幕間 interlude
太正100年7月11日。
帝国華撃団によって日本奪還が成されてから幾許かの時が経ち、日本は再び復興への道を歩み出していた。
未だ先の戦いの傷痕を色濃く残している街は、ミライによる潤沢なエネルギー供給がなくなった影響もあり、日没が近づくと加速度的に静かになっていく。
そんな中をひとり、夷守メイサは歩いている。
今のメイサは、日中の作業でかいた汗を流すためにシャワーを浴び、その後ドライヤーをかけて真っ直ぐ櫛を入れて整えただけの状態であるため、いつもの特徴的なヘアースタイルにはなっておらず、黒いリボンもない。
服装もN12の隊服ではなく、ボタンのついた七分袖の白いシャツに、黒のサイドプリーツスカートといった出立ちであったため、戸締りや帰宅に意識が向いている人たちの目には、いたって普通の一般人女性にしか映らなかった。
向かう先は都内の総合病院。
なぜならばそこには、帝国華撃団・宙組、美瑛ななことの死闘により重傷を負った双子の妹、石籠セイラが入院しているからだ。
故にこの歩みはN12のキャプテンとしてではなく、1人の姉としてのものだった。
メイサは病院に着いて受付に話を通すと、セイラのいる病室に向かうべく階段を上り始めた。
患者の消灯時刻にはまだ早いが、現在院内では、エネルギー節約の観点から明かりは最小限に抑えられ、エレベーターの使用も可能な限り控えている。
一部関係者や有名人などの来訪時には例外となることもあるのだが、寧ろメイサは、『そうであるからこそ皆の規範たる存在であらねばならない』という思考から、誰に言われるまでもなく、エレベーターを使って上階へ上がる選択肢を外した。
「とはいえ、面倒であるのは確かだな」
セイラの病室は8階の角部屋。
国民全員が全員ではないが、首相が現世人類を滅ぼすために国民を欺き続けていた事が発覚した今、その直属組織であったB.L.A.C.K.に対して強い不信感を抱いている者は少なからず存在している。
その上セイラの素行の悪さは以前から隠し切れるものではなかったため心象は悪く、N12の中でもまず間違いなく上から数えた方が早い方に入るだろう。
その他諸々の理由も含め、そういった連中からの襲撃を避けるために、セイラの病室は入り口から最も遠い部屋にされることとなった。
8階分の階段を登ることなど、メイサにとって肉体的な苦痛ではなかったが、時間がかかり面倒であることに変わりはない。
(だがこれも一種の“報い”と考えれば、足と時間を使って苦労することくらいは些末な問題だと思わねばな)
メイサは階段を上り終え、ブーツのつま先とヒールが床を叩く音を抑えつつ、日没間近の薄暗い廊下を進んでいく。
程なくしてセイラの病室に着き、軽くノックをしてから引き戸になっている病室のドアを静かに開けた。
「まだ入っていいって言ってないよ、おねえちゃん」
病室の窓際のベッドには、ハネ毛が特徴的な青髪の少女、石籠セイラがいた。
顔を含め、体の諸所に見られる痣や傷には包帯と絆創膏が施され、骨折した右腕はギプスで固定されていた。
上体を起こして窓の外を見つめるセイラの声は、生気が抜けたように弱々しいものだった。
「すまなかったなセイラ。だがいつも入るまで返事をしないじゃないか。ノックをしただけマシだろう?」
セイラは答えなかった。だがそれはメイサとの仲が悪いからではなく、ただ単に会話のキャッチボールを長く続ける気力がなかったからだった。
復興に向けて、日本にはまだまだ多くの課題が残っているとはいえ、戦いの日々が終わりを告げたことでセイラはすっかり無気力になっていた。
帝国華撃団との対立する理由もなくなり、その先にいるプラナへ挑む機会も失ってしまった。
例え己が身体の傷が癒えても、その後に誰が自分との死闘に興じようなどと思うだろうか。
帝都の復興と歌劇団の再出発に向けた練習⋯その他にもまだまだやる事は沢山ある。帝国歌劇団もB.L.A.C.K.も関係なく全員が同じ方向を向いている中、ただ一人の戦闘狂の身勝手な願いに付き合っている暇などない。
その事は、ここ数週間ほどの流れでセイラ自身も充分に理解し、それ故に今、セイラの強者への交戦意欲は行き場をなくし、空虚となったその心の穴は埋まらないまま療養の日々を過ごしていた。
