幕間 祝事は傾きて奇をてらう理由なし
太正101年8月11日。
帝都での活動がひと段落した猿沖なおは、中国地方へと戻ってきていた。
今春の帝都公演が終わった段階で、しばらく帝都を離れることを前々から決めていたのだ。
大厄災以降、吉良時実首相の政策によって興行としての芸能活動は、大帝國華撃団B.L.A.C.K.を除いて禁止されていた。
帝国華撃団による日本奪還が成されるまでの16年という歳月は、大衆芸能の世界を錆びつかせるには充分すぎるほどの時間だった。
なおの夢は猿沖一座の女歌舞伎をもう一度蘇らせ、自身も役者としてその名を日の本に知らしめること。
活動禁止が解けたとはいえ、帝国歌劇団とB.L.A.C.K.の影響力が浸透し切っている現状も考慮すると、歌舞伎を始めとした多くの大衆芸能が復興するには、課題となる障害は多い。
役者たちと客層の高齢化、純粋な需要の減少──
そういった事はもちろんだが、なにより深刻だったのは、次世代の後継者が不足していることだった。
ここ1年、なおは暇を見つけては歌舞伎役者として共に舞台に立つ仲間を探すために奔走してきた。
そんな生活をほぼ休みなく、長く続けたことが祟ったのか、鳥取県に足を運んだ際に高熱で倒れてしまい、ここ3日ほどは砂原診療所のベッドの上でお世話になっていた。
「体調の方はどうかしら?なおちゃん」
「おかげさまで大分良くなってきたぜィ。いやァ、本当にかたじけねェ」
「いいのよ。私の仕事はそのためにあるんだもの」
ありのはなおの額に向けて、体温計をかざす。
ピッという小さな音と共に、36.4という数字が表示される。それを見て、ありのはニッコリと笑った。
「もう熱もないし、そろそろ大丈夫みたいね」
「でもあと2,3日はゆっくりした方が良いわ。今また無理をしたらすぐに倒れてしまうわ。もちろんすぐにとかの話じゃなくて、そもそも無理はして欲しくないし、倒れないようにもして欲しいけれど⋯」
「はい。それはもう本当に、肝に銘じておきます」
ありのの表情を見て、本気で心配していることを感じ取ったなおは、普段の台詞回しをやめ、真摯に答えた。
「うん。じゃあ私は他の方の検温に行ってくるわね」
そう言って、ありのはなおの居る個室を後にし、室内には再び静寂が戻った。
「とはいえ、どうしたもンか。随分と暇になっちまったねェ⋯」
まだ午前中。日も登りきっていない時間帯だが、だからと言って夏の陽気真っ盛りの外に出るのも億劫だ。
それに、万が一暑さに当てられて倒れでもしたら元も子もない。なにより、ありのにどれほどの圧をかけられるか分かったものではない。
「しょうがねェ!もう一眠りするしかねェか⋯」
午後の昼下がり。病室の窓から差し込む陽光の眩しさに、なおは目を覚ました。
「眩しいな⋯カーテン、閉めないと」
そう思ってなおは眠気の残る身体をなんとか起こし、視界や枕元に光が直接入らなくなる辺りまでカーテンを引いた。
現状他にやることもないなおは、そのままベッドに戻り腰をかけるが、一度身体を動かしてしまうとやはり眠気は飛んでしまうもので、横にはならず、そのままボーッとしていた。
診療所内から響く僅かな環境音と、近くの電信柱で鳴いているセミの音だけが流れていく。
思えばこの1年弱の間、こんなにゆったりとした時間を過ごした記憶がなかった。
ところ構わず辻歌舞伎をしたり、人と話すときも傾いている自分。それがいつの間にか素の自分と変わらないくらい当たり前になってしまっていたけれど、時にはその仮面を外して休むことも大切なんだなと、なおはそんなことをぼんやりと思いながら、過ぎゆく時間に身を任せた。
陽が傾き始めた頃、診療所の1階がなにやら少し騒がしくなった。どうやら数人のグループが診療所に入ってきたらしい。
そしてその音は、ほぼ途切れることなく2階まで登ってきた。そうして間もなく、なおの居る個室のドアが開かれた。
なおはドアの方に視線を向ける。
そこには“いつもの”3人がいた。
「あーいたいた。なお、元気かー?」
「なおちゃん。お見舞いに来たわよ」
「なお。先程ありの殿にも伺いましたが、体の方は大丈夫なのですか?」
数ヶ月ぶりに会う3人の姿を見て、雫が頬を伝うことはなかったが、なおは目頭がジワっと熱くなるのを感じた。
「もえみっち、まとっち、きょうこ⋯」
「なおが倒れたってありのんから聞いて、心配で来ちゃったんだぞ」
「うふふ⋯もえちゃんたら。まさしく愛ね♡」
「いやぁ〜皆には心配かけちまったみたいだな。ただありのさんのおかげで、もうすっかり元気になったってもんよ」
