幕間 そういうこと

「最近、この更衣室の匂いが変わった気がします!」
 8月半ばの夕暮れ時。
 不意に、とある女子更衣室内に墨之宮すみのみやはつかの声が響き渡った。
「なんて言うか、すごくメスの匂いがするっていうか⋯」
「突然どうしたんだぞ、はつか。何を言ってるか全然意味がわからないんだぞ」
 ここは中国総督府1階西の女子更衣室。日本奪還後、はつかが中国地方総督となり、程なくして総督府には新帝国劇場の支部が併設された。それに伴って、使用頻度の少なかった庁舎の一部は、劇場を使用するキャストやスタッフ用の部屋へと割り当てることとなったのである。
 この更衣室はもっぱら中国花組が使用しており、ロッカーの表札にはネームシールが貼ってあるものもある。そのため、清掃員以外の人間が入ることはまずない場所である。
「ここは女子更衣室ですよ。雌の匂いしかしないのは普通なのでは?」
 犬飼いぬかいまとははつかの発言を不思議に思い、そう言葉を返した。
「甘いわね、まとちゃん。それじゃあせいぜい20点ってところね」
 だがそれは違うと、鳥部とりべきょうこは鋭く言葉を挟んだ。
「な、何故ですか?」
「女子更衣室で雌の匂いがするのは当然。では何故はつかちゃんがそこに違和感を感じたか⋯それを考えないとイケないわよね?」
「おーい、なんかさっきから言葉が生々しいんだぞ」
 そして数瞬の沈黙を経て、まとは1つの答えにたどり着く。
「はっ⋯!」
「どうやらわかったみたいね、まと」
「⋯つまりは、そういうことですか?」
「そう、そういうこと
そういうことねぇ〜」
 そう、つまりそういうことなのである。
「そういうことそういうことって⋯3人とも、さっきから何を言ってるのかわからないんだぞ」
「となると当然⋯この後はアレ、やるわよね?」
「やります。もちろん」
「その⋯ど、どうしてもやらないと駄目ですか?」
 2人に反し、まとはこれから行われるであろう行為に対して、あまり乗り気ではなかった。
「その反応は⋯もしかしてまとちゃん、貴女なのかしら?」
「え、いやいや違いますよ!そうわけではないのですが⋯そ、その〜普通に少し恥ずかしくですか?」
「まと。気持ちはわかるけど、これは絶対に確かめなくちゃいけないのです。これは最重要事項なの。総督命令よ」
「そ、そんな⋯!しょ、職権濫用ですっ!はつか殿!」
「諦めなさい、まとちゃん。それにあたしも個人的にみんなの見たいし。うふふふ」
「そういうのが嫌なんですよ!」
「ん?今から何をするんだ?」


「そもそもの話ですが、鍵のかかっているロッカーをどうやって開けるのですか?」
 この場にいない中国花組4人分のロッカー。それらは当然、漏れなく鍵がかかっている。そしてこれまた当然、本人が持っている鍵を使わなければ通常、その扉が開くことはない。
「どうやってって⋯それはもちろん“コレ”よぉ〜」
「きょうこさん⋯“ソレ”って」
 そう言ってきょうこが取り出したのは、どこからどう見ても紛うことなきピッキングツール一式が入ったケースだった。
「ほら、最近鍵も電子化が進んできてるじゃない?だからそろそろお役御免かなぁ〜って思ってたんだけど、ちょうど良かったわぁ〜」
((ってことはいつも持ち歩いてんの?この人。怖⋯))
「な、なら問題は解決ですね」
 内心冷や汗をかきつつも、はつかは努めて表情を崩さず話を進めることにした。
「じゃあ手始めに⋯」
 そう言ってはつかが最初に狙いを定めたのは──
「いろはから行きましょう」
「何故最初にいろは殿を選んだのですか?」
「全くあり得なくはないけど、最近の様子を見てても多分一番可能性は低いんじゃないかな。それに職業上、ロッカーの中は元々そういう感じだし」
「なるほど。可能性が低い上に、ロッカーだけでは判別も難しいと」
「じゃあ開けるわね」
 はつかとまとが話し終わるのを待って、きょうこはそう言って手慣れた手つきでロッカーを解錠した。
((ちょっと⋯この人手慣れすぎじゃない?))
 きょうこの淀みのないピッキングテクニックに、2人は再び恐怖した。
 もしかすると、日常的にこうした行為が我が身にも行われているのかもしれない。そう考えると、否が応にもゾクゾクと寒気が背筋を走った。
「何ボーッとしてるのよ2人とも。早く見ましょう?」
「そ、そうですね⋯」
「は、はい⋯」
 そうして開かれたいろはのロッカーの中には、練習着や試作品らしき衣装、またメイクセットを始めとした小道具がところ狭しと置かれていた。
「まあ、予想通りって感じですね」
「でもまたメイクセットがちょっと変わってるわねぇ⋯色々とお試し期間中なのね」
「「えっ?!」」
「⋯⋯あ!あらぁ〜嫌ねぇ、そんな気がしただけ。気がしただけよ?次行きましょ、次」


