫からあからさまに嫌われていたり距離を置かれたりしている。

正直、なぜそこまで嫌われているのか分からない。

娼婦、というのが蔑みの対象になるのは分かる。某作品でもマグダラのマリアは石を投げられたりしているわけだし、そういう文化があるというのは、分かる。

でも猫やで?というのがどうしても頭の片隅にあるせいか腑に落ちないのである。猫の娼婦。全然ピンとこない。
またグリザ本猫を見ても他猫に危害を加えたような雰囲気はない。

グリザはどうして嫌われているのだろう。

私はキャッツは多様性の讃美歌であると思っている。色々な猫が自分を肯定して歌い踊り、生きる。
そして冒頭のネーミングで出てくる「誇り高く、顔を上げて生きる」というのがこの作品のテーマであるとも思っている。

だとしたらグリザはそうではない猫だから嫌われているのでは、と定義すると少し解像度が上がるだろうか?
誇りを持たず、顔を上げられない娼婦猫。
思ったより解像度は上がらない。

他の猫との関わりを考えてみる。
思えばタンブルブルータスはクールな大人猫なのにグリザにものすごく嫌な絡み方をする。
身を低くして慈悲深く手を伸ばし、グリザがその手に触れようとしたところで手を引っ込めて威嚇する。悪い。すごく悪い絡み方だ。しかし彼にそこまでさせるだけの何かがある筈なのだ。
そう考えてひとつの仮説を思いついた。

グリザ、ひょっとして、カッサンドラに何かしてタンブルが大激怒しているのではないだろうか?

タンブルはあの通り、カッサのことを愛している。愛しまくっている。
冒頭のジェリクルソングではカッサがソロを歌うなり駆けつけてくる。マキャがくれば(タンブルが舞台にいる時に限り)カッサを背に庇い、カッサも当たり前のように守ってもらう。幸せの姿の時ではステージ中央最前で抱きしめあい、ペアダンスの間ひとときも目を逸らさず見つめあっている。ガスのナンバーに至っては舞台上手で二人だけの世界をずっと繰り広げている。私たちは何を見せられているのだろうか、ええ、タンブルの寵愛ぶりを見せつけられているのです最高ですね。

カッサ以外には関心の薄そうな、というか世界にカッサさえいればそれ以外どうでも良さそうなタンブルがあれだけグリザを毛嫌いしているということはおそらくグリザがカッサに何かして恨みを買っているのだろう。

攻撃する猫でいえばカーバケッティもわざわざ近づいてシャッと引っ掻いている。
攻撃せずとも近づいてバカにしたように見下すボンバルリーナなど、遠巻きに距離を置いて見ている猫もいればわざわざ悪態をつきに行く猫もいる。

これはつまり「わざわざ嫌な思いをさせたいくらい嫌なことをされた猫がいる」ということではないだろうか。

グリザをよく見てみる。煤けているものの可愛らしい色のコートを着ている。爪は塗られ、ボロボロとはいえお化粧もしている。
一幕ラスト、仲間に入れてもらえなくても、誰もいなくなったジェリクル舞踏会の会場で独り踊り、伝えたい思いを歌う。

「忘れない、その幸せの日々。思い出よ、還れ」

どうしても置き去ることのできない、手放せない幸せの日々が朝が来るたびに過去になっていくことを受け入れられない気持ちが伝わってくる。

そして二幕、どうしても手放せなかった思い出を過去とし、自分の本音と向き合って、ジェリクルに囲まれる中、顔を上げて言う。

「お願い、私に触って、私を抱いて、光と共に」

おそらくこれがずっとグリザが抱え込んでいた本音なのだろう。
誰かに触れて欲しい、抱きしめて欲しい。あの幸せの日々がそうであったように、この先にまた、愛に触れ合える日が来ますように、と。

だとしたらグリザは昔、飼い主さんにとてもとても可愛がられていた飼い猫だったのではないだろうか。
優しい飼い主に可愛いリボンとか鈴とかつけられて、いつも撫でくりまわされて、美味しいご飯を貰って、同じお布団で眠って「可愛いね」と抱きしめてもらって。
そんな飼い主さんのことがグリザも大好きで、それはもう幸せな日々を過ごしていたのではないだろうか。

しかし何かあって飼い主と離れ離れになってしまう。寂しさに打ちひしがれる中、可愛いグリザはまた新しい飼い主に拾われて、幸せな日々を過ごしていく。寂しい思いをしたぶん、その愛はさらに心に体に沁みるだろう。そうやって独りになるたびに「寂しくて可哀想な私」を誰かに救ってもらい続けていたのかもしれない。
そしてそんな飼い主を次々と変えていくさまが「娼婦猫」と言われる所以になったのかもしれない。

でもそれだけであんなに嫌われるだろうか?
そこでタンブルのことを思い出す。

例えばその頃、飼い主がいる時ならカッサに「私はこんなに飼い主に愛されている。あなたは飼い猫じゃなくて可哀想ね」と言ったなら。
飼い主が居ない時なら「あなたはこんなに寂しい思いをずっとしているのね、可哀想」と言ったなら。
蔑みは「誇り高く、顔を上げて生きる」ことから遠ざかる行為だと思う。女神に等しいカッサがそんなふうに扱われるのを目の当たりにしたらそりゃあタンブルは怒り心頭でずっとグリザを許せないかもしれない。
そしてグリザはそんなふうに、本人の意図しないところで「無邪気」に色んな猫を蔑んでしまったのかもしれない。しかしそれは全くもって「無神経」な所作だ。

無邪気と無神経は似て非なる。
薄暗いメモリーに明るいソプラノで光を持ってくる純粋無垢なシラバブは無邪気そのものだ。
これはグリザの無神経さへの対比なのかもしれない。
シラバブは幸せの姿でソロを任される。シラバブは孤独も幸せもこれから知っていく身で目に映る世界はみな新しい。
自分を飾ることも知らず、素直である。

だからグリザに「触って」と言われて素直に手を取る。
その素直さにつられるように他の猫も「触ってほしかったんだ」と手を伸ばす。
結構思い切って本音を言ったグリザからしたら驚きの行動だっただろう。

手を伸ばすそれぞれの猫がグリザをどう思っているかは分からない。グリザに同調する猫もいれば手を伸ばしながらも思いあぐねている猫もいるだろう。
それでも嘘のない本音は受け止める。
それが誇り高く、顔を上げて生きるということだと思う。

「天井に登る」ということについてはまだ理解ができていない。それでもグリザが本音を吐露し、周りから受け入れられ、光に包まれたというのは良いラストなのだろうと思う。
その先にあるのが輪廻なのか、または場末のスナックのママになんとなく可愛がられながら過ごすような第二の人生かは分からないが、生涯を閉じるその時、手にしている過去に「ありがとう」が言えるようなものであるといいな、と思う。

グリザの話題なのに途中タンブルとカッサのイチャイチャ描写が長かったことは反省している。

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高矢 色
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