「そうか、それなら良かったぞ」
元気そうななおの様子に、もえみはニカッと笑った。
「ところでなおはどうして鳥取に?」
まとはなおに疑問を投げかけた。隣県まで出向く理由とはなんだったのか、と。
「ほら、アタシが去年から一緒に女歌舞伎をやってくれる人を探し回ってたのは知ってるだろ?そんで鳥取にいる子から是非やってみたいって連絡をもらったもんだからさ⋯」
「嬉しくて、すぐに会う約束を取りつけて、ロクに寝ないまま出発しちまったんだ。そしたら途中でクラッと来ちまってまァ⋯ご覧の有様さ」
「なるほど。そうだったのですか⋯」
「なおちゃんらしいわね。でもね、どれだけなおちゃんの歌舞伎愛が深くても、まずは貴女が健康でいることが第一なのよ。そこを間違えちゃダメよ?」
「あはは⋯ありのさんにも同じようなこと言われたよ」
ありのに続いてきょうこにも指摘されてしまったなおは、小恥ずかしく笑った。
「でも最近、芸能活動の制限が無くなった影響なのか、少しずつ歌舞伎に興味を持つ人が増えてきてるんだ」
「見るだけじゃなくて、やってみたいって人もボチボチ出てきてくれて、そうしたら居ても立っても居られなくなって、ジッとなんてしてらんねぇって気持ちになっちまうんだ」
「でも今回のことで身に染みたよ。歌舞伎はどこにも逃げねぇ。自分が一歩一歩近づいて行くだけなんだって。なら無理して今急ぐ必要はないってな」
そう熱く語るなおの言葉は、抑揚のついた普段の調子の良いものではなく、自分の気持ちを一つひとつ確かめるような、静かで力強いものだった。
「なお⋯」
「なおの気持ちは良くわかったんだぞ。ところでさ⋯」
しばらく黙っていたもえみだったが、突然、神妙な面持ちで話を切り出した。
「ところで、なんだ?」
「おにぎり食べてもいい?」
「は?」
「も、もえみ殿⋯」
もえみの突拍子もない言葉になおは呆気に取られ、まとは分かりやすく落胆した。
「な⋯」
「なんでいなんでい!人が真面目な話をしてたってェのによォ!」
「あら、いつものなおちゃんに戻ったわ」
「いやーあんまりお腹にご飯入れないで来たもんだから、お腹すいちゃって⋯」
「あ、そうそう。今日がなおの誕生日ってこともあって、近くのお店でケーキとかも買ってきたんだぞ!」
もえみはリュックから取り出したおにぎりを頬張りながら、ケーキの箱が入った紙袋をなおに見せる。
「そういや今日は11日か。ずっと同じ部屋で過ごしてたもンだから、曜日感覚が無くなっちまってたぜィ」
「ちょっと早いけど、快気祝いも兼ねて誕生日⋯」
「あらあら⋯どこで、なにを始めるつもりかしら?もえみちゃん?」
突然割り込んできた声に、もえみは背後にただならぬ気配を感じた。そしてもえみはこの声の主を、気配を知っている。
「あ、ありのん?!い、いつからここに?」
もえみが恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのはやはり砂原ありの、その人だった。
ありのはいつもと変わらない柔和な表情を浮かべているが、放つ気配は憤怒の様相を呈していた。
「病室内での飲食の持ち込みは原則禁止よ。ましてやパーティーを開こうなんて⋯」
「思ってないわよね?」
口調も至って丁寧だが、何故か圧を感じる。
「ま、まさかぁ〜⋯そんなことするわけないんだぞ!」
「そうよね。でもとりあえずおにぎりとケーキは病室から出さないといけないから⋯」
ありのは右手でもえみの上着のフード部分をガッと掴み、そのままもえみを病室の外へと引っ張っていく。
「さあ、もえみちゃん。こっちに行きましょうね〜」
「だ、大丈夫だぞありのん。一人で行けr⋯」
「あら?⋯何か言いましたか、もえみちゃん?」
「⋯⋯い、いえ⋯なんでもないです」
もえみの姿が次第に遠くなっていく。
その様子を見て、残された3人は、診療所では決してありのに逆らってはいけないのだと、改めて強く心に刻んだ。
その後、もえみはありのに厳しい注意を受けた後、診療所の掃除を手伝わされることとなったが、その日の夜に、なおの誕生日パーティーは診療所内の飲食スペースで無事開かれ、なおの太正101年8月11日は幕を閉じた。
2日後、全快したなおは砂原診療所を退院した。
そして再び、会う約束を取りつけていた人物の元へと向かうのだった。
歌舞伎がまた日本を代表する大衆芸能として、表舞台へと返り咲くその日のために──
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