「⋯ところでセイラ。ケーキを買ってきたんだが、一緒に食べるか?」
メイサはセイラに近づきながら、右手に持っていた紙袋をセイラに見えるように持ち上げた。
「病院って、そういうの持ち込んで食べちゃダメなんじゃないの?」
「許可は貰ってある。問題ない」
「ふーん、そ」
そっけない返事を返すセイラだったが、どうやら拒否をしているわけではなさそうだと分かり、表情にこそあまり出さなかったが、メイサは内心ホッとした。
メイサはベッドに備え付けられたテーブルをセイラの前に展開し、その上にケーキを手際良く準備していく。
「紙製の皿で味気ないとは思うが許してくれ」
「食べられればなんでも良いって」
「全く⋯お前という奴は」
セイラは戦い以外の大体において無頓着で、目的はどうあれ、女優という立場になったおかげでようやく今のラインになったと言ってもいいほどだ。
だから、そんな彼女が皿やフォークなどの細々とした部分を気にかけることなど当然なかった。
「誕生日おめでとう、セイラ」
「うん、おねえちゃんも⋯その、おめでとう」
国民的スタァの誕生日とは思えないほど質素で、静かな誕生会が始まった。ただその後は、目の前のケーキにフォークを入れては口に運ぶのみで、その間2人が特段言葉を交わすことはなかった。
セイラがケーキを食べ終えるのを待ってから、メイサは後片付けを始めた。そしてその作業を進めながらひとつ、話を切り出した。
「セイラ。お前がこれからどうするのかは自由だが、ひとつだけ言っておく事がある」
「きゅ、急にどうしたの?」
メイサがいつも以上に神妙な面持ちをしていることに気づき、セイラは、これからただならぬ言葉が飛び出すであろうことを本能的に感じ取った。
「事がある程度落ち着いたら、私はしばらくB.L.A.C.K.を離れるつもりだ」
「えっ⋯」
「戻ってくるかどうかは別として、とりあえずは退団することになるだろう。大石司令にも承諾してもらった」
「そんな、どうして⋯」
驚きの色を隠せないセイラを脇目に、メイサは極めて冷静に、淡々とした口調で話を続ける。
「今回はあまりにも事が大き過ぎた。民衆の怒りを静めるには、吉良の首だけでは到底足りない」
「だからおねえちゃんも⋯ってこと?」
「ああ」
「悪いのは全部吉良じゃん!お姉ちゃんがそこまでする必要なんてないじゃない」
「そんな簡単な話ではないんだ。境遇的にプラナや大体のN12は許される部類に入るだろうが、キャプテンとして指揮を執っていた私が知らぬ存ぜぬであったとはいかない。例えそれが本当だったとしても、だ」
(それに実際⋯何も知らなかったわけではないしな)
一呼吸置いてから、メイサは話を続ける。
「今は僅かばかり残っている影響力を利用して復興作業の指示を出せているが、それがひと段落すれば本格的に吉良以外の責任の追求が始まるだろう」
そうなれば内閣府や側近のコハク、そしてB.L.A.C.K.の総キャプテンであるメイサには、真っ先にその矛先が向くことは必至だ。
「ならば、ある事ない事を言いふらされ、情報が錯綜する前に名乗り出た方が早いと思ってな」
だからメイサは、国民の感情が高まりきる前に自ら責任を取る道を選んだ。それは罪悪感や自己犠牲の精神に駆られたからではなく、単にその方が合理的で、かつ素早く事が運ぶと考えた結果だった。
後悔や贖罪の念がないわけではない。だが、夷守メイサという女性が個人的な感情に身を任せて重要な決断をする事はない。
実態が首相の傀儡組織だったとはいえ、それほどの存在でなければ、国民から厚く支持され、女優を志す者たちにとって羨望の的であった大帝國歌劇団B.L.A.C.K.のキャプテンを務めることなどできなかったからだ。
「そう⋯そう、なんだ」
(おねえちゃんがそう言うなら、きっと“そう”なんだろうな⋯)
女優としてだけでなく、おおよその女らしさでも自分より遥かに上であるメイサが言うなら、きっとそれが正しいのだろうとセイラは思った。
それに何よりも今この瞬間、どう思考を巡らせても、メイサの意志を揺らがせるだけの言葉はおろか、挟み込む余地を見出すことすらセイラにはできなかった。
