幕間 大人と少女の間
「ひめか様、ここにおられましたか」
新帝国劇場の倉庫内に、1人の男性の声がこだました。
「明日の件についてですが、滞りなく準備が完了しましたことをご報告申し上げます」
声の主は天神家の執事の1人だった。
「わかりました。皆に今夜は早めに休息を取るよう通達を。貴方もご苦労様です。もう下がって良いですわ」
「かしこまりました。では失礼致します」
執事はひめかに丁寧にお辞儀をすると、無駄のない所作でその場を去っていった。
「あれからもう半年ですか⋯」
ひめかは目の前に鎮座している自身の霊子ドレスを見つめながら、小さく呟いた。
日本奪還を成し、そこから復興作業で数ヶ月使ったのを最後に、霊子ドレスはこの倉庫で眠りについていた。
矛と盾、真逆の性能を持つ2機の霊子ドレスは、使われなくなって久しい今日でも、ふうかの行き届いた手入れによって、今もなお以前と変わらぬ輝きを放っている。
近く新生・帝国歌劇団の出発公演が控えているため、ひめかは今年の天神花見およびその武芸試合の開催を見送った。
霊子ドレスが再び争いに使われる日が来ないこと。それが最善であることは言うまでもなく理解しているが、それでも共に戦場を駆け抜けた相棒を纏う機会が無くなったことが、ひめかは少し寂しかった。
“九州の盾”たる天神家を象徴するような[守星]の大盾を愛おしげに軽く数度さすってから、ひめかは倉庫を後にした。
時刻は既に夜の10時を過ぎ、今、この劇場にはひめかしかいない。
新帝国劇場の関係者用通路を1人歩く、ひめかの足音がこだまする。
(年柄もなく、未だにこういうのは少しワクワクしますわね)
常に大人たちに囲まれて育ったひめかにとって、誕生日前日の夜に、家以外の場所に1人で居ることは今年が生まれて初めてであり、それはとても新鮮な感覚だった。
「ひめか姉さま!」
廊下の向こう側から、ひめかの耳に、自身の名を呼ぶ聞き馴染みのある声が聞こえた。
顔を上げると、視界の奥に那智みうめの姿があった。
「こんな夜遅くにどうしたのです?みうめ」
ひめかは歩み寄りながら、みうめに問いかけた。
「お部屋に姉さまが居なかったから探しに来たの」
「それはまたどうして?」
「今日はその、姉さまと一緒に寝たかったから⋯」
「しょうがないですわね⋯」
(みうめが小さな時には何度か一緒に寝てあげたことはありましたが、十を過ぎても言われるとは思いませんでしたわ)
そう思いつつも、きっと何かあったのだろうと思い、ひめかはみうめの行動を咎めることはしなかった。
「嫌な夢でも見たのですか?」
ひめかはみうめの左側に並んで歩きながら、先の件の理由を聞いた。
「うん⋯」
豪族の令嬢とはいえ、みうめもまだ11歳の子ども。
理由は案の定、年相応のものだった。
「どんな夢でした?」
「みうの飼ってたパンダが居なくなっちゃう夢。みうにはすぐ夢だって分かったけど、悲しくなっちゃって⋯ちょっとだけ、だけど」
みうめは少しだけ強がってみたが、予防線を張って取り繕うような内容と彼女の表情から、大きなショックを受けて気が落ち込んでいることは明らかだった。
「そうでしたか。それなら仕方ないですわね」
飼っていた動物が死んでしまうのは悲しいことだ。
それに大きな愛情を注いでいたのなら尚更。
かつて“タカミ”という名の犬と共に幼き時を過ごしたひめかは、その事を身をもって知っている。
「わかりました。ただし、一緒に寝るのは今夜だけですわよ?明日になったらしゃんとするのですよ?みうめ」
「やった!ありがとう、ひめか姉さま」
みうめの屈託のない笑顔を見て、ひめかはかつてタカミを失った時の自分と重なったような気がした。
(あの時の私も、きっとこのような感じだったのでしょうか⋯)
「そうだ姉さま。明日の朝、一緒に行ってもいいですか?」
「構いませんが、会場に着いたら人員の配置や段取り等の確認があります。あまり一緒には居られませんわよ?」
「はい、わかっています」
明日は太正101年4月2日。ひめかの誕生日である。
例年、九州の天神家本邸で祝われる誕生日だが、今年はひめかが帝都に滞在している関係上、帝都で開かれることになった。
パーティーが開かれる場所は第十三地区。
出席者には歌劇団の団員や各界の著名人だけでなく、第十三地区の住民たちも含まれ、広く開かれたものとなっている。
第十三地区はここ半年程でだいぶ再開発が進んだが、他の地区と較べると未だ充分とは言い難く、貧困層も少なくない。
故に、明日のパーティーはそこで定期的に行われている炊き出しの延長線上のものとしての役割も兼ねている。
それは、天神家の人間としての“華族の義務”であると共に、咲良なでしこを始めとした、かつて反政府勢力として活動していた人々の受け皿となってくれていたことへの感謝の意を表すものでもあった。
