幕間 紅と紫、八重に織りて相と為る
「『生駒やえ七段、勢い止まらず。挑戦者決定戦も快勝!女性棋士初の名人位獲得なるか!?』か⋯ふぅん、なるほどねぇ⋯」
土方べにしは手元のテーブルの上に置かれていた新聞を手に取り、そこに載っていたやえの記事を何気なしに音読した。
太正101年の春に行われた、新生・帝国歌劇団の出発公演の期間が終わった後、再び将棋の世界へと舞い戻ったやえは、以前よりも一層深みの増した棋風で常にトーナメント上位に食い込み、獲得タイトル数を着実に増やしていた。
「調子は良さそうだね、やえ」
べにしは新聞を元あったテーブルに放り投げると、同室している1人の女性に声を掛けた。
「それはどうも」
声を掛けられた女性は、抑揚のない、事務的な声で返事をした。
「それより⋯なんで貴女がここに居るんです?」
その女性は他でもなく、生駒やえその人だった。
「なんでって言われても、フロントのお兄さんに言ったらすんなり鍵を開けてくれるもんだから、お言葉に甘えさせてもらっただけさ」
ここはやえの宿泊先のホテルである。
4月頭の名人戦の第1局が帝都で行われるため、やえはコンディションの調整と観光を兼ねて、先日行われた挑戦者決定戦を終えてからすぐに上京をしていたのだ。
やえが上京前に連絡を入れたのは大石のみで、それ以外の人物には周知した覚えはない。このタイミングでやえが帝都に滞在していることを知っているのは、大石以外ではせいぜい吉野山の道場を空ける際に、管理をお願いした数人くらいだ。
だから、べにしがさも当たり前のように、自分の許可なしに入室してソファーで寝転がっているのは当然として、そもそも帝都に居ること自体がおかしいのだ。
やえは少しの間、言葉を詰まらせた。
湧き上がってくる憤慨の念をそのまま言葉に乗せてぶつければ、普通なら気持ちはいくらか晴れるだろうが、その相手が土方べにしとなれば、その効果はあまり期待できない。
どんな口八丁手八丁でフロントを丸め込んだのかも少し気になったが、どうせ碌でもない内容だろうということは想像に難くなかったので、それを聞く選択肢はやえの頭の中からすぐに外れた。
「はぁ⋯もう良いです」
だからやえは、その他諸々の事も併せ、細かいことを聞くのは諦めた。
「わざわざ私の動向を探って帝都までやって来て、いったい何用ですか?」
「冷たいこと言わないでおくれよ、あたしたちは一緒に将棋を打った仲じゃないか」
「それはもうだいぶ昔の話です。それに、その勝負を一方的に投げたのは貴女ですよ」
「あぁ、そういやそうだったね。あの時は悪かったよ」
べにしは室内に置かれた将棋盤に目をやりながら、あまり悪びれる様子もなく言葉を返した。
「そんな昔話は置いておいて。私の質問に答えなさい、べにし。いったい何用でここに来たのですか?」
べにしは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「今日はやえの誕生日だからね、誕生日プレゼントを届けに来たのさ」
「は?」
「なんだい連れないねぇ。何も変なことじゃないだろう?」
「他の方でしたら素直に喜んでいます。しかし貴女となれば話は別です。何を企んでいるのですか?」
数え切れないほどの謀を行なってきたこの女の言葉など、額面通りに受け取ることなどできない。
やえの中には、当然のように疑心暗鬼の念が湧いた。
「あはは!まあ自業自得だけど、そんな邪険にしないでおくれ。本当さ」
べにしは横になっていたソファーから立ち上がり、服の襟袖を整えて服に付いた細かい繊維を軽く払った。
「とりあえず、何か食べにでも行こうか?」
部屋の時計を見ると、時刻は午前11時半を回ったところだった。
昼食を摂ることについては、べにしが同席すること以外は特別気にかける理由がなかったため、やえは、ひとまずべにしの提案に乗ることにした。
平日の午前中でも、帝都ではそこかしこに人が闊歩し、その波が途切れることがない。
「大阪もそうだけど、やっぱりこういう所は人の流れが速くて落ち着かないねぇ」
中には老人や親子連れもいるが、スーツを来た人や配送業者の姿が中心となって、忙しなく動いている光景が大半を占めている。
別に悪いことではないが、古風な街並みと、ゆったりとした時の流れを感じるような風情が薄い都市部の雰囲気は、べにしの肌には合わないものだった。
やえは表にこそ出さなかったが、べにしのその意見には内心同意していた。
地元奈良とは違う景色、空気、人の流れ。
それらに伴って起きる体感時間のズレは、自分のリズムを狂わせる要因となりかねない。だからこそやえは、対局地の環境に自分を慣らすために、早めに上京することを決めたのだ。
つまりもう、やえの中で名人戦は始まっているのだ。
「今日の主役はあんただからね。何か食べたいものがあるなら合わせるよ」
