幕間 自分を生きる

「ではすみませんが、よろしくお願いします」
 そう言って私は、他の看護師さんや往診に来ていただいている先生方よりも少し早く診療所を退勤した。
 何故そんなことをしたのかというと、私は明日から3連休を取り、今夜、夜行バスに乗って帝都に行く予定があるからだ。
 帝都に行く理由は、“あの人”に会うため。
 明日、1月30日は水曜日。
 平日であるにも関わらず休みを取ったのは、その日が私の誕生日だからだ。
 自分で言うのもなんだけれど、私は普段、よく他人ひとから頼りにされる側の人間である。
 でも、そんな私だって誰かを頼って甘えたい時もある。定期的じゃなくて良いけど、誕生日みたいな節目くらいはそうさせて欲しい気持ちはある。
 だから私は“あの人”に会いに行くのだ。
 平日だし、きっと長い時間は一緒に居られないと思うけど、それでも、久々に顔を合わせること、それ自体が私に取って癒しの一時ひとときになる。
(それに去年成人してお酒も飲めるようになったし、あわよくば⋯⋯って、いけないわ!)
「そんな事を考えてる暇があったら、出発の準備をしなさい、ありの!」
 つい魔が差して、よこしまな考えがよぎってしまったけれど、私は気を取り直して診療所の病院スペースから自宅スペースへと向かった。

 カチャ⋯と、病院側に大きな音が響かないように、ワタシは静かにドアノブを捻って自宅に入った。
「ただいま」
 今となっては私以外誰も居ない空間に向かって、私は帰宅の挨拶をする。
 この生活を続けて何年も経つし、普段は何も気にならないけれど、冬の寒い日になると、ふとした瞬間に、停滞した空気と静まり返った空間の雰囲気に、少しだけ寂しい気持ちになる。
 両親が居なくなったばかりの時ほどではないけれど、松林館や帝国華撃団の皆と一緒に居た時間のにぎやかさと、1人でいる時の静けさの落差が、今の私を余計にそんな気持ちにさせているのかもしれない。
 仕事用の靴を脱いで居間に入った私は、部屋の電気を付けて鞄を床に置き、とりあえず暖房を入れてひと息ついた。
 数分間天井を見つめながらボーッとした後、私は夕食の準備をするべく立ち上がった。
 冷蔵庫の中は、野菜もお肉も余りものが少しずつあったから、全部まとめてお鍋の中に入れることにした。
 冬に自炊をする時、お鍋は助かる。
 具材でカロリーや栄養の調節もできて、なにより調理が簡単なのが良い。
「白菜とお豆腐と春菊と椎茸と⋯」
 昆布と粉末ダシを入れた鍋の中に具材を入れながら、私は最後に残った鶏肉に目をやった。
 これは一昨日おととい唐揚からあげを作った時に余った分。
(量に対してかなり安かったから釣られて買っちゃったけど、全部唐揚げにするには多すぎて余らせてしまってたのよね⋯)
 しかも、割とそれなりな・・・・量が余っている⋯
「う〜ん⋯⋯もう、全部入れちゃえー!」
 少し悩んだ末、私は鶏肉を全部投入することにした。
 その代わり、鍋以外のものは食べないと決めた。
 大食いな方ではないけれど、ご飯や他のおかずまで付けたら食べ切れないと思ったからだ。

 お鍋の頃合いを見計らって、私は居間のテーブルの上に、鍋敷きとお箸とレンゲと取り皿、そしてコップを用意する。
 冷蔵庫からはポン酢とミネラルウォーターを出し、それぞれを取り皿とコップにそそいだ。
 出来上がった鍋の取手をミトンを着けた手で掴み、テーブルへと持って行き、鍋敷きの上へと乗せる。
 ふたを開けるとブワッと蒸気が昇り、具材と出汁の香りが私の鼻腔びこうをくすぐった。
「さて、食べましょうか」
 ミトンを取ってテーブルの脇に置き、私は近くにあった座布団を引き寄せ、その上に正座で座った。
「いただきます」
 レンゲで鍋の出汁を少しすくってポン酢と合わせ、まずは白菜と豆腐を取り皿に取り寄せる。
「フーフー、はふっ、はふっ⋯あっ、あっちゅ!」
 充分に吹いて冷ましたつもりだったけど、予想以上の熱さに私は口の中が軽く火傷やけどしそうになった。
 私は一旦水を挟んで舌を落ち着け、1,2分ほど置いてから食事を再開した。

