幕間 星を掴み取る方法
「うぅ〜寒い!寒すぎるよ!」
太正102年12月14日。帝都、新帝国劇場。
午後5時、最近は日が落ちるのも当たり前になり、帝都中の街頭が灯り始める頃。
冷え込みもいよいよ本格化し、今日に至っては雪がチラホラと降っているくらいだ。
しのは稽古を終えて劇場を出た途端、稽古で温まった身体と劇場内の温度の寒暖差に、思わず身震いしてしまった。
「それならば早く帰れば良い。誰か待ってるのか?」
「あ、プラナちゃん!」
程なくして、しのの後からやってきたのは統星プラナだった。
新生・帝国歌劇団は、1つの組織として統合はしたものの、花組とB.L.A.C.K.のグループ構成は依然健在であり、言わばアイドルグループ内のユニットのように共存する形を取っていた。
「今日はあせびちゃんの誕生日だから、一緒にどこか美味しいお店に行こうかなって思ってたんだけど、あせびちゃんなかなか出てこなくて」
「そうだったか。だが神子浜は『まだ残ってやることがある』と言っていたから、しばらくは出てこないと思う」
「えぇ!?今日も?」
ここ最近、あせびは毎日のように居残りをしていた。
「そんなぁ〜」
そういうストイックなところは実にあせびらしいと思うが、なにも誕生日まで⋯と、しのはガックリしてしまった。
もっとも、そのガックリの中には、自分が美味しいご飯を合法的に食べる理由を失ってしまったからという気持ちも半分含まれていたりするのだが。
その様子を見て、プラナはしのにある提案を出した。
「神子浜の代わりといってはなんだけど、私と一緒では駄目?」
「え、良いの?プラナちゃん」
プラナの提案に、しのは思わず驚いた。
「ああ。私もお腹が空いていたところだし、たまには他の人の趣向に沿ったものも食べてみたいから」
「何よりここでダラダラしてると、いつメイサに連行されるか分からないし」
「にしし、確かにそうだね」
新生・帝国歌劇団となっても、メイサのプラナに対する世話の焼きっぷりは相変わらずで、ありがたい反面、やや過保護な部分もあり、他の団員もプラナ自身もそのペースに巻き込まれることもしばしばあるほどだった。
だからプラナは、ここ最近はメイサから離れる口実を探して、他の団員に時折声をかけ、共に時間を過ごすようにしていた。
何よりそれによって得られる経験は、プラナ自身にとって、違う感性や視点に触れられる有益なものであるというのも大きかった。
「じゃあ、行こう」
「うん!」
性格も装いも生い立ちもまるで違うが、2人は不思議と会話の波長が合う。
その様子は、彼女たちが同じ血を分けた存在であると知らない人たちでも、仲の良い姉妹のような空気感を感じさせるものだった。
そしてしのとプラナの姿は、程なくして人混みの中へと溶け込んでいった。
それとほぼ時を同じくして、新帝国劇場内。
団員が皆帰路に着き、静まり返ったはずの場内の一角から、未だに響き続ける音があった。
「はあはあ⋯こんなんじゃ、ダメ」
(もっと、踏み込みは鋭く⋯!)
キュッ!キュッ!
(体全体を使ってダイナミックに!指先一本一本まで神経を通せ!集中を切らすなっ!)
バババッ!バッ!ババッ!
シューズと床板が擦れ、振り回した腕が空を裂く音がレッスン室の中にこだまする。
一連の動きを終え、ポーズを決めてから数秒後。
あせびは脱力してその場に座り込んだ。
そして、近くに置いていたスポーツドリンクが入った容器に手をかけ、汗だくなって渇いた身体を潤すべく、勢いよく口に流し込んだ。
パチパチパチ⋯と、部屋の入り口の方から小さな拍手が聞こえた。
「まぁ、アンタにしては悪くないんじゃない?」
あせびがその音がした方向を振り返ってみると、そこには最明クルミの姿があった。
「クルミ先輩⋯まだいらしてたんですね」
「アンタの方こそいつまで劇場に居座ってるつもり?もう9時よ?」
そう言われてあせびが室内の時計に目をやると、クルミの言った通り、時刻は既に夜の9時を過ぎていた。
「あ⋯⋯」
「連日頑張ってるのは認めてあげるけど、程々にしなさい?今年の年末公演までもう2週間もないんだから」
クルミの言うことはもっともである。
どの分野においても、本番までの体調管理というものは最重要項目。いかに質を上げようと努力しても、本番当日に身体を壊してしまっては意味がない。
「⋯だからです」
「もう時間がないのに⋯私はまだ、納得のできるところまでできたように感じないんです」
「それはそうね。クルミもそう思うわ」
クルミは率直な感想を述べる。
彼女には、こと評価を下す際において、オブラートに包むという優しさは存在しない。
時にはその厳しさが人の心を折ってしまう場合もあるが、それで挫けてしまう程度なら、そもそもが女優に向いていない。それがクルミの女優哲学なのだ。
それに、今目の前にいる女はどれほど辛辣な言葉をかけても決して挫けることはない。何度打ちのめされても立ち上がり、より強くなって歯向かってくる。そういう存在。
遠慮のない言葉を投げるのも、あせびをそう評価し、信頼しているからこそのものでもあった。