それでもたったひとつだけ、セイラには気になることがあった。急に湧き出した焦燥感にも似た感情が心の中を支配し、思いはやがて口をついて出る。
「⋯それでおねえちゃんは、B.L.A.C.K.を離れてどうするの?」
「まだ行き先は決めてはいないが、とりあえずは帝都から離れて隠居するつもりだ。いっそ北海道や沖縄まで行ってしまうのも良いかもしれないな」
「北海道⋯沖縄⋯」
「思いつきで挙げただけだ。だがそうだな⋯もし北海道に行くとしらセイラ、お前も一緒に来るか?」
「ど、どうして?」
思いもよらない提案に、セイラは首を傾げた。
「美瑛は北海道出身だそうだ。そう言えば分かるか?」
「美瑛⋯⋯美瑛⋯ななこ」
美瑛ななこ。セイラがプラナを目指す中で初めて出会った好敵手。
「先日美瑛の見舞いに行った時、動物園のスタッフに戻ると言っていたからな。傷が回復したら、彼女は北海道に帰るはずだ」
「まあ、その時に彼女の親友にお前のことを強く釘を刺されたから、お前がまた彼女と手合わせできるかはわからんがな」
そう言って、メイサはハハハと小さく笑った。
だが不思議と、セイラの胸の中に沸き立った感情は、さざ波程度のものでしかなかった。
つい先月まで、あれほど強敵との死合いに飢えていたというのに、その熱はどこへ行ってしまったのか。
セイラは両の目を閉じて、今までの人生を思い返す。
何が自分を闘争へと駆り立てたのか──
その源流はどこから来たのか──
メイサは何も言わずに、手を止めていた食器とゴミの片付けを終わらせつつ、セイラが口を開くのを待った。
遠い記憶を掘り起こし、追想の果てにやがてセイラはひとつの答えを出す。
「今のアタシは⋯自分が何をやりたいかなんて分かんない。おねえちゃんと一緒なら、どこでも付いていく。それ以外は別にどうでも良い」
意外な答えにメイサは驚き、大きく目を見開いた。
セイラはいつもメイサと一緒だった。
大して好きでもない歌と芝居を頑張ったのは、姉と同じ場所に立ち続けるために必要だったから。
他人に強い言葉を使っていたのも、自分をより大きく見せ、存在感をアピールするためのものだった。
セイラの中心はいつもメイサだった。
メイサに認めて貰いたかった。褒めて貰いたかった。そして何より──
(振り向いて欲しかったんだ⋯⋯と、思う)
プラナに尽くす姉の姿に、嫉妬に似た感情を覚えた。だからそのプラナを倒すことで、昔のように自分の方を向いて欲しかった。全ては大好きな姉と共に在るための手段でしかなかった。
だがその願いが叶えられることはなく、長い時間の中で感情が擦り切れていった結果、いつしかそれは手段ではなく目的となってしまった。
「意外だな。『相手の事情なんざ関係ねぇ。アタシのやりたいようにやるだけさ』とでも言うかと思ったが」
「いくらなんでもそこまで酷いことは言わないって!」
「お前が命令違反をする度にどんな様子で、どんな物言いをしていたのか。私が知らなかったとでも?」
慌てて取り繕うセイラに対し、メイサはあっさりと言葉を返す。
「ぐ⋯⋯!」
──まさかそこまで報告されていたとは。
セイラはバツが悪くなって言葉を詰まらせた。
「⋯⋯でも、さっき言ったことはホント。今はなんて言うか、何も考えずにただゆっくりしていたいんだ」
「そうだな。それについては私も同意見だ」
(B.L.A.C.K.を率いていたことは私の誇りだった。だが誇りと苦労とは話が別だ。これまでの体制が消え去った今、抱えていた秘匿事項を下ろして少し休みたいというのが正直な今の気持ちだ)
そして病室には、少しの間無音の時間が流れた。
「セイラ」
メイサはセイラの方を見ずに、膝の上で組んだ両手を見つめながらセイラに語りかけた。
「なに?」
それに対しセイラも、メイサの方を向くことなく、病室の白い壁を真っ直ぐに見つめながら応える。
「歌は⋯お芝居は、楽しかったか?」
「なにその質問⋯」
「元々お前は、歌劇が好きでB.L.A.C.K.に入ったわけじゃないだろう?」
「それはそうだけど⋯」
「で、結局どうなんだ?」
「わかんない⋯でも嫌いじゃなかったと思う、多分」
「⋯そうか⋯そうか」
メイサはセイラの言葉を心の中で反芻しながら、小さく笑みを浮かべた。
「なんでそこでおねえちゃんがニヤニヤするの?」