 予想通り、ちょっとお肉の量が多くて食べ切るのが大変だったものの、なんとか完食した私は、食休みは程々に、早々に洗い物を済ませた。
 普段ならもう少しゆっくりするところだけど、バスの出発時刻を考えると、うかうかはしていられない。
「あとは⋯今日出せるゴミもまとめて置かないと」
 2日以上家を空けるのだ。
 今日出せるゴミや洗い物は済ませておかないと、帰ってきた来た時が大変だ。
(それに、バスに乗ってからいくらでもゆっくりする時間はあるもの)
 集積所にゴミを出して戻ってきた私は、そのまま浴室へと向かった。
 早々に服を脱いで洗濯カゴへ放り投げ、浴室の扉を開けてシャワーの蛇口を捻る。
ザアアァアアアァー⋯⋯
 シャワーの穴から勢いよく水が出てくる。
 仕方ないことだけど、冬場のこの冷水から温水になるまでの間というのは、いくつになっても慣れない。
「うぅ〜、早くあったかくなって〜」
 両親から受け継いだ家の設備は一昔前のものが多い。だから浴室に暖房乾燥機のようなものは当然ない。温水が出るまで耐えるしかないのだ。
 程なくして温水が出始め、私はすぐさまシャワーを自分の身体へ向けた。
 シャワーから出る温水を全身に浴びて、じんわりと身体が芯から温まっていくのを感じる。こういった身体の芯にみ渡るような暖かさは、暖房から出る温風にはない。私はこの心地良さがすごく好きだ。
 本当は湯船にも浸かりたかったけど、そうも言っていられないので、身体が温まったらとにかく洗うことだけに注力ちゅうりょくして、私はなるべく早く浴室を出るようにした。
 
 お風呂から出て身支みじたくをひと通り終えた私は、迎えのタクシーが来るまでの間、暇を持て余していた。
 運転免許は持ってるから、夜行バスが出発するバス停近くまで行く事自体は可能だけど、仕事疲れでハンドル操作を誤る危険も考慮して、安全にタクシーで行くことにしたのだ。
ブブッ⋯ブブッ⋯ブブッ⋯
「あら?」
 手元に置いていた携帯が振動している。
「このタイミングでかかってくるなんて、誰かしら?」
 私は携帯を手に取って画面を確認し、その着信に応答した。
「はーい、なんの用かしら?いろはちゃん」
『いや、別に大した用じゃないんだけどね。ちょっとかけてみたくなっちゃったわけよ。あ、年始はうちの神社手伝ってくれてありがとね。お陰様で助かったわ』
「どういたしまして。それよりもどうして電話を?」
『だってありの、明日帝都に行くんでしょ?』
「え⋯あ、うん。そうだけど」
 行き違いになったり、送ってくれたプレゼントが生物なまものだったりして無駄にならないよう、中国花組の皆には、事前に私が明日帝都に行くことは伝えていた。
『だったら後で話、聞かせなさいよ?』
「えぇ!?な、なんのこと?」
なんのことって、司令のことに決まってるじゃない』
「ああ、そのことね。ええ、もちろん会いに行くわ」
『⋯⋯⋯⋯はぁ』
 何故だろうか。電話の向こうからいろはちゃんの溜め息が聞こえた。
「え、私今なんか変なこと言った?」
『アンタねぇ⋯折角せっかく鳥取から帝都に行くんだから、会うだけじゃなくて、やることやってきなさい・・・・・・・・・・・よ?』
「それってどういう⋯⋯」
 と、そこまで言いかけて、私はいろはちゃんの言葉の意味を理解した。
「いろはちゃんっ!!」
 私は自分でも分かるくらい顔が熱くなって、思わず叫んでしまった。
『ありの、お酒飲めるようになったんだし、酔った流れで案外いけちゃうかも⋯』
「ダメダメダメ!ダメよ⋯そんなよこしまなこと⋯」
 つい数時間前に同じようなことを考えていたけど、いろはちゃんの口からも後押しされてしまうと、実行することに抵抗がなくなってしまうような気がして、私はなかば自分に言い聞かせるように否定した。
『あっはっは!んじゃ、報告楽しみにしてるわね〜』
プツッ⋯
「あっ!?ちょ⋯」
 言いたいことだけ言って、いろはちゃんは通話を切ってしまった。
「もう⋯⋯」
 司令さんに対して“そういう感情”が全くないかと言われれば、それは嘘になる。
 あれほど頼もしくて心優しい人は、そうはいない。
 好きにならない理由がない。
「でも⋯⋯」
ブブッ⋯ブブッ⋯ブブッ⋯
 自分の気持ちに整理がつかないうちに、再び私の携帯が震えた。
 ディスプレイに表示されていたのは、頼んでいたタクシーからの電話番号だった。
「はい、砂原です」
『お世話になります。砂原さんのお宅の前に到着しましたので、ご連絡を差し上げました』
「ありがとうございます。すぐに行きますので、少々お待ちください」
 私は通話を切って立ち上がる。
 厚手あつでのコートを羽織はおってマフラーを巻き、貴重品類を入れたトートバッグを取って左肩に通す。
 そして戸締まりの確認をしてから、玄関に置いておいたキャリーバッグの取っ手をつかみながら靴を履き、タクシーをあまり待たせないように足早に家を出た。

