幕間 輝きの中に秘めしもの
午前8時。
朝の静けさを切り裂くように、部屋にアラームの音が鳴り響く。
心地良い暗闇の中に溶けていた私の意識が、その音に引っ張られ、徐々に覚醒していく。
掛け布団の温もりと僅かに残った眠気が私に少し名残惜しさを感じさせるが、それにダラダラと付き合っていては無為に時が過ぎていくだけだ。
私は掛け布団を一気に取り去って上体を起こした。
いつも同じ時刻に起きて、いつも同じ朝食を摂り、歯を磨いて着替える。それは365日、変わることはない。
粛々とルーティンを実行するのは、女優として体調を管理をする上で重要な事だ。
「もう4月だというのに、今日は少し寒いな⋯」
私はジャージのチャックを胸元まで上げてから玄関を出た。
自宅を出てから数分ほど歩いて、いつも通っているジムに入る。
このジムでの運動も私の日課。
これはB.L.A.C.K.のレッスンとは別枠で、私が個人的にやっている事。
レッスンでは技術的な面を練習するが、私たちのレベルともなれば、わざわざ体力作りなどの基礎的な部分に時間を割くことはない。
研究生たちはまた別だろうけど、私たちはそういう段階をとうに過ぎている。だからこういった事は、各々が自己補完として個別にやるものとなっている。
「いらっしゃいませ、プラナ様」
受付の前にやって来た私に、男性スタッフが声をかける。
「今日も、いつものコースでお願いするわ」
「かしこまりました」
互いに慣れたやり取りを交わして、私はいつも使っている個室へ入った。
このジムは完全個室制のプライベートジムである。
主に他人の目が気になる人、もしくは私のように避ける必要がある人が運動をするための場所だ。
私は平日、いつもここで1時間半ほど運動している。
私がやるのは、主に体幹強化のための、インナーマッスルを鍛える運動だ。
舞台の上ではやり切るための体力はもちろんだけど、綺麗な姿勢でいることも魅せる上では重要なことだ。
トップスタァで在り続けるためには、こうした小さな積み重ねこそが重要であり、それが他との大きな差を生むことに繋がる。
何故ならば上位層の差は、才能や個性の部分を除けば、そういう所でしか出ないものだからだ。
特にここ2年で、咲良しのと神子浜あせびは着実にキャリアを積み重ね、名実共に私に迫りつつある。
最明クルミも演出家としての下積みがひと段落して、年末にはいよいよ本格的に舞台の上へ戻ってくる。
ならば尚のこと、努力でどうにかなる部分であれば、可能な限り詰めておくに越した事はない。
だが同時に、私の地位を脅かす者は、私がより高みへと昇る上で必要不可欠な存在でもある。
その母数が増えることは喜ばしいことだ。彼女たちを凌駕し続けようと思えることが、私のモチベーションを高く保つのだ。
「ふふ⋯」
「プラナさん、今何かおっしゃいましたか?」
運動中、ふと私はトレーナーに声をかけられた。
「い、いや何でもない。そのまま続けてくれ」
頭の中で自分の感情や思考をまとめていたら、どうやら声が少し漏れてしまっていたらしい。
自分の性格が明るいものだとは思っていないが、何事にも全くの無感動というわけではない。
ただ、世間一般にはそちら寄りのクールなイメージで通ってるらしいため、そのイメージが覆らないよう、私は内心少し焦りながら、表向きはいつも変わらない調子で取り繕った。
ジムでの運動を終えてシャワー室で汗を流した私は、そのままの足で新帝国劇場へと向かった。
今日は私の誕生日ということで、特別な公演が予定されている。
「あらプラナ。早いのね」
劇場に入ってすぐ、私は一目ミヤビと鉢合わせた。
「家に居ても特にやるべき事がなかったから、昼食も兼ねてね」
「そう。じゃあ私も一緒して良いかしら?ちょうど食べにいくところだったのよ」
「構わないわ」
「でもミヤビがエントランスに居るのは珍しいわね。この時間は大体、司令と一緒に奥で執務をしているでしょう?」
「そうね。でも最近はやらなくちゃいけないものも少ないし、ついさっき今日の分も一区切りしたで、今日はたまたまよ」
「なるほどね」
劇場内のカフェテリアに向かいながら、私たちは他愛もない会話をする。
程なくしてカフェテリアに着いた私たちは、店内奥の角のテーブル席に座った。
劇場が開場前のため、店内には劇場関係者以外の姿はなく、12時手前ということもあって、私たち以外には数人がまばらに座っているだけだった。
「プラナはここの喫茶店をよく使うの?」
「時々は」