それから少し歩いて、2人は滞在しているホテルに着いた。
地方から来た団員や研究生は、寮や周辺のアパートを借りて住むことがほとんどだが、ひめかやみうめなど、社会的地位が高い身分に属する団員の何人かは、親などの意向もあり、警備の行き届いた、いわゆる“お高めな”場所に住んでいる。
フロントから鍵を受け取ってエレベーターで上階へ上がると、【106】と書かれた表札の部屋の鍵を開けて中に入った。
部屋の中は、目に優しい柔らかな暖色の光に包まれており、ベッドに倒れ込んだらそのまますぐ眠りにつけそうな雰囲気を漂わせている。
「お風呂に入って歯を磨いたら、すぐに寝ますわよ」
「はーい」
ひめかの言葉を受けたみうめは、就寝の準備をするために、すぐさま自分の部屋へと戻っていった。
天神家の名代として仕事と、帝国歌劇団の双方を日々両立させているひめかにとって、休息、特に十分な睡眠時間の確保は大切なことである。
翌日に向けて、気力・体力を十分に回復させるためにもダラダラと夜更かしはできないのだ。
お風呂から出て一通り準備を済ませたひめかは、みうめが部屋に戻って来るのを待っていた。
「途中何度かトラブルもありましたが、なんとか無事間に合いましたわ。後は明日、何事もなければ良いのですが⋯ね、タカミ?」
ひめかは、自身の側に置いてある犬のぬいぐるみに向かって、頭を撫でながら今日までにあった苦労を語りかけた。
そのぬいぐるみは、九州にある本邸から帝都決戦に向かう際にお守り代わりに持ち出したもので、かつて天神家で飼われていた番犬“タカミ”の名を継いだ、ひめかにとっての宝物の1つである。
愛おし気にタカミを撫でていると、コンコンと部屋の扉からノック音が鳴った。
「今開けますわ」
ひめかはソファーから立ち上がり、入り口まで行って扉を開けると、そこには寝間着に着替えたみうめの姿があった。
その出立ちは、いつも前髪に付けている髪留めや両サイドを結んでいるゴムがなく、ひめかと並ぶと本当の姉妹と見間違うほどだった。
「じゃあ、寝ますわよ」
「うん」
ベッドの上に体を横にし、お腹が冷えないよう掛け布団を1枚かけてから、ひめかはベッド横のサイドテーブルに置いてあったリモコンで部屋の電気を消した。
それから程なくして、みうめはスゥスゥと寝息を立て始めた。
そしてその様子を見届けて、ひめかも静かに目を閉じた。
だが、ひめかの意識が夢の中に消えるのを、胸の奥に感じる謎の高揚感が少しだけ阻害していた。
(不思議と胸がドキドキしますわね。でも、緊張している時のものとは少し違うような感じですわ)
緊張が要素に絡んでいる可能性はゼロではないが、ひめかには、それとはどうも違うような気がするに感じられた。
(明日に対して、私は何を感じているのでしょうか⋯)
そう自分自身に問いかけたひめかだったが、頭の中に真っ先に浮かんだビジョンが、その答えをすぐに示してくれた。
(ああ、そうでしたか⋯)
ひめかの頭に浮かんだのは、帝国歌劇団の皆の顔だった。
(私は、明日が“楽しみ”なのですね)
幼少期はもちろん、年頃の少女となってからも、天神家の名代として催し事がある度に準備や当日の立ち振る舞いに追われ、誕生日というイベントは純粋に楽しめるものではなかった。
両親からのプレゼントや、執事たちのお祝いの言葉が嬉しくなかったわけではない。だが知らない誰かから送られる賛辞に対しては、その場の空気を壊さぬよう、失礼に当たらない言葉を捻り出すことを考えるだけで、ありがたみを感じることはなかった。仕事上顔見知りになる必要はあっても、プライベートで仲良くするような間柄に発展する人もほとんどいなかった。
だからひめかにとって誕生日とは、祝い事というよりも、仕事であり義務である側面の方が遥かに大きかった。その日が良いものだったかどうかは、楽しさや嬉しさではなく、天神家の人間として正しい振る舞いができたかどうかだったのだ。
だが明日の誕生日は今までのそれとは違う。主催としてパーティーを取り仕切る役割はあるが、それで終始するわけではない。何よりも、かけがえのない友人たちが多く出席してくれる。そこにはきっと、天神家名代としてではなく、1人の少女に戻れる瞬間が存在する。
(ふふ、パーティーでここまで気持ちが昂るのは、もしかしたら初めてかもしれ⋯ません⋯⋯ね)
自分の気持ちを自覚した途端に、ひめかは急な眠気に襲われた。
日々の疲労に、謎の感覚の正体が判った安堵感が相まって、張り詰めていたものが一気に弛んだのだろう。
明日はきっと、良き一日になる。
そう確信し、ひめかの意識はそのまま夜の闇の中に溶けていった。