「よろしくお願いします」
 キャリーバッグをトランクに入れ、私が乗車したのを確認した運転手のお姉さんは、慣れた手つきでシフトレバーを動かして車を発進させた。
「それにしても、平日にこんな大荷物で夜行バスで出かけるなんて、何か特別なことでも?」
「えっ?」
 走り出してから数分後。不意に、運転手さんが私に話題を振ってきた。
「あぁ⋯いや、もし話しにくいことでしたら別に話さないで構いませんけど」
「いえ、そんなものではないです。ただ単に会いに行きたい人がいるってだけで⋯」
「へぇー。でもこんな平日に行くくらいですし、その人にぞっこん・・・・なんですね。羨ましいなぁ⋯そういうの」
「えっ!?そっ、そんなんじゃないですよ!」
 いろはちゃんに言われた時以上に、私は焦った。
 だって、“運転手と客”という、車を降りたら終わるだけの関係の人にも、そんな風に言われるとは思っていなかったから。
「いやいや。よっぽどの人じゃないと、なかなか平日に会いに行こうだなんて思わないですよ?」
「そ、そうでしょうか⋯」
「そうです。そういうもんです」
 それからまた数分の間。車内に沈黙が流れた。
「私、少し迷ってることがあるんです」
 自分の中にある気持ちを吐き出したくなった私は、その沈黙を破って話を切り出した。
「これから会いに行く人は、私だけじゃなくて、皆を照らす太陽のような人なんです。だから、私の気持ちをぶつけるのは迷惑なんじゃないかなって⋯」
「それに、それを口に出したせいで色々なものが壊れてしまうんじゃないかって思うと、少し怖いんです」
 私のその問いに対し、運転手さんは少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「アタシは深い事情を知らないから、あんまり無責任なことは言えないけどね⋯」
 と、前置きをした上で──
「迷ってるんだったら、あたしはやるべきだと思う」
「もちろんリスクリターンの計算はあると思うけどさ、目の前に相手が居て、伝えるチャンスが転がってるなら、やらないのはもったいないなって思うよ」
「まあアタシの場合、女っの少ない職場だから、色恋いろこい沙汰ざた関係は余計にそう思っちゃうのかもしれないけどね。ハハハ!」
「砂原さんは、医療関係のお仕事をされているんでしょう?ご自宅と診療所が併設されてましたし」
「はい。看護師をやっています」
「だからなのかもしれないね。奉仕の精神っていうの?そういうのが染み付いちゃって、自分よりもまず他人に気をつかっちゃうんだろうね」
「それは⋯確かに、そうですね」
 さすがはタクシー運転手、と言わざるを得ない観察力だ。
 私の中で思い当たる節がいくつも出てくる。
「別に悪いことじゃないし、立派なことだとは思う」
「でもね、それと同じくらい自分を大切にしないと、いつか砂原さんが疲れちゃうよ」
「だからさ、もう少しくらい自分勝手に生きても良いんじゃないかな?」
「自分勝手に⋯⋯生きる」
 両親の志を受け継ぎ看護師になったこと。
 松林先生に皆の“家”になって欲しいと言われたこと。
 どちらも私にとって誇りに思えることだし、そのために命をかけるに値するものだ。
 でも、それだけが今の私の全てではない。
 もうすぐ別れることになる一運転手の一言に、私は目からうろこが落ちたような気持ちになった。
 私はもう少し、自分のことだけを考えて生きても良いのかもしれない。

「ありがとうございました」
 バス停に着いた私は、トランクからキャリーバッグを出し、代金を払って運転手さんに一礼をした。
「毎度。じゃあ、頑張ってね・・・・・砂原さん」
「えっ!?ちょ⋯」
 そう運転手さんは意味深な言葉を言い残すと、そのまま車を走らせて行ってしまった。
「今日2度目ね⋯この流れ」
 それから私は、バスのトランクルームにキャリーバッグを預けて、予約していた席に着席した。
「はぁ⋯やっと落ち着けるわね」
 ここに来るまでにも休む隙間がなかったわけじゃないけど、いろはちゃんと運転手さんに情緒じょうちょを揺さぶられたこともあって、あまり休めた心地はしていなかった。
 車内には私の他にも何人か乗客はいるものの、これといった物音はほとんどなく、絶え間なく聞こえてくるのはバスのエンジン音だけだった。
「ふわぁ⋯」
 急激に高まってきた眠気と共に、私は小さくあくびをした。そしてリクライニングシートを少し倒し、バッグを両手で抱えながら軽く横になった。
(明日、どうしようかしら⋯)
(ホテルにチェックインして⋯劇場に行って⋯司令さんや皆に会って⋯⋯)
 それからどうしよう⋯帝都観光はするけど、それ以外はどうしたらいいものか。
 いや、違う。
 本当はどうしたいかなんて決まってる。
 また私は、自分よりも他人を優先する前提でこれからの行動を選択をしようとしている。
 いよいよ眠気が強くなり、私の意識も途切れ途切れになってきた。
 ウトウトしている内に車内アナウンスが聞こえてきた。だが、今の私の耳にその内容はほとんど入ってこなかった。
「明日は⋯自分のや⋯たいこと⋯⋯や⋯んだ⋯⋯」
(もっと自分勝手に⋯もっと欲張れ、私⋯⋯)
 おぼろげな意識の中で、ただそれだけを心の中で思いながら、程なくして私は、明日への期待に胸を膨らませながら眠りに落ちた。
 

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