幕間 いろはとありのと宮園家と
朝日が昇ってから少しだけ時が経ち、その光が私の部屋を照らし始めた頃。
ふとトイレに行きたくなった私は、布団の温もりと眠気になんとか抗って部屋から縁側の廊下に出た。
「うぅ〜⋯寒っ!!」
「11月の終わりになってくると、流石に寒いわね⋯」
まだこっちでは一度も雪は降ってないけど、それでも温まりきっていない午前中は冷える時期になってきた。
流石にこの寒い空気の中で長居したくなかった私は、早々に用を済ませ、そのまま台所に向かった。
寝てる間にだいぶ喉渇いちゃった。
喉がカラカラで気持ち悪い。
「これ、いろは。まーた薄着で歩き回りよって」
冷蔵庫の飲み物を物色していると、おばあちゃんが話しかけてきた。
私は、寝る時はだいたい下着で寝ている。
それは1年中、基本的に変わることはない。
「だぁーって仕方ないじゃない。寝る時に厚い服を着てると閉塞感あって寝苦しいだもん」
「それで風邪を引いたら元も子もないじゃろ」
ぐ⋯それはごもっとも。
でもパジャマとか着てると肌がムズムズして気持ち悪くて、なかなか寝つけなくなってしまう以上、誰に何を言われようとそこは譲れない。
質の良い睡眠は美と創作における基本であり、最も大切なものと言って過言ではないからだ。
「はいはい。いよいよになったらちゃんと着るから」
「頼むぞ。お前は今や宮園家の顔なんじゃからな」
私はおばあちゃんの言葉を適当に流しながら、冷蔵庫から牛乳を取って扉を閉めた。
今日は太正102年の11月25日。
一応私の誕生日だけど、同時に帝国歌劇団が年末公演を目前に控えている時期でもある。
今回、私自身が舞台に上がることはないけど、衣装は私が作ることになった。
他の人ならともかく、めいが今回の脚本をやる以上、デザイナーは同じ歌劇団員である私以外あり得ない。
例え他の人にオファーが出されていたとしても、必ず私に変更させてやるんだから。
と、帝国歌劇団の舞台衣装には毎度そのぐらい気合いを入れて取り組んでいるものの、今回はなかなか作業が難航しているのが現状。
だから、今日が誕生日だからと言って自分を甘やかしている余裕なんてないのよねー。
「ところでいろは⋯」
などと頭を悩ませながら牛乳を飲んでいると、おばあちゃんが再び私に声をかけてきた。
「なぁに?おばあちゃん」
「ちと気が早いかもしれんが⋯年末年始、ありのちゃんの予定は空いてるかの?」
「ありのー?さぁ⋯私は聞いてないけど」
本当はそこそこ知ってるけど、教えたくないというのが本心だったりする。だって⋯
「ごめんくださーーーい!」
不意に、玄関の方から優しくも力強い、聞き慣れた声がした。
その声の主は、よりにもよって今このタイミングで来て欲しくない人物、ありのだった。
折角しらばっくれようとしたのに、最ッ悪⋯⋯
その声を聞いて、おばあちゃんは嬉々として足早に玄関へと向かっていった。
「あらあらありのちゃん、いらっしゃい」
「おはようございます。おばあちゃん」
いつもの落ち着いた口調で挨拶をするありのの声が、廊下の方から聞こえてくる。
「いろはちゃんは起きてますか?」
「ああ、起きとるよ。さあさあお上がり」
「お邪魔いたします」
廊下を歩きながら、おばあちゃんは話を続ける。
「そうだありのちゃん。年末年始は空いとるかえ?」
「年末年始ですか?はい、空いていますよ。あ、もしかしてまた神社のお手伝いだったりしますか?」
「そうじゃそうじゃ。流石ありのちゃん、話が早いの」
「まぁ、ありのちゃんが良ければじゃが⋯」
「ええ、大丈夫ですよ」
ありのは間髪を入れずに、おばあちゃんの希望を承諾した。
はぁ⋯まったくもう、人が良すぎるのよ。アンタは。
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて、新年は巫女さんのお仕事をお願いするよ」