「いやすまない。つい、な」
メイサは簡単に謝意を表すのみで、それ以上何も言わなかった。
「変なのっ」
セイラからすれば適当にはぐらかされた形ではあったが、不思議と深く追求する気は起きず、むしろ嬉しさすら感じるほどだった。
セイラ自身、この感情の理由を上手く説明できるだけの言葉は思い浮かばなかったが、メイサが自分の言葉に反応して笑ってくれたという事実さえあれば、それで充分だった。
「⋯⋯ふぅ。ではそろそろ帰るとするか」
メイサは大きく息を吐いてから立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
「分かってはいると思うが、一時よりはだいぶ回復してきたとはいえ、くれぐれも無理はするなよ。それと⋯」
「次ここに来るまで、少し間が空くかもしれん」
「どうして?」
「そろそろ公表する資料をまとめ出さないと間に合わなくなるからな。説明用の原稿も作っておかねばならん」
荷物をまとめた手提げ袋を抱えて、メイサは病室の扉へと歩き出した。
「そっか、そうだよね⋯それじゃあ仕方ないか」
扉の取っ手に手をかけたところで、背後から若干気落ちしたようなセイラの声がメイサの耳に聞こえた。
メイサはそれに対し、セイラの居る方を見ないまま言葉を返した。
「そう落胆するな。事が済めば、私たちにはいくらでも時間がある」
そこまで言って、メイサはセイラの方を振り返った。
「そうだろう?」
メイサは笑っていた。普段見せるような理知的な微笑ではなく、満面の笑顔で。
セイラは無言で、でも安堵の微笑みを湛えながらゆっくりと頷いた。
それを見届けたメイサは再び前に向き直り、病室を後にした。
扉の閉まる音と同時に、室内には飽きるほど見慣れた日常が戻った。けれど今のセイラにとっては、逆にそれが良かった。
セイラの目からは堰を切ったように止めどなく涙が流れ、折れていない左腕でせめて口だけでもと抑えても、漏れ出る声を止めることもできなかった。
「ハ⋯B.L.A.C.K.のキャプテンだと!?全く笑わせる」
メイサは自嘲しながら、ひとり小さく呟いた。
メイサはセイラの病室からは退室したものの、まだ院内からは出ていなかった。メイサは、セイラの病室から少し離れたところにある長椅子に腰掛け、病院の壁に背中を預けていた。
胸の奥にある感情を抑えていたのはセイラだけではなかった。だからメイサには、病院を出る前に一度気持ちを落ち着ける時間が必要だった。そこに、セイラの病室から微かに漏れる音が耳に入ったのだ。
(⋯⋯早く、終わらせねばな)
メイサは目元から頬にかけて感じた違和感を右手でサッと拭うと、決意を新たに立ち上がった。
その表情は凛としており、それに比例するように、歩を進める足取りは力強かった。
その後、帝都の瓦礫撤去作業がひと段落したタイミングでメイサは記者会見を開き、政府内における自身の立場の実態と、知り得ていた情報を包み隠さず公表した。
またそれらの点を踏まえ、責任の一端は紛れもなく自分にあるとし、セイラと共にB.L.A.C.K.を退団する旨を告げた。
そしてこれが大きなきっかけとなり、吉良の計画に加担していた者たちの責任問題とそれに対する処置、新体制への移行は急速に進んでいくこととなる。
公表当時こそ世間は騒然としたものの、これまでの実績や戦後処理における貢献度の高さなどの点から、批判的な意見の大部分はすぐに終息の兆しを見せ始め、次第にメイサの復帰を望む声の方が大きくなっていった。
その流れはメイサ自身も程なくして知るところとなったが、すぐに復帰する気はまるでなかった。
何故ならばメイサには、女優であるよりも1人の姉として為すべきことがあったからだ。
外見も性格もまるで違う。けれどもセイラは、同じ血を分けた紛う事なき自らの半身。
そんな自分に等しき存在を蔑ろにして女優道を進んだ先に、如何ほどの価値があるというのだ。そんなものは吹けば飛び、触れれば容易く砕ける塵芥に等しかろうと、夷守メイサはそう思っている。
だから、今のメイサには時間が必要だった。
遠く離れてしまった双子星を迎えに行く時間が。
空いた穴を塞ぐための時間が。
再び共に未来を向くための時間が。
だから今は、しばしの間休息を──