「次はなつみです!」
「2番目になつみちゃんを選んだ理由は?」
「なつみは絵に描いたような純情初心うぶタイプだから、そういうことがあっても不思議じゃない。けど、今は再結成したバンドの活動が軌道に乗ってきたところだから、そんな暇なさそうかなって」
「確かに。なつみ殿は今お忙しいですからね」
「じゃあ開けるわよ」
 きょうこは洗練されたうんで、軽やかになつみのロッカーを開けた。
「練習着と衣装と⋯制汗スプレーがいっぱい、ですね」
 それも1本1本全て違う匂いのもので、どれも少しずつ使用した形跡があり、中にはまだ未開封のものもあった。
「これは⋯」
「はつかちゃん、もしかしてこれ、“ある”?」
「いや、この前のライブでアンチから『クッッッサw汗臭い女マジで無理だゎーww』って煽られてめちゃくちゃ怒ってたらしいから、多分⋯その影響だと思います」
「あら残念」
「それに、なつみ殿は隠さずに相談するタイプでしょうし、はつか殿の情報と併せると、そういうことではなさそうですね」
「じゃあ、次に行くわよ」


「次は大本命⋯ありの!」
 はつかの宣言に、きょうことまとは無言で頷いた。一番そういうことになってそうなありのとあって、2人の顔にも緊張が走る。
 そしてきょうこは真剣な面持ちで、震える様子⋯など微塵もなく、手早くありののロッカーを解錠した。
「こ、これはっ⋯!」
 ロッカー内部の物量の多さに、はつかは思わず声を詰まらせた。
 そう、3人の目の前に広がっていたその光景とは──
 大量の菓子類と、お茶とコーヒーのパックの山だった。
 ロッカー下部の網の下には、マドラーやプラスチック製のスプーン、フォーク、ウェットティッシュやランチョンマットその他諸々のものが綺麗に整頓され、収納ボックスに収められている。
「いつも通り皆んなのお母さんだった!!しかも前より増えてる!!!」
 恐らくまとときょうこも同じ思いだったのだろう。はつかがそう叫ぶのとほぼ同時に、きょうことまとは手近な壁やロッカーにバンと右拳を叩きつけた。
(なんだよもぅっ!こっちは熱い王道展開になってるんだろうなーって思ってウキウキしながら開けたのにさぁ!なによ、この肩透かし感!勝手に期待してたのも悪いとは思うけどさぁ!!!)
 ありのが身近な人やスタッフにお茶菓子を配っている姿は、日頃から見かけられていた光景で、その備蓄倉庫としてこのロッカーを使っていたことは中国花組の中では周知の事実であった。
 だからこそはつかは期待していたのだ。食料倉庫と化したロッカーに劇的な変化が起きていることを。
 だがそこにあったのは、ある意味期待を裏切らない、安心と信頼の光景であった。


「ってことは⋯」
 本命と思われたありのも違った。
 となれば必然として──
「もしかしてこの中に“居る”⋯ってこと?」
 ここまで共通の話題で盛り上がった3人。だがここで、はつかの発言を皮切りに、改めて自分たちに白羽の矢が立つ。
「やっぱり⋯まとちゃん、なのかしら?」
「違いますよ!仮にそうだったとして、私は公共の場でそういう物は保管しません!」
「そういう貴方こそどうなんですか?ありの殿以外では一番その手のタイプじゃないですか」
「それはそうかも知れないけど、私はいつでも司令ちゃん一筋よ?」
「まあ、ロッカー見れば判るんだし、ちゃっちゃと開けちゃうわよ?そぉーれ!」
「あっ!」
「ちょっ!」
 はつかとまとが制止する間もなく、きょうこは勢いよく2人のロッカーの扉を開いた。
「あらあら⋯!」
 はつかのロッカーには、A4サイズの薄い冊子が積みあがった山。
 まとのロッカーには、怪しい猫の置き物を中心として、その周囲にはお守りが乱雑に飾りつけられており、一種の祭壇のような様相を呈していた。
「その⋯あらあら⋯じゃないです!」
「そうです。プライバシーの侵害ですよ!」
 はつかは肩を震わせ顔を真っ赤にしながら、まとは強い語気で怒りを露わにした。
「自分たちのことを棚に上げてないか?2人とも」
「そういうきょうこさんはどうなってるんですか?ロッカーの中は」
「どうなってるって⋯」
 はつかの当然ともいえる言い分に対し、きょうこは微塵も動じることなくロッカーの扉を開けた。
「当然、司令ちゃん一筋よ!」
 そうして開かれたロッカーの中には、大石の写真が所狭しと貼りつけられていた。だが、それ以外には特に目立ったものはなく、特に、匂いを発するようなものは見当たらなかった。
「あら⋯どうしたの?2人とも。いきなり黙っちゃって。私が司令ちゃんLOVEなのは別にいつものことでしょ?」
「い、いえ。なんでもないです」
「そ、そうね⋯」
 きょうこの一見まともなそうな文言に反して、まととはつかは若干青ざめていた。なぜならば、飾られていた大石の写真の約半分ほどが、自分たちもあまり見慣れない私服を着たものだったからである。
 はつかとまとは、きょうこに悟られないようアイコンタクトで意思を伝える。
(はつか殿。アレってもしかして⋯)
(ええ、ほぼ間違いなく盗撮でしょう。角度もバラバラな上に、変にブレてるのもありますし⋯)
(やっぱり、そうですよね⋯)
 
「でも困りましたね。そうなると、歌劇団以外のメンバーということでしょうか?」
「そうねぇ⋯いろはちゃん、なつみちゃん、ありのちゃん、ここにいる4人でもないとなると⋯あ!」
「「あ!」」
 そこまで来てようやく3人は気づいた。
 そう、もう1人いたのだ。まだ確認していない人物が。
 きょうこは、更衣室の奥の角に位置するその人物のロッカーの前まで行き、真剣な面持ちで扉を解錠した。
「まさかこんな結果になるとは⋯」
「そうですね。まさかのまさかでした⋯」
 開かれたロッカーの中には、可愛らしい下着や化粧品、香水などが綺麗に整頓されて入れられていた。
 言ってしまえばそれは、年相応の女性としていわゆる一般的な“ふつう”の域を出ない光景であったが、問題はこのロッカーが誰の物であるかということだった。
「はぁ~、今日も一日疲れたぜぇ!」
「「「あ⋯!」」」
 そう甲高い大きな声とともに、更衣室入り口の扉がギィと開いた。
「なんでぃなんでぃ、電気がいてると思ったら、はつかたちがこんな時間までいるなんて珍しいじゃあねぇか」
 日中の営業回りのせいか、少し疲労感が見受けられる表情と声で入ってきたその人物は、猿沖さるおきなおであった。
「ところでこんな時間まで何を⋯」
 そこまで言いかけて、はつかたちからの返答を聞く間もなく、なおは事態を把握した。
「まさかお前ら⋯⋯」
「み、み、み⋯見たのか!?」
「ま、まぁ⋯その、先っちょだけ、ね?」
「いや、ロッカーに先っちょとかないんだぞ、はつか」
 その後、なおの怒りをなるべく買わないよう、努めて丁寧に説得を試みた3人であったが、果たしてそれは叶わなかった。
 本来プライバシーが担保されている空間を暴かれたのだから、それに対してなおが冷静でいられる理由も、いる理由もなかった。
「お前らー!アタシをなんだと思ってるんだーーー!!!」
 もうすぐ陽も落ちようという頃、ひぐらしの鳴き声と共になおの怒号が辺りに響き渡った。

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