ありのの回答に満足したおばあちゃんは、ありのを私の居るリビングに案内すると、足音の感じから、どうやらそのまま自分の部屋へと戻っていったようだった。
台所を出たところでありのと顔を合わせた私は、牛乳を飲んで塞がってる口の代わりに、空いてる右手の人差し指で、ありのにこれから向かう先を指示した。
「ありの、アンタねぇ⋯なんでも安請け合いするもんじゃないわよ?」
「そうね。でも私、巫女さんの服結構好きよ?」
「まぁ別に止めはしないけどさ、その⋯ありのは気になんないわけ?」
「何がかしら?」
あー⋯うん。やっぱり全く気づいてないみたいね。
「はぁ⋯ありのはもう少し自分がどう見られてるか自覚した方が良いわよ?」
ありののスタイルの良さは、友人としての贔屓目なしで見ても抜きん出ているものがある。
その上、立ち振る舞いや表情から垣間見える持ち前の母性と包容力に当てられでもしたら、相乗効果で並大抵の男たちはイチコロである。
看護師との兼業じゃなければ、その方向性ではとっくに一目ミヤビと肩を並べるほどの人気になっていてもおかしくないほどだと思う。
そんなありのが、バストが強調される巫女服なんて着たらどうなるかなど目に見えてる。
恐らくおばあちゃんも、それをわかっていてお願いしている。
神社が存続するためには、お賽銭や、おみくじなどの授与品の売上げが多いに越したことはない。
実際、ありのが神社で働いた年は、大抵二日目から参拝客が目に見えて増える。特に男が。
はぁー全く、これだから男って奴は⋯
「それよりもさ、こんな朝早くから何しに来たの?」
目的の部屋に着いた私は、畳の床に腰を下ろしながらありのに質問を投げる。
でもまあ、ありののことだから十中八九⋯
「あ、そうだったわ。今日はいろはちゃんにプレゼントを持ってきたのよ」
やっぱりそうよね。
ほんっと律儀なんだから。
ま、そこがありのの良いところなんだけどさ。
「気持ちは嬉しいけど、無理して予定空けなくても良いんだからね?年末は急患とか増えて忙しいでしょ?」
「それは確かにそうだけど、以前よりも診療所のスタッフさんが増えたから、今年はそこそこ休めると思うわ」
「なら、別に良いけど⋯」
「というわけで、いろはちゃんへのプレゼントは〜⋯」
「コレです!」
今日、ありのの姿を見た時から、やたら目を引く大きなバックを持っているのはすぐにわかった。
中身は今まさにこの瞬間を迎えるまで検討がつかなかったけど、遂にその正体が明かされた。それは⋯
「じゃーん!ビッグサイズすねこすりもふもふクッションでーす!やーん、かわいー」
出たわね、すねこすり⋯!
ありのは、私が犬より猫派だと知って以来、隙を見てはすねこすりを布教してくるになった。
嫌いってわけじゃないけど、妖怪な分、他の猫に比べて不気味な感じがあって、正直そんなに好きじゃないのよね。
すねこすりグッズを渡されることは過去に何回かあったけど、それにしても今回は随分と特大のものをぶち込んできたわね⋯⋯
本当だったらとっとと突っぱねて、すねこすりをお断りすれば良いんだけど、ありのが真面目に選んできたであろう背景を考えると、泣かれるのはなんか気が引けちゃうし、毎度実用性がしっかりしてる物をチョイスしてくるから、結局ちゃんと使っちゃうのよね。
箸置きとかお皿とか毛布とか⋯そういう長持ちする物の場合が多くてありがたい反面、家の中は、毎年ありのから貰ったすねこすりにより、少しずつ侵食されつつある。
10年20年先もこの調子が続いていたら、宮園家はすねこすりで埋め尽くされてしまうのではないだろうか⋯
「あ、ありがとう。大切に使わせてもらうわ」
一抹の不安を抱えながらも、私はありのから誕生日プレゼントを受け取った。
それから私は衣装製作の続きを始め、気づいた時には既にお昼を回っていた。
誕生日とはいえ作業量を減らす気はない。というか、そうじゃないと間に合わなそうなレベルなのよね。
「もしかしてこの部屋の衣装、一人で作ってるの?」
「ええ、そうよ」