「では、あそこにしましょう」
べにしの問いに、やえは即答した。
やえは手に持っていた扇子で、数十メートル先の和食レストランを指し示した。
そこは昨日、チェックインのためにホテルへ向かう際に通り過ぎて気になっていた店だった。
程なくして店の前までやって来た2人は、店先に掲示されたメニューをパラパラとめくった。
メニューのビジュアルや値段を見る限り、その店はチェーン店のように見受けられたが、商品の写真は食欲を唆られるに足るものだったため、2人はそのまま入店することを決めた。
「ところで、前々からひとつ聞きたかったんだけどさ、なんで“プロ棋士”になったんだい?」
「それはどういう意味です?」
頼んだ品が届くまでの間、2人はセルフのお茶を啜りながら雑談をしていた。
「“女流棋士”の道もあったろう?名前を広めるにはそっちの方が速いし、奨励会と較べれば条件も緩い。それに、女流棋士だからといってプロ棋士の大会にも出られない訳じゃない」
女流棋士は、名前の通り女性の棋士を指すが、奨励会を経て生まれるプロ棋士とは別の枠組みの棋士である。
女流棋士にも相応の条件はあるが、女性のプロ棋士の数は女流棋士と較べて圧倒的に少ない。それは、奨励会の関門を潜り抜けてプロとなることがいかに厳しく、難しいことなのかを物語る何よりの証拠だ。
「私は名声のために将棋を打っているわけではありません。より強き相手との邂逅を求め、しのぎを削り、より高みへと至るために打っているのです」
「故に女流棋士が特別どうこうという訳ではなく、私がプロの道に進んだのは、それがただ私の夢にとって最短の道のりだったからに他なりません」
他界した祖父に託された願い。
夢一文字が書かれた扇子を手に盤上を駆け抜ける自分の姿が、現状だけでなく、次代の将棋の未来を明るく照らすことに繋がる。
そう信じるやえにとって、それ以外の余計な要素は必要ない。ただそれだけなのだ。
「⋯野暮なことを聞いたね」
せせこましい打算ではなく、常に己が目標に向けて合理的な選択を取り、そのための行動を粛々と実行できるのが生駒やえという女である。
期待通りの答えを返してくれたやえに対して、べにしは内心嬉しかった。
「お待たせいたしましたー」
気がつくと、テーブルの側に店員が来ていた。
注文した品がやえとべにし、それぞれの前に置かれ、和風出汁の美味しそうな匂いが2人の鼻をくすぐった。
「ではごゆっくりどうぞー」
そう言って伝票を置くと、店員はその場を去っていった。
「さ、食べようか」
「そうですね」
手を合わせて、『いただきます』と小さく呟いた後、割り箸を割って2人は黙々と食べ始めた。
会話をしたくない訳ではなく、両者共に食事に必要な事以外は喋らない環境で育ってきたため、無言になるのが必然であったというだけの話である。
またこの店の料理が予想以上に美味しく、箸がするすると進んでしまい、口の中が空く瞬間がなかったからというのもあった。
「チェーン店っぽかったし、関東の味付けは口に合わないかもと思ってたけど、存外に美味しかったね」
「ええ。また来ても良いと思いました」
会計を済ませて店を出た2人は、特に行く当てもなく歩き出した。
このままホテルに戻ってしまうのも味気ないと思い、少し歩いて駅前の百貨店に入ったが、特に目的の品があるわけでもなかったため、各階をブラブラと見て回ることになった。
その中でべにしが足を止めたのは、陶磁器の食器専門店だった。
「この徳利とお猪口⋯ちょっと欲しいねぇ」
「貴女、まだ一応未成年でしょう。お酒がどれだけ飲めるかも分からないのに、そんなものを買ってしまって良いのですか?」
「良いんだよ。こういうのは形から入りたいのさ、あたしは。それに飲まなくても良いインテリアになる」
(とは言っていますが、いったいどれだけ部屋に人を入れたことがあるのやら⋯)
長年撰新組の局長として、他者との対面には人一倍気を遣ってきたべにしが、プライベートな空間に人を呼ぶことなどはほぼなかったであろうことは容易に想像ができた。
「決めた、コレを買おう。帝都まで来て何も買わずに帰るのは勿体ないしね」
そう言ってべにしは、そのまま店員を呼びにレジへと向かった。
(呆れたものですね)
自身がどれだけお酒に強いかも分からないの買う非合理的な考え。
(それにこの徳利とお猪口は2人用のもの⋯どうせ持て余すのがオチです)
しかも1人で使うためのものでなく、その上それなりに値の張る良い物。
(でも⋯もし彼女が誰かとこれで酒を飲み交わす時が来たなら、それは一体誰になるのでしょうね)
司令だろうか?同い年以上の歌劇団の誰かなのか?それとも自分の知らない別の誰かなのか?⋯⋯
結論が出ない事を考えても仕方がないとは分かっていたが、やえは、その席に自分より先に誰かが座っている光景を想像すると、心の奥に漠然とモヤモヤとしたものを感じた。