「へぇ〜なんか意外ね。貴女、結構ストイックな印象だったから、こういう所はあんまり利用しないタイプだと思ってた」
「食べ過ぎないようにしてるだけで、極端に栄養価が偏らなければそこまで気にしてないわ」
「すみませーん」
互いに注文を決めたのを確認して、ミヤビは店員を呼んだ。
「はーい!ただ今お伺いします」
ミヤビに呼ばれた女性の店員は、キッチンの方で行っていた作業を止めて手早く手を洗うと、伝票とペンを手に取って私たちの席へとやってきた。
「ハヤシライスのサラダセットとホットコーヒー。ミルクと砂糖もお願いしますね」
「かしこまりました」
ミヤビが注文を頼み終える。次は私。
「私は⋯」
注文内容を口にしようとしたその時だった。
「プラナさんは、いつものですか?」
私は店員から言葉を挟まれてしまった。
「⋯え、ええ。それで頼むわ」
「かしこまりました。では失礼します」
注文を手際良く伝票に書き込んだ店員は、カウンターと戻っていった。
「いつもの?⋯っていう事は貴方、実は結構な割合でここに来てたりするのかしら?」
「か、勘違いしないで!わ、私は目立つし、毎回頼むのが一緒だから覚えられてしまっただけで、頻繁に来ている訳じゃないわ」
「ふぅ〜ん。まあそういうことにしておくわ」
待つこと10分ほど。
「お待たせしました。こちらハヤシライスと⋯」
「カレーの甘口。福神漬け抜きの大盛りとなります」
「あらあら⋯⋯!」
私の注文したメニューを見て、ミヤビは何か含みのある笑みを浮かべながら、言葉を漏らした。
「な、何か問題でもあるの?」
「いいえ、別に?」
ミヤビの真意を問いただそうとするも、案の定、彼女はそれを語る気はないらしい。
まったく⋯辛口のカレーが苦手なだけだというのに、何がそんなに面白いのだろうか。
「ええと、ご注文は以上で宜しかったでしょうか?」
「あら、ごめんなさい。ええ、大丈夫よ」
「ではごゆっくりどうぞー」
伝票を机の脇に置いて、店員は再びカウンターへと戻っていった。
私たちは特に言葉を交わすことはなく、「いただきます」と一言だけ呟いてから目の前の料理を食べ始めた。
途中何度かミヤビの視線を感じたような気がしたが、私は黙々とカレーを食べ切ることに集中した。
カフェの店員には後で色々と話しておく必要がありそうだ。それと多分、ミヤビにも。
昼食を食べてミヤビと別れた後、私は自分の楽屋に入った。
楽屋の中には、劇場のスタッフによって運び込まれたファンからのお祝いの品々が所狭しと並んでいる。
化粧台の方を見ると、他の品々を避けて置かれている1通の黒い封筒とケースが目に入った。
ケースを開くと、中にはダイヤモンドがあしらわれた一対のイヤリングが入っていた。
「今年も⋯か」
そう。この封筒は誕生日を始め、私がB.L.A.C.K.で|頭角を表し始めた頃から、何かがある度に欠かさず送られてくるようになった物だった。
スタッフが言うには、最初に送られてきた時からずっとこのセットなのだそうだ。
1ファンの正体など探ることはできない。だから、随分と熱心なファンが居るのだな、ありがたい話だなというところで認識を留めていたが、私は1年半ほど前に、首相官邸にて偶然その正体を知ることとなった。
そしてこれらの贈り物が、とある男の謝罪と贖罪なのだということを知った。
帝国華撃団によって日本奪還が成されてから、あと数ヶ月ほどで丸2年となるが、私は彼とどう向き合えば良いのか、未だにそれに対する明確な答えは出せていない。
だから私は、定期的に近況報告は聞いているものの、あの日以来彼には会っていない。電話越しに言葉を交わしたこともない。
彼は、血縁上は私の祖父であり、私を生贄に現世人類を滅ぼそうとした人物だ。
一般的な定義に当てはめれば、彼の行いは間違いなく悪に分類されるもので、私には彼との縁を切るのに申し分ない理由もある。
だが私は、彼を心の底から憎むことはできなかった。もっとも記録によれば、私は彼に何らかの暗示をかけられていたらしいから、もしかしたらその影響が残っているせいなのかもしれないが⋯⋯
彼と話せる日が来るのかは分からないし、そんな日はそもそもやって来ないのかもしれない。
けれど今は、変わらず弛まぬ日々を過ごすこと⋯そして今日は、先月の咲良しのを超えるパフォーマンスをすること。それが、私にできる唯一のことだ。
私の演技が、今の彼の心にどう響いているのかは分からない。
でも、きっとどこかで彼は私のことを見ている。この封筒が送られ続けてる限り、それだけは間違いない。少なくとも私はそう信じたいのだ。
だから私は──。