「お手伝いさんは呼ばないの?流石に大変でしょ?」
「それはそうなんだけど、こういう一点ものはあんまり触らせたくないのよねー」
自分が作り出す服にはどれも等しく熱意を注いでいるつもりだけど、帝国歌劇団のものとなると、より一層の熱が込もってしまう。
だから下手に他人に口出しされたくないし、触られたくもなくて、どうしても一人でやりたくなるのだ。
「だから正直⋯今日ありのが来てくれたおかげで凄く助かってるわ」
ありのには裁断や仮縫いなどをお願いして、私は本縫いや装飾の取りつけに専念させてもらった。
昔から私の服の事をよく知っているだけあって、ありのから渡されるものは自分でやったかのような状態になっているものが多く、その上手際も良い。
「とりあえず頼まれたものは終わったけど、次は何したらいいかしら?」
「ううん、もう大丈夫。後は自分でやるわ」
「折角の休みに手伝わせちゃってゴメンね」
「別に気にしてないわ。なんだか懐かしい感じがして楽しかったし」
ありのと私の家は県をまたいで離れている。
松林館に居た時はひとつ屋根の下だったから特に問題はなかったけど、今は違う。
だから余計に、貴重な時間を使わせてしまったことに申し訳なさを感じる。
「でも今度会う時には、流石に何か埋め合わせさせてちょうだい。じゃないと私の気が済まないし!」
「うふふ、じゃあ何をお願いするか考えとくわ」
キリのいいところで一旦作業を中断した私たちは、遅めの昼ご飯を街中で食べて適当にブラブラとお店を回った後、そのままの足で駅に向かった。
夕暮れ前の駅は平日ということもあり、それほど人は多くなく、ホームに着くまでの流れはスムーズだった。
「次会うのは大晦日手前辺りかしらね」
「そうね、細かい日程についてはまた後で。それと⋯」
「くれぐれも無理して身体を壊さないようにしてね、いろはちゃん」
ほんと、健康面になると心配性なのは相変わらずね。
「はいはい、出来るだけ善処するわ。ていうか、それはお互い様でしょ?」
「ふふ、それもそうね。それじゃあまた」
「うん、じゃあまた」
ガコン!と電車の自動扉が閉まって、電車は徐々に加速して見えなくなる。
ありのの乗った電車を見届けた後、私は特にどこに寄ることもなく、そのまま家に戻った。
「流石の私も、肩と腰がキツくなってきたわね⋯」
ありのが帰った後も、私の衣装製作は続く。
「それにしてもありの、相変わらずのお母さんっぷりだったわね⋯」
松林館で皆と一緒だった時と比べると、この数年は本当に色んな事があって、色んなものが変わった。
自分を取り巻く人はおろか、世界まで変わった。
けれど、変わらない安心感ってのも良いものね⋯
なーんて、今日のありのを見て、柄にもなくクッサいこと考えちゃうなんて、疲れてるのかしらね、私。
手を付けていた舞台衣装から手を離して伸びをする。
そして私は、そのまま畳の床へと倒れ込んだ。
ふと視界の端に、ありのがくれたビッグサイズすねこすりクッションが目に入った。
「折角貰ったし、ありがたく使わせてもらおうかな⋯」
私は上半身を起こしてクッションを手に取り、作業台と自分の間にそれを挟んだ。
「あ⋯」
コレ、良いかも⋯身体楽だし、落ち着くわね。
体重を預けながら作業台と私の間にちょうど良い距離感を作れる上に、もふもふとした、温かみのある生地はいよいよ寒くなってきたこの時期にありがたい。
どうやら私は、今回もまた実用性の高いすねこすりグッズを渡されてしまったらしい。
抱き枕にも使えそうだし、なんならこれから長くお世話になりそうな予感がしてきた。
流石にここまで来ると、すねこすりちょっと好きになってきたかも⋯と、一瞬思ってしまった自分がいた。
「いや、ない」
きっとない、多分。
これはきっと、妖怪すねこすりと砂原ありのの巧妙な策略。屈してはいけない。
「そんなにチョロくないわよ、私は」
私はそう自分に言い聞かせながら、衣装製作に追い込みをかけるのだった。