だがそのような感情は決して表には出さず、べにしが会計を済ませる様をやえはじっと眺めていた。
「待たせたね。じゃあ行こうか。それともどこか見たいところはあるかい?」
会計を済ませ、べにしはご満悦の表情で戻ってきた。
「いえ、結構です。ホテルへ戻りましょう」
百貨店を出て、ホテルへの帰路に着くその途中で、やえは話を切り出した。
「貴女も、普通の女性らしい表情をするのですね」
「ぶっ!?な、なんだい藪から棒に」
やえの思わぬ一言に、べにしは飲んでいたペットボトルの緑茶を噴き出しそうになった。
「美味しいものを食べている時、色々なものを見て回っている時、欲しいものが買えた時⋯今日の貴方は、私の知っている普段の貴女とは違う雰囲気を感じました」
「そんなにあたしの事を見てたってのかい?」
「ええ。貴女と行動を共にしていたのですから、貴女を見る頻度が高くなるのは必然でしょう」
追い討ちをかけるような文言が繰り出され、流石のべにしも言葉を詰まらせる。
(さっきからとんでもないことを言うじゃないか。狙って言ってるのかい?いや⋯やえのことだから素で言ってる可能性も⋯)
だがその言葉の真意を本人に聞くのは、推測が外れようと外れまいとお互い気まずいことになる事この上ない。そう思って、べにしは喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。
「どうしました?顔が少し赤いようですが⋯」
「だ、大丈夫だよ!百貨店の中が存外に暑かったから、少しのぼせちゃっただけさ」
「なら良いのですが」
(て、てっきり私が何か変なこと言ったのではないかと⋯そう思ってしまいましたが、どうやら杞憂だったようです、よね?)
一応やえは、さっき自分がべにしに言った内容を思い出してみる。
(⋯⋯あ)
なまじ頭が切れることが仇となり、やえは、自分の言葉は捉えようによっては熱烈なメッセージとなってしまうことに気づいてしまった。そしてそれを、べにしが気づいていない訳などない事も。
それから2人は、どこか落ち着かない面持ちのまま、ホテルに着くまで言葉を交わすことはなかった。
「ふぅ⋯やっぱり部屋に戻ると落ち着くねぇ」
「いや、ここは私の部屋ですが」
ホテルに戻り、ひと息ついたやえは、今日1日心に引っかかっていた疑問をべにしに投げかけた。
「ところで結局、午前中に言っていた私への誕生日プレゼントとはなんだったのですか?先ほど買った陶器ではないのでしょう?」
やえの問いに、べにしは少し間を置いてから口を開いた。
「あの時の続き⋯しようか?」
その言葉に、やえに緊張が走った。
「そうですか、それが⋯⋯」
そう、それがべにしがやえに用意した誕生日プレゼントだった。
「あぁそうさ。割とついさっきまで、言おうかどうか迷ってたんだけどね。腹を決めたよ」
あの時の勝負──
べにしが『飽きた』と言って中断したあの1局。その決着を今日、べにし自身がつけようと言うのだ。
「もちろん勝負は最初から仕切り直し。今のあたしと今のあんたで改めてぶつかろうじゃないか!」
普段の飄々としたものではなく、確かな気迫と重みを感じる言葉だった。
「ひとつ、聞いて良いですか?」
「ああ」
「何故今更やろうと思ったのですか?」
「プロ棋士様に変な禍根を残しておいて貰いたくないというのがひとつ。そしてもうひとつは、そんなプロ棋士様に勝った無名の棋士が居たとなれば、あたしの経歴にも箔がつく⋯⋯ってところだね」
一見、悪意を感じるような理由だが、やえはそう思わなかった。
(この女は普段、のらりくらりと人を食ったような立ち振舞いをしますが、僅かな確率に期待しておこぼれを頂戴しようなどと、小狡いことを考えるような輩ではない)
「あの時の私とは較べものにならないくらい、今の私は強いですよ?それをわかって言っていますか?べにし」
「ああ、そりゃあもちろん。でも、あたしは負ける気なんてサラサラないよ?」
万が一ここでべにしに負けるようなことがあれば、近くに控えた名人戦の対局に影響を及ぼすことは必至。
だが、やえの中に逃げるという選択肢はなかった。
やえ自身が、この壁を乗り越えなければならないと、そう強く感じたからだ。
(どの道ここで負けるようでは、私に名人位を得る資格などありません。きっとべにしも⋯いえ、それ以上考えるのはやめましょう。全ては盤上で語れば済むことです)
「ちなみに言っておきますが、また千日手になど持ち込ませはしませんよ?」
「そこの所はご心配なく」
その言葉を最後に、2人は盤を挟んで向かい合う。
そしてすぐさま、バチッ!という盤上を叩く小気味の良い音が室内に響き始めるのだった。
後日、生駒やえは4月頭を皮切りに始まった名人戦を4-0で圧勝。女性棋士初の名人位を獲得し、翌年にはプロの最高段位である九段へと昇格を果たすことになる。