「だから⋯少しでも多く回数を重ねて、練度を上げておかないと不安で仕方がないんです」
「なるほどね。アンタらしいっちゃらしいわね」
「でも気に入らないわ」
「えっ!?」
この流れから来るとは思っていなかった一言に、あせびは思わず面を喰らってしまった。
「まず、満足なレベルに辿り着けると思ってるその考えが甘いったりゃありゃしないわ」
「クルミが今回この役を任せたのはね、納得してもらっちゃ困るからよ」
「神子浜あせび。アンタはもう練習量だけで納得できるような役をやる段階はとっくに終わってるのよ!」
相変わらず語気は荒いが、その内容はあせびに対する期待そのものだった。
「⋯⋯なるんでしょ?日本一の女優に」
「⋯はい!」
(そうだ⋯私は何を納得しようとしていたんだろう)
(ちょうどいい落とし所を見つけてしまったら、そこで止まってしまう。そうなってしまったらきっと、その先なんてない)
納得のいく落とし所を見つける。
無論、それ自体は決して悪いことじゃない。
だが、あせびが目指すのはトップの頂である。
二番手三番手甘んじるという選択肢はない。
ならば下手な納得感はかえって毒だ。
そこに安心して、停滞して、依存してしまう。
「だったらもっと飢えなさい。骨の髄までしゃぶり尽くしてもなお渇きを感じるほど、貪欲になりなさい」
「はい!」
クルミの言葉を受けて、あせびの目に、声に、より一層の力が入る。
2年前。かつてしのたちと袂を分かってB.L.A.C.K.に入ったのはそういう場に身を置くためだった。
(けど戦いが終わって、新生・帝国歌劇団になったことで、いつの間にかまたその決意が緩んでしまっていた)
「ふん。目が覚めたみたいね」
「そうよ。アンタはそれで良いのよ」
「アンタはしのやプラナとは違う。面の皮を一枚剥いだその下は、飢えた凶暴な獣なの」
「だったらその獣を飼い慣らして、貪欲に喰らいついていくしかないのよ」
「だってクルミたちには、その方法しかないんだから」
ずば抜けた才を持つ者に対抗するには、それ以外の部分で戦うしかない。
あせびがしのに対してそうだったように、クルミもプラナに対して感じていたこと。
故にその言葉には、積み上げられた確信と確かな重みがあった。
「はぁ⋯なんかどっと疲れたわ」
「まあそういうわけで、体ばっか動かしててもしょうがないって事。分かったらさっさと支度して帰んなさい」
そう言い放つと、クルミはレッスン室の入り口へと踵を返して歩き出した。
その様子を見て、あせびは立ち上がり、クルミに一礼をした。
「クルミ先輩⋯ありがとうございました!」
「はいはい。でも礼なんていらないわよ?」
頭を下げるあせびに、クルミは右手をヒラヒラと振っていなすように応え、あせびの方へと向き直った。
「だって日本一の女優になるのは咲良しのでも統星プラナでもアンタでもない!この最明クルミなんだから!そこのところ勘違いしないでよね」
そう言ってクルミは力強くあせびを指差した。
「クルミ先輩⋯」
「クルミがこのまま“演出家兼女優”なんてポジションで終わるわけないじゃない!」
「年末公演。しのやプラナばっか見てると、クルミが全部持って行っちゃうわよ?せいぜい気をつけることね」
そして『まあ気にしたところで結果は同じだけど』と言わんばかりの表情でクルミは出ていった。
演出家としての研鑽を積むために、昨年はそれに徹していたクルミだったが、今年の年末公演からは本格的に女優に復帰することになっていた。
当初は年始からの復帰も視野に入れていたが、彼女は最終的に年末公演で復帰することを決めた。
そちらの方がよりインパクトが強く、自分に相応しい舞台になると考えたからだ。
「ほんと、全くあの人は⋯」
クルミが出ていった後、あせびは小さな声で呟いた。
あせびは見逃していなかった。
頭を下げた時に、両膝に擦り傷があったことを。
あせびを指差した時に、普段している手袋がなく、手指にテーピングが巻かれていたことを。
「誰よりも練習してるのは、他でもないクルミ先輩じゃないですか⋯」
少し考えてみれば、それは何ら想像に難くないことだった。
自分と同じ時間まで劇場に残っていたということは、恐らく理由が同じだからだ。
いかに最明クルミといえど、復帰公演を自ら大舞台に設定したことにプレッシャーとリスクを感じていないはずがない。
傍目には普段通りに見えても、ブランクを埋めるために、現在進行形で相当な努力を重ねているのだろう。
そんなことを考えながら、あせびは荷物をまとめてレッスン室の電気を消し、廊下に出た。
少し歩いたところにある更衣室に入り、身体が冷えないよう汗をしっかりと拭き取ってから、ロッカーに入れておいた着替えに取り替え、コートを羽織る。
「今日は一段と寒いなと思ってたけど⋯」
道理で寒いはずだ。
劇場を出て空を見上げると、外は雪が降っていた。
「うぅ〜寒。早く帰ろ」
寒さに加え、連日の居残り稽古による影響で、帰る時は常に脚は重たくなっている。
だがあせびは、今日はその脚がいつもよりも気持ち軽く